第五十六回 頂点へあと一歩
巡幸を終えて都に戻った雪瑜には旅疲れによる疲労の色が見えた。しかしその表情は明るい。
地方の実態を自身の目で確認した今回の巡幸は、彼女にとっては実りのあるものだった。
こうして順々に昭の各地を順々に回っていくのも悪くない──彼女はそう考えていた。
「古の始皇帝がなぜ病身を押してまで巡幸を強行したのか、少し分かった気がする」
と、雪瑜は周囲に話していた。
風演にとっても悪くない旅だった。
乱以降、また命を狙われるのではないかという不安が常に頭にあった。
しかし、どこへ行っても地方の民は皇帝を熱烈に歓迎した。自分は慕われているという実感は、風演の精神を安定に向かわせた。
気を良くした風演は魏高輔を呼び、
「魏宰相、お前は正しかったぞ。この調子で頼む」
と、大臣たちの前で称えた程である。
と、ここまでは新宰相による政治の陽の面である。
光あれば闇あり。表立って口には出さないものの、既得利権を潰された貴族層の不満は相当なものであった。
不満を持つ者たちは物陰に隠れ、ヒソヒソと愚痴を吐き出し合う。
「このままでは破滅だ。子の代孫の代となれば官位官職さえ奪われるぞ」
「そんな先の話以前の問題だ。早晩我らの暮らしは立ち行かなくなる。なんとか魏高輔を除く方法を考えねば」
「それでは根本的な解決にならん! 魏高輔を信任したのは皇帝だ。そして皇帝を操っているのは月巧妃だ。それならばいっそ……」
「早まるな、伊宰相がどうなったのか忘れたのか」
「そうだぞ。月巧妃は新たに鉱山を開こうとしているらしい。今捕まったら一族郎党死ぬまで月巧妃の炭鉱で擦り切れるだけ働かされるぞ。死すら生温く感じる刑だ」
「……では、どうすれば?」
「今は雌伏の時だ。このようなことが長く続くはずはない。魏高輔は藩鎮(節度使の管理する地域、高度な自治が行われている)にも口出ししようとしている、節度使たちは黙ってはおるまい……」
貴族たちの会話は二つのことを示唆していた。
一つはもはや自分たちでは月巧妃を止めようがないということ。それほどまでに雪瑜の権力は増していた。
一方で、まだ彼女に対抗できる勢力が残っている、という事実である。
それこそ地方を鎮護する節度使たちであった。
ほどなく魏高輔の元に、節度使たちは新法の受け入れを拒絶している、という報告が入った。
魏高輔にとって言われるまでもなく分かっていたことである。
節度使たちが専売制度を破り、私塩や私茶、鉄や銅などの採掘、それらの密貿易で財を成していることは公然の秘密だった。
軍備には資金が必要である。辺境を守るための資金調達の為なら多少はしようがない、とこれまで目を瞑ってきたのだ。
これまでは……。
だが、魏高輔は許せなかった。
少なくとも公然と法を破るなどあってはならないことだと考えた。
現実的には節度使に特権を与えるという意見は一理ある。確かにそうでなければ辺境の防備は守れない。
ならばこそ、その特権は法によって規定されるべきである。
そのことについて風演を──否、月巧妃を説得せねばならぬ。
そう思っていた矢先のこと。魏高輔は風演に呼ばれた。
風演に言われた席につくと、自分の他に二人ほど重鎮と呼ばれる大臣が既に席についている。
そして風演が現れた。その後ろには雪瑜、諌止役の魏澄子、そして皇帝の影である焦螟が後に続く。
へっなんて面子だ。よほど重要なことがあるらしいな。
まァいい機会だ。ここに居る面子を説得できりゃあ、節度使に首輪を付けられるってもんよ。
と、魏高輔は頭の中で論戦に備えた。
上座に座った風演が口を開いた。
「突然の呼び出しで驚かせてしまったかな。臣らを罰する為の招集ではないから安心して欲しい」
皇帝の冗談にフフフ、と笑みを覗かせたのは雪瑜だけだった。魏澄子などは苦虫を噛み潰したような険しい顔をしている。
「実は、そろそろ月巧妃を皇后に格上げしても良いのではと考えている。臣らの意見を聞きたい」
なんだそんなことか。
魏高輔は肩透かしを食らった気分だった。
既に月巧妃・雪瑜は絶大な権力を握っていて、二聖として皇帝と肩を並べるほど。もうとっくに事実上の皇后だ。
好きにしたらいいじゃねえか、と内心毒づく。
その思いは他の重臣たちも同様らしい。
彼らは愛想笑いを浮かべて、雪瑜が行った羽林軍の再編、科挙の改革などの功を並べて、確かに皇后に相応しいお方、異論はないと締めくくった。
魏高輔もそれに倣おうとしたとき、魏澄子が毅然と反論に回る。
「いけません。臣は反対です」
雪瑜は涼しげな表情を崩さず、微笑している。代わりに風演の表情が強張った。
「なぜだ、魏澄子? 月巧妃の何が不満なのだ。彼女はよく昭国に尽くしてくれている。これほど皇后に相応しい者は天下にいないだろう」
「月巧妃殿の尽くし方は誤りだからでございます。妃の役目は陛下を労り、後宮を治め、陛下の子を養育するのが本来の道。政に口を出すことではございません」
風演は珍しく怒りを露わにした。
「言いたいことはそれだけか!」
「いいえ。まだございます。陛下、道には本道と脇道があり、一見目的地に近そうだといって安易に脇道を使うのは承服しかねます。小事ならそれでもいいでしょうが、これは国家の大事ですぞ。陛下の後ろには千万の民が続くのです」
「不愉快だ。不愉快だぞ魏澄子。雪瑜の働きはどれも賞されてしかるべきもの。お前がここに居るのさえ雪瑜がおかげではないか!」
「はい。しかしここで陛下をお諫めしなければ私のいる意味はありません」
「ほほう。それはそれはよくぞ申したな!」
険悪な雰囲気が漂う中、しわがれたダミ声が言葉を発した。
声の主は魏高輔である。
「魏澄子ィ、それは違うだろう? 月巧妃殿を責めるなんてよォ」
「……何が違うと申されるか」
「月巧妃殿のやってるコトは、本来大臣どもがやらなくちゃいけなかったコトだろう? それなのに大臣どもは私利私欲を優先させてたんだ、月巧妃殿はそれを見かねて動いただけじゃねえか。責められるべきはいままで何もしてこなかった連中だろう、ええっ違うか!」
「政に携わりながら問題を見て見ぬ振りをした者は確かに責めを負うべきだ。しかし、その立場にないものが政を壟断することはあってはならない。必ず禍根となろう」
魏澄子は雪瑜本人を前にはっきりとそう言った。
雪瑜も、もう笑ってはいない。
「政を壟断とは心外な。魏澄子殿、それほどまでにこの雪瑜が皇后となるのに不満か?」
「臣は月巧妃殿が皇后になってはいけないと申しているのではありません。いまのままでは賛成しかねると申しているのです」
魏澄子が強弁し、話は平行線となったので、一気に場は白けた。そしてこの日はそれ以上の進展はなく重臣たちの話し合いは終わった。
その直後、風演、雪瑜、魏高輔、焦螟の四人だけが集まりさらなる密会の場がもたれた。
「魏澄子め。雪瑜のおかげでいまの座につきながら、なんて奴!」
「ま、ま、陛下。そうカッカなされんな。焦るこたァない。奴のことは気長に説得すればいいんだ。それに奴の意見にも一理ある」
魏高輔の、まるで友を相手にしているような砕けた言葉は、彼がどれだけ皇帝と雪瑜に信頼されているかを示していた。
「どこに理があるのだ? 魏高輔殿」
雪瑜は先の会議の不満を隠そうともせず、ぶっきらぼうに聞いた。
魏高輔は目元を笑わせながら答える。
「わしから見ても……最近ちょいと前に出すぎじゃね?って思うぞ、雪瑜殿」
「それはそうせねば大家を守れぬからだ! どいつもこいつも信用ならぬ者ばかりなのでな!」
「へへっ分かってるって、公主様。魏澄子とて本当は雪瑜殿以外に皇后なんていないって思ってる。ありゃあ、だから少し身を慎んでくれって意味の諫言よ」
「それにしては随分な言いようだったがな」
「そうするのが諫臣の仕事だもんで。酌んでやって下せえよ。良薬口に苦し、忠言耳に逆らうってこった。奴は頑固だが信用できる、自分の利益なんて考えてねえ」
「……ちっ」
言い包められたのが気に入らないとばかりに、雪瑜はプイと横を向いた。
「お陰で皇后になるのは先になりそうだ」
「焦らない焦らない。それにまだ一つ仕事が残っています。そいつを片付けてからでもいいでしょう」
「仕事?」
「へえ。実は節度使の件で相談が」
話題を変えた魏高輔は目で笑いながら、言葉は慎重に選ぶ。
ここからが、彼の戦いだった。




