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第六十七回 打賭

 常安陥落の報が届いてから旬日を経て、劉幹将軍は羽林軍を率い出撃した。

 雪瑜の肝いりで新生された羽林軍は、石豹の鴉兵に勝るとも劣らぬ精兵である。

 皇帝の身辺を守るべきそれを送り出すのに、雪瑜は躊躇しなかった。

「ではまた後ほど、馮嘉隊長。手筈通りに」

「へえ。万事任せて下せえよっと」

 という軽い挨拶を交わして、自身の護衛として常に傍に置いていた馮嘉隊長ですら戦場に送ったのである。

 そうでなければ勝てない。

 持てる戦力の全てを戦場に送らなければ石豹にはとても勝てない。

 昭国にとってはこの上ない大きな賭けだ。


 雪瑜にしても、今回のことは恵徳妃や天香妃と敵対していた頃以来……否、その時以上の賭けだった。

 この世に怖いものはないと自負していたが、石豹と完全に敵対していることを思えば、自然と体がわなわなと震える。

 さらに頭の中では玲がゴチャゴチャとなにか捲し立てている。

 雪瑜はため息をついて、意識をそちらに集中した。

『なんだ、玲? 私は忙しいんだ』

『雪瑜! これでは陛下の身の安全が確保できない! 危険すぎるわ! ただでさえ病み上がりなのよ!」

『そんなことは分かっている。だが石豹を止める為には仕方がない。あの男は危険だ』

『貴方は陛下を愛しているのではなかったの!? いま貴方は陛下の身の安全より石将軍と戦う方を先にしている。考え直して!』

『必ずしもそうではない。全ては陛下の為を思えばこそ。ここを護衛で囲み偽りの安全を与えた方が危険だ』

『本当にそうなの? 私から見ればあなたは自分を脅かす敵を戦うための手段として、陛下を利用しているように見える。それは違うと言って雪瑜!』

 雪瑜は苛立って眉を顰めた。一瞬美しい顔が怒りで歪む。

『黙れよ、玲。こうなった原因はお前にもあるのだぞ。石豹の跳梁を許し私の昭国を脅かした原因がな!』

『雪瑜、昭国は陛下のものよ。貴方のものじゃない!』

『私と大家(ターチャ)は常に共にある。私のものは陛下のもの、陛下のものは私のもの。そして私の望みは陛下の望みだ』

『……!』

 玲は独り歩きを始めた自分の野心に恐怖した。

 恵徳妃を殺しや天香妃の追い出しまでは、自分の安全を確保するためと言い訳できたかもしれない。

 だが、ここに至ってそれは自分のささやかな望みや安全を守るためのモノではなくなっていた。

 彼女の望みもまた石豹と同じ。自分の国を手に入れようとしている。その為に皇帝さえ犠牲にしようとしている。

『や、やめて、雪瑜……』

『うるさいぞ。もう眠れ、玲』

『あなたがそうするなら……私にも考えがあるわ……』

『黙れ』

 強靭な意志の力で、雪瑜は無理やり玲の意識を精神の奥底へと押し込めた。


「……玲め。こんな時に余計な手間をかけさせる」

 しばらくして目を開けた雪瑜は軽い頭痛を覚えた。

 少し休みたいが、そんなことをしていては玲に体を取られるやも知れぬ。

 それにやることは多い。グズグズしている暇はない。

 彼女は玉蘭と亮を呼んで、身の回りの支度を急がせた。



 劉幹将軍が羽林軍を連れて出撃すると、後宮の出入りはますます厳しく管理されることになった。

 石豹が迫る中、皇帝と月巧妃の姿が消えた朝廷はかつてない異様な雰囲気に包まれていた。

 ことあるごとに不安を口にしたり、行く場をなくした子供のように苛立ちながら右往左往する官僚が日に日に増えていた。

 後宮と外界を遮断し、皇帝と臣下の面会を許さぬ焦螟のことを秦の趙高のようだと陰口を叩く者もいた。

 それでも大っぴらに彼を批判するものが現れないのは、雪瑜の存在が大きい。

 例え本人が後宮に引きこもっていたとしても、彼女の築いた勢力は依然として政治の場に君臨し、その筆頭と目される魏高輔は矍鑠としており、周囲の動揺をよそに黙々と職務をこなしていた。

 そうである以上誰も騒ぎ立てることはできなかったのである。



 だが、さしもの焦螟や魏高輔であっても、人の口に戸は立てられない。

 皇帝は病に伏しているという話は皇城の外に流出した。

 戦場にいる石豹にも『皇帝、病に倒れる』の報が届くと、石豹は身を乗り出して情報の確認を急がせた。

「本当か?」

「はっ。病は相当に重いようで、月巧妃が付ききりで看病しているようです」

「それが本当なら、いよいよわしに運が向いてきたな。このまま皇帝が死ねばそれは象徴的なものとなろう。仮に生き残ったとしても戦を続ける気力があるとは思えん」

 石豹にとって君側の奸を除くというのはただのお題目である。要は独立を認めてくれればそれでよいのだ。

 皇帝が倒れればこのままなし崩しに独立が認められる目もある。

「ただし、まだ事実かどうかは分かりませぬ」

「その通りだ、喫邪(シーシェイ)。わしとて恩がある陛下を殺したくはないが、いま攻撃の手を緩めるわけにはいかぬ。常安が落ち着いたら、次はいよいよ神都へ向かうぞ」

「はっ。これまで以上に砕骨粉身致します」

 そこまで言って、石豹は僅かに不安を見せた。

「お前は若いのに頼りになるわ。比べて石穆(せきしゅう)にこの常安を任せるにはいささか不安ではある、な……」

「ならば、石炎を呼ぶのはどうでしょう?」

「あやつか……」

 石豹の妾の子に対する感情は複雑である。

 嫌ってはいないが、正妻の子たちとは折り合いが悪いことが気がかりだった。

「石炎は不安がる民の気持ちをよく理解できる男です。兵権を与えろとは言いません。それでも民を治めるには役立つかと」

「うーむ……」

「石炎はくすぶっている現状を不満がっております。機会を与えてやってもよいのではないでしょうか」

「いいだろう。物は試しだ。お前がそこまで言うのなら。奴に石穆(せきしゅう)の補佐をさせてみるか」

「はっ。石炎も喜ぶでしょう」


 こうして宗靖は石豹を説得して、石炎を大蘭から常安まで呼び寄せることを許された。

 石豹の命令を伝える使いの者に宗靖はそっと言い添える。

「石炎に会ったら伝えてくれないか。喫邪(シーシェイ)が、“嵐”を私の所に連れてこいと言っていたと」

「へえ?」

 使いの者は一瞬怪訝な顔をしたが、宗靖が銭を握らせて念を押すと、それ以上何も言わずに頷いた。

「へえ。なんのことだか知りませんが分かりましたよっと」

「頼んだぞ」

 もし、このまま石豹軍が神都まで雪崩れ込めば、玲と対面することはあり得る。

 その時にあいつの力がいる、と宗靖は考えていた。

「……だが、目の前のことも重要だ。まさか欧陽乙殿と戦う羽目になるとは。父上も来るかも知れぬ。何の因果なんだか……」

 ぶつくさと呟きながら宗靖は踵を返す。


 数日後、石豹軍は石穆(せきしゅう)に常安の守りを任せ、龍鳴関へ、そしてその先にある神都へ進撃を開始した。


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