第十七回 この世に常無し
「玲様! そんなことは私たちがしますので、どうか座っててくださいよ!」
「いや、じっとしているのは本当に辛いの。頼むから代わって。休んでていいから……」
玲は侍女の玉蘭に無理を言って、朝の水汲みを代わってもらった。
冬の朝の水汲みは楽しい作業ではないが、それでも時々こうして家事を行っていないと、頭がおかしくなりそうだった。
まだ据え膳上げ膳の生活には慣れない。
水を汲んで屋敷に戻った玲は、寒さでかじかんだ指先をはぁはぁと温めた。
玲の手を見て玉蘭が溜息をつく。
「あーもう。あかぎれになっているじゃないですか、今日はお琴の講習があるのに」
「これくらいなんともないわ」
「頼みますよ。玲様と雪瑜様の出世は私たちの出世でもあるんですから」
「あなた現金ねえ」
「尼さんになったつもりはありませんので。だから頼みますよ~玲様。陛下の心をがっちり掴んでくださいよ~」
「はいはい」
風流皇帝と呼ばれる風演は書画や詩歌を好んだが、とりわけ愛していたのは音楽と舞いであった。
風演は自ら楽器を取り演奏するだけでなく、楽師を集めその技を磨かせた。先日石豹に与えたのもその一部である。
さらに週に何度かは、後宮の妃嬪たちも講堂に集められ、演奏や歌舞の指導を受けた。
こうして教えられた技術は、酒宴や折々の祭日の際に、皇帝の目と耳を楽しませるのだ。
その日、玲が講堂に行くといつもの講師が急病になったということで、代理の者が来ていた。
西方の血を引いているのか、碧眼で漢人とは異なる顔つきの女である。
もっともそう珍しいことではない。
神都・宝洛は昭国の首都であると同時に、世界に名だたる国際都市だ。
そこにはありとあらゆる人種が集う。異国の民を見かける機会は少なくない。
だが、それにしても……と玲は首を傾げた。
この人、どこかで見たことがある気がするが思い出せない。
「本日講師の代理を務める、伽羅舞蘭と申します。皆様宜しく。さて、本日皆様に覚えて頂く曲は『凌波曲』。作曲されたのは盛唐の頃。竜女と人が恋に落ちていく様を表現した曲でございます」
自己紹介もそこそこに、カラブランと名乗る異人は琴を弾き始めた。
すると隣に座っていた妃嬪の一人が、玲の裾を引っ張って囁いた。
「あのカラブランって人、天香妃様の侍女よ」
「そうなの? 通りで見覚えがあったわ。西方の方なのね」
ベ、ベ、ベ、ベ、ベ、ベェーン。
古琴独特の、余韻のあるふくよかな音色が講堂に響く。
講師代理を務めるだけあって大した腕前だった。
少し驚いたのは、カラブランは曲を爪弾くだけでなく、演奏に合わせて、琴歌を歌ったことだった。
弾き語りは民間の音楽ともいうべきもので、あまり宮廷の中では見られない。
玲はそろそろと天香妃の方を見た。
当の天香妃は、自分の侍女ならこれくらいできて当然だ、と言わんばかりに腕を組んでカラブランの演奏と歌を聞き入っている。
もっとも、天香妃は万事そんな調子であるが。
ベベン、ベベン。
曲は次第に佳境に入る。
出会った男と竜女は互いに惹かれていたものの、種の違い、身分の違いを理由に一旦は別れる。
ベン、ベン、ベン、ベン、ベェーン。
だが男は長い試練の時を経て、自身の価値を周囲に認めさせた。もはや二人の婚姻を止める理由はなかった。
ベベン、ベベン、ベベン、ベベン。ベベン、ベベン、ベベン、ベベン。ベェーン。ベェーン。ベェーン……。
初めて出会ってから長い年月が過ぎ、若者は白髪の老人になっていた。
だが、それがなんだというのだ。
人として過ごした年月はたかが五十年。
男はこれより竜となりて、乙女と幸せな日々を過ごすのだ。永久に、永久に……。
琴の音と、やや低いカラブランの歌声が見事に調和し、心に沁み込んでいくようだった。
「このような曲でございます。次は皆様も一緒に手を動かして下さい。まず初めの方から……」
カラブランは一通り曲を弾き終えて、次はゆっくり弾いて、それを生徒たちに繰り返させた。
それを何度か繰り返すと、今度は教えた個所を通しで弾かせていく。
「焦らずに」
何人か不器用な生徒もいて、指の操作に苦戦していたが、カラブランは辛抱強く教えた。
「初めはゆっくりとで構いません。徐々に慣れていけばいいのです」
「こ、こう?」
「そうです。左手で弦をしっかりと押さえて。そう、そう、そうでございます」
天香妃の子飼いということで、玲を始めとする恵徳妃に近い妃嬪は少々警戒していたが、カラブランの指導は派閥の区別なく、適切なものだった。
カラブランの教えが上手かったというべきか、流石は皇帝に見初められし妃嬪たちというべきか。
大半の者は呑み込みが早く、すいすいと凌波曲の序盤を奏でられるようになっていく。
その中で玲は少し苦戦していた。
悪戦苦闘していると、カラブランが寄って来て指導を始めた。
「意識が片方の手に寄っているようです。左手でここを押さえたら、こう。ここを押さえたら、こう」
「む、難しい……」
「初めはそう感じるかも知れませんが、慣れもございます。音の出る型を指先に覚えさせることが肝要かと。さて、もう一度頭から」
カラブランに促され、玲は琴に手を添えた。
「……?」
玲の指先が微かに震える。
手、手が動かない。
「欧陽充媛、どうなさいました?」
か、体が、おかしい。
そう訴えようとしたものの、喉から声が出てこなかった。
まるで縛られたように全身が動かない。
な、なんだこれは。
最悪の予想が頭に浮かぶ。
──まさか、毒?
嘘、そんなまさか。
今朝の食事は自分で作った。誰かが一服盛る余地はないはずだ。
カラブランの翠の瞳が玲の顔を覗き込む。
「ううう……」
その瞳を見ていると意識まで遠ざかってきた。
視界がどんどん狭まり、黒く黒く染まっていく。
まるで吹きすさぶ砂嵐に呑まれたかのようだった。
不思議な匂いがする。
日常ではあまり嗅ぐことのない、薬の匂いだ。
「……はっ」
目を開けた玲は、頭を押さえながら身を起こした。
この匂い……医務室だ。
目覚めた玲に気が付いた後宮の医官がほっと胸をなでおろす。
「薬湯でございます。ゆっくりとお召し上がりください」
温いお茶を差し出した後宮医は、見習いの助手に指示して、玲が目覚めたことを部屋の外に報せた。
パタパタと早足で現れたのは、老宦官の焦螟である。その後ろには護景や玉蘭の姿もあった。
「いやよかった。大事ないようでこの焦螟、一安心ですわい」
「あっ。これは焦螟様。このような格好で申し訳ありません」
「いや、そのままで、そのままで」
玲が寝台から立ち上がって拱手しようとするのを、焦螟は押しとどめた。
「医者の話によると貧血なようですな。少しお休みになり、精のつくものをお召しになるのがよろしいですぞ」
「そうですか。いや、私はてっきり毒でも盛られたのかと思いましたよ」
「……」
毒と聞いて、護景や玉蘭は苦笑いを浮かべた。
それは場を和ませる冗談にすぎなかったが、焦螟は一瞬言葉を詰まらせたように見えた。
だがすぐ大袈裟に腕を振って否定する。
「そのようなこと! この焦螟、主上の後宮を預かる者として決して起こさせませぬ!」
「はは、頼りにしております、焦螟様」
「言わずもがなだ、そのようなことは!」
張りのある声が響くと、周囲に緊張が走った。その雰囲気に呑まれ、玲も体を強張らせる。
周囲が慌てて道を開け、背後に身を伏せる。
姿を現したのは風演であった。
「玲よ、倒れたと聞いたぞ、無事か?」
「は。単なる貧血です。どこも変わりありません」
「そうか……少し外せ」
風演が囁くと、焦螟が部屋にいる者全員を追い出した。
二人きりになると風演は表情を和らげ、はぁ~~と息を吐く。
「お前が倒れたと聞いたときは心臓が飛び上がったぞ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
「皇帝とて、死を覆す力はない。が、歴代の帝が不老不死の丹薬求める気持ちがわかったわ」
風演は玲の隣に座って呟いた。
「死にたくない。死なせとうもない」
「陛下、それは……」
「分っている。そんなことは不可能だということくらいはな。本当に不老不死というものがあるなら、千年も昔の帝が、まだ帝位についているはずだ。私が登極できたはずがない。しかし──」
風演はそこで言葉を切って、渋面を作った。
自らの愚かさを噛み締めているようだった。
「しかし、完全な不死でなくとも、長生の法ならばあるのではないか、とも思ってしまう。例えばお前たちだ、玲よ、雪瑜よ。お前たちの父親は千年も生きたというではないか。お前たちもそうではないのか?」
玲は言葉を詰まらせた。
正直言って、自分自身にも分からない。ただ、多分そうではない、と思う。
「もしそうなら、それを私にも……」
「……」
玲は無言のまま、ただ悲壮な顔をして皇帝に答えた。
その表情を見て、それが不可能であると察した風演は、恥じ入るように顔をそむけた。
「すまなかった。もし、お前たちが時を跨いで生きるのなら、後の世の人に『昭の六代目の帝は愚かだった』と言わないでくれ」
「……陛下。お言葉ですが」
玲はぎゅっと手を握り、至尊の座にある皇帝に意見した。
「私どもが人であると申されたのは陛下です。あの瞬間、私どもは人になれたのです。ならば人のように生き、人のように死ぬでしょう。少しも余人と違うところはありません」
「あ……」
己の軽挙に気が付いた風演は、天を仰いだ。
「そうであった。そうであったわ」
「陛下」
玲は風演の手を握った。ごく自然に。
初めて玲が皇帝の体に触れたのは、この瞬間だった。
「私には永久に生きる方法は分かりませぬが、本日、陛下の名を不滅とする方法を思いつきました」
「どんな方法だ」
「音楽でございます。曲をお作りになさいませ」
「それは今もやっているが……」
手塩に育てた楽団を抱え、自ら作曲もするのが風演である。
「そして、その曲を庶人に伝え、演奏することを許すのです」
「民に?」
この時代、音楽は宮廷で公式に用いられる古典的な音楽と、庶民の音楽に分かれていた。
宮廷でも余興で庶民的な音楽が演奏されることはあったが、その逆はない。古典音楽は閉じた世界なのだ。
「形あるものは、全て壊れ崩れるのだと、偉い御坊様たちが申しております。きっとその通りなのでしょう。ならば形のないものはどうでしょうか」
「形のない……」
「はい。倒れる前、唐の世に作られた凌波曲を聞きました。とうに楽譜の消え去ったそれをいまに伝えたのは、無数の市井の人々でございます。これこそ久遠に最も近いものなのではないでしょうか」
「うむ……」
皇帝であると同時に、風演は一人の芸術家である。
自らの名作を作り上げ、不朽の名声を獲得することなど、とっくに思いついていた。
しかしそれを民間に伝えるという発想は、風演にないものだった。
自ら率いる楽団に伝え、譜に記して府庫に収めておけばよい、と思い込んでいた。
だが考えてみれば、そのようにしていくつもの譜がこの世から消えただろうか……。
国破レテ 山河在リ。
結局最後に残るのは、在野の名もなき人々が弾き語る曲かも知れない。
それに青史(歴史書)に無味乾燥な文で一生を書かれるより、人々の口から私の治世を伝えられた方が望ましい。
風演はそのように考えた
「面白いことを考えるな、玲。確かにそうだ」
風演は玲の考えを容れた。
凌波曲という曲は実在する(した)曲ですが、詳細はオリジナル設定です。
こんな曲じゃないだろというツッコミ歓迎。
書き溜め分がなくなったので一旦休止します。再開は一か月後くらいを予定しています。




