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第六十六回 斉天

 朝議の席で倒れた風演は、後宮に閉じこもってしまった。

 焦螟は普段にも増して後宮を厳重な警備下に置き、あらゆる出入りは記録され、許可なくば皇帝に近づくこともできないという状況になったのである。

 さらにその後宮内でも直接風演に会えるのは焦螟と月巧妃のみであり、皇帝の身辺の世話をする為に雪瑜の姿もまた人々の目から消えた。

 つまり外部から皇帝の病状を伺うことはできなくなり、皇帝は現在病み臥せっている、という情報だけが外には伝わるようになったのである。


 都に迫りくる石豹軍。病み伏した皇帝。官僚たちは昭国の終焉を肌で感じ、慄いた。

 戦に負けるならまだよい。だが常安の戦い以降、昭軍は抵抗の気力すら失い戦わずして城を明け渡す事例が続出していた。

 この危機的な状況下でまず動いたのは月巧妃の父である節度使・欧陽乙である。

 任地から兵を率い、また昭軍の敗残兵をかき集めて何とか軍を再編すると、石豹が神都へ至る為の最大の要衝、龍鳴関に陣取り迎え撃つ構えを見せた。

 一方朝廷からも曹貫に代わって、軍の改革に尽力して信頼の厚い劉幹が新たな大将として派遣が決定した。

 欧陽乙も劉幹もどちらも地味で派手さはなく、出自が良いわけでもない為、月巧妃が関わる前は出世の本流からは外れた人生を歩んでいた男たちであった。

 だが裏を返せば実力一本で軍を率いてきた実直な者たちであるともいえた。


 とはいえ、朝廷内部の不安は日ごとに増していた。

「陛下はともかく、月巧妃様すらお姿を見せないのか」

「このままでは昭は、昭はどうなる!?」

 大臣の一人が目を細めながら言った。

「……陛下に万が一のことがあれば、次の後継者は、風閲様になるかもしれんな」

「まさか! 形ばかりとはいえ反逆に関わったのだぞ!」

「そ、そうだ! そんなことが許されるはずがない」

「いや、しかし……」

「後宮で何が行われているのかは分からん、陛下が孝淑妃様とそのようなことを話している可能性もなくはない」

「なるほど、今のうちに孝淑妃様とお近づきになるのも悪くないか」


 大臣たちが今後の政局についての会話を交わしていると、背後からそれを叱り飛ばす声が上がった。

「恐れ多くも臣下の身でいったい何を話しているか!」

「しょ、焦螟殿……」

 その場に居た者たちが驚いて振り返ると、そこには怒りの形相をした焦螟が立っていた。

 焦螟は小さな老宦官である。

 普段は物静かに皇帝に付き従うのみである。

 だがこの時は体躯の小ささを感じさせない迫力で捲し立てた。

「国家の一大事に己の立場のことばかり気に掛けるとは恥を知れ! 馬鹿なことを言い合ってる暇があれば、戦費の一つでもかき集めてくればよいではないか!」

「はは……左様で」

 焦螟の迫力に大臣たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。

「ふん、とんでもない奴らだ」

 去っていく大臣の後ろ姿をきっと睨みつけると、焦螟は後宮に向かう。


 月巧妃が住まいとする嫦娥宮は、多くの女官が出入りする大所帯であるが、皇帝が病に伏してからは灯が消えたように静まり返っていた。

 雪瑜が最低限の人員以外は近づくなと厳命したからである。

 事実、焦螟は嫦娥宮に入ってから皇帝の横たわる臥所の扉を開けるまで、誰にもすれ違わなかったほどである。

 いつものように焦螟は風演の前に跪いた。

「我が君、お労しや」

 風演は牀の上で身を起こし、力なく笑う。

「いや、だいぶ落ち着いた。これも雪瑜のおかげだ」

 そういわれた雪瑜は風演の傍らに座り直し、肩に手を置いた。

「私ではなく、天意に他なりません。天が大家(ターチャ)まだ死ぬなと言っているのですよ」

「それはまことかな」

「そうですとも」

「それで、報告は何かな老爺(じいさま)

「お耳汚しにならねば良いのですが……、欧陽乙殿が兵を率い龍鳴関に向かいました」

「おう、父上が! ならば龍鳴関は早々に抜かれはしないでしょう」

「お前の父はそれほど武勇に優れているのか?」

「父上は我慢強いのです。防衛戦などはいかにも得意。それに化け猿を打ち倒した討妖の五氏がついておりますれば、例え相手が魔物であろうと一歩も譲りません」

「そうか。それならば安心だ」

「ですが大家(ターチャ)……父に逆賊を防ぐことはできても、討ち取るまでは至らぬでしょう。石豹は強い」

「分かっている……それは劉幹の仕事だ。あやつと羽林軍ならば必ずや果たせよう」

「……本来、羽林軍は大家(ターチャ)を守る為の盾。それを出撃させるというのは本当にご英断でございます」

「今以上に追い詰められてからでは私を守るも何もないからな。兵を出し惜しみして敗れた王の話は多い……」

「しかしながら」

 雪瑜は声のトーンを一段上げた。

「それでもなお、石豹を討つのは敵わぬでしょう。劉将軍だけでは」

「……これ以上私にどうすればよいというのだ、雪瑜?」

 雪瑜は風演の耳に顔を近づけ、布の擦れ合うような小さな声で囁いた。

「………が………兵……………」


 雪瑜は風演の耳元から顔を離し妖艶な笑みを浮かべた。

 だが風演は驚きのあまり声も出せない。

 代わりに焦螟が声を上げた。

 後宮内の出来事なら羽虫の羽ばたく音さえ聞き漏らさないと言われていた宦官は、評判通りの地獄耳をもって雪瑜の言葉を聞き取っていたのである。

「雪瑜殿、拙は反対です! 万が一のことがあれば取り返しのつかぬことゆえ……!」

「だが、やらねば万に一つの勝利も掴めません」

「いやいや言語道断、あまりにも無茶だ!」

「そうですね。このことは私の一存だけでは許されません。最後に決めるのは大家(ターチャ)です」

「せ、雪瑜、いかにお前の頼みでも、それは……それだけは……」

 風演が首を横に振ろうとすると、雪瑜は腕を風演の首に巻き付けて抱き寄せるようにして、コツンと額と額を触れ合わせた。

「私の愛しい人。世界で一番偉大な人。これしか方法はないの。私たちの為に、どうか決断して」

「雪瑜……」

「お願い!」

 雪瑜に心を奪われた男にとって、その懇願は抗いがたいものであった。

 極上の甘味の如き魔性の笑み。

 心を蕩けさせてしまう美酒のよう。

「帝衣こそ最高の死装束ではございませぬか!」

「わ、分かった。雪瑜の言う通りにしよう」

「我が君!」

「うれしい! 必ずそう仰ってくれると思っておりましたわ! 早速準備しなくっちゃ!」

 雪瑜は立ち上がって、背を伸ばした。

「さあ、忙しくなるわ」



 皇帝とは天子である。天子とは天の意思の代行者である。

 もし天子を意のままに操る者がいるのなら、つまりそれは天に(ひと)しき者。

 すなわち斉天公主だ。

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