第十六回 飛将軍と政治
雪瑜が、石豹の向かいに座ると、周囲は固唾を呑んだ。
これから行うことがただのおはじき遊びではあるが、座敷にはただならぬ空気が漂っている。
かたや戦場の英雄、かたや妖怪の娘、そうさせる空気が二人にはあった。
「変わった陣ですな」
目の前に碁石を並べていると、雪瑜の並べた石の形を見て、石豹が言った。
普通は横一列に並べるが、雪瑜は石を一つ、他の石の前に被せる様に置いたのである。
「壁がなければ将軍の攻めは防げませんので」
「では、その石は砦でござるな」
石豹はニヤリと笑い、ゲームが始まった。
初めの数手、二人は淡々と碁石を弾き、相手の碁石を盤外に落とす。
三つ目の石を落とされたとき、石豹が手を拍った。
「お見事にござる! 拙者、苦しくなってきましたわい!」
とは言うものの、石豹の目元は笑っている。まだ余裕がある証拠だ。
実際、次の手番ですぐに雪瑜の石を落としていた。
「二人とも上手いな……」
「一歩も引かないわ」
「でもちょっと雪瑜が不利かしら」
二人の勝負を邪魔しないよう、妃嬪たちはひそひそ声で囁き合う。
残りの石が雪瑜が二つ、石豹が三つになったところで、雪瑜が勝負に出た。
雪瑜は石豹が砦と呼んだ石の、後ろの石に指を置いた。
赤い目で盤面をじっと凝視し、パチンと石を弾く。
弾かれた石は砦とぶつかり、二つの石が石豹の陣に飛び込んでいく。
侵入した二つの石は、見事に石豹の石を二つ落としていた。
「きゃーー!」
と妃嬪たちから歓声が上がった。
これで一対二である。仮に次の手番で石を落とされても、その次の自分の手番で残った石豹の石を落として、勝ちだ。
「これはこれは! 砦から兵が飛び出しもうしたか!」
「さあ将軍の番ですよ」
難しい手を成功させ、緊張していた雪瑜も勝利を確信して顔を綻ばせる。
「勝ったと思いか?」
その声は冬の海の底から響いてきたかのような、寒々とした冷たさがあった。
雪瑜はハッとして顔を上げる。
楽しい宴の最中、石豹が一言発した声の冷たさに気が付いたのは、雪瑜だけだろう。
その雪瑜も殺気に気が付いたのは一瞬だけだった。
目の前の石豹はお道化た笑みを浮かべている。
「まだ勝負は終わってござらぬぞ! さあ、皇帝陛下、妃の方々、石豹の一手、とくと御覧じろ!」
カチッ。
弾かれた碁石は盤上中央の膨らみを一気に越え、怒涛の勢いで駆け下ると雪瑜の石を弾き飛ばす。
そして、その衝撃で跳ね返った石豹の石は、返す刀でさらにもう一方の雪瑜の石を叩き落した。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
先ほどより一層大きな歓声と、悔しさの滲んだため息が漏れた。
勝負ありだ。
「ああ、参りました。お見事です」
「いやはや雪瑜殿も手強い相手でござった。しかし、あの砦、狙いは良かったものの、少しあからさま過ぎにござる。相手の意表を突くには、こちらの意を悟らせないことが肝要にござる」
「なるほど。流石昭国を支える将軍。勉強になります」
感想戦に入っている二人に笑貌を浮かべた風演が割って入った。
「いや二人とも見応えがあり見事な試合であったぞ」
「これはお褒めに与り恐縮にござる」
「将軍よ、雪瑜は面白い女だろう?」
「は。拙者これほど苦戦したのは久方ぶりで。ましてやその相手が女人とは!」
「当代の飛将軍、石豹にそこまで言わせるとは、やるな、雪瑜」
「お戯れを」
「いやいや、これは名誉なことだぞ雪瑜。これよりお前を後宮娘子軍の将に任命するぞ!」
と、風演が印綬を授ける振りをすると、雪瑜は頭叩しながらそれを受け取る振りをした。
「ははーっ! 全力で職務に励みます!」
その後、楽の音に合わせ、美しい衣装を纏った天香陽妃や将兵に扮した雪瑜が舞い踊り、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎは夜遅くまで行われた。
戦功によって、石豹は既に驃騎将軍の位と、その軍権を象徴する金銀の斧鉞を賜っていたが、この日の宴がよほど楽しかったのか、後日、風演は石豹に追加の褒美を与えている。
辺境での寂しい生活を慰めるためとして贈られたのは、十数名の楽人と二十斗の酒だ。
また、いつでも孤に会いに来いといって、自由に登殿し、風演に謁する特権も与えている。
風演のこのような振る舞いは、大臣たちに圧迫されている、政治的不満を誤魔化す憂さ晴らしの意味もある。
満たされぬ気持ちを、浪費によって紛らわせようとしているのだ。
「ああ、楽しいな。極楽にいるようだ。だが、そろそろ仕舞いにしようか」
燕喜の会が終わる頃、風演はよろよろと立ち上がった。
「ああ、お気をつけて下さいな」
「おっととと」
覚束ない足取りの風演を天香妃が支えた。
「将軍ついて参れ」
「は? はっ!?」
石豹が驚いて声を上げると、風演は笑い出した。
「あっ。ハハハハハ! 石将軍ではない。娘子将軍の方だ」
「はい」
と雪瑜が立ち上がり、天香妃の代わりに風演の肩を支えた。
代わり際、天香妃は無言で目を剥き、雪瑜を睨みつける。
雪瑜は気づかない振りをして、風演の寝所まで供をした。
「楽しかったな、雪瑜。石将軍は面白い男だ。それに頼りになる」
「はい」
「皆が皆、石将軍のように、孤に忠実な者ばかりならばいいのだが」
寝台の上に身を横たえたまま、雪瑜は無言で頷いた。
風演は既に半ば眠っており、口から出る言葉はうわ言のようだった。
「もう宮廷に私の言葉を聞く者はどんどん少なくなっている。……魏 高輔を追いやるべきではなかった。奴がいれば……」
……魏高輔?
風演がすやすやと寝息を立てている横で、雪瑜はその名を反芻した。
聞き覚えのない名前である。だが皇帝の口から洩れるような人物は、知っておかねばならないと思った。
後日、雪瑜は護景に魏高輔なる人物を調べさせた。
報告はすぐに返って来た。
「魏高輔様はかつての宰相で、主上により税法の改革を命じられた方です」
「そうだったのか。しかし、いま宮廷で魏高輔様の名前はあまり聞こえてこないが」
「はい。魏高輔様が行おうとした改革は、富裕層の引き締めを図るものだったので、その……特に名門の方々にすこぶる評判が悪く、保守派と激しく対立したようです」
「つまり金持ちや貴族の利権に切り込んだわけだ。それは叩かれるな」
「それでも魏高輔様も硬骨漢であった上、主上の後押しもあって、その法案は通りそうだったそうです。ですが、皇族の方々からも反対意見が出され、ついに主上も庇いきれず、魏高輔様は地方刺史に左遷させられたという次第です」
「それは残念だな……というか、皇族からも例外なく徴税しようとしたのか。中々癖の強い人物のようだな」
「付け加えるなら、魏高輔様は叩き上げでしたので、それも他の方々は気に食わなかったようです」
「どういうことだ?」
「私も政治のことは詳しく存じませんが……」
政治の世界には恩蔭系と科挙系の対立がある、と護景は語った。
恩蔭とは父祖に官位を持つ者がいた場合、その子孫たちにも官位職階を与え登用するという、一種の世襲制度である。
これに対し科挙とは面談とペーパーテストを合わせた一種の資格試験であり、これに登第したものが官僚になるという制度だ。
現在、昭国ではこの二つの制度が並列しており、その出自の違いによって度々対立が起きている。
簡単に言えば旧来の門閥貴族と、新興の科挙官僚の対立である。
「何処でも争いはある物だな」
と呟きつつ、雪瑜は科挙と聞いてかつての恋人を思い出していた。
そういえば宗靖も科挙に向けて勉強していたな。
今頃どこで何をしているのか……。
しばし、感傷に耽る雪瑜であった。
また、石豹だが皇帝への伺候と宴を終えると、再び都から何千里も離れた任地へと戻っていった。
帰り際も石豹には、絢爛たる都を離れなければならない憂いはなく、来たときと同じく笑貌を浮かべていた。
それもそのはずだろう。彼にとって今回の参朝は大成功だった。
莫大な恩賞──金帛を与えられ、新たな位と特権を与えられ、神都に屋敷を賜った。
そしてそれらより大きな収穫は、皇帝に気に入られたことである。中央政界から遠い石豹にとって、政治的な安定を得ることは絶対に必要なことだった。
また石豹は滞在中、皇帝だけでなく、これはと思った有力者に対しても賄賂攻勢も忘れない。これも盤石の政治基盤を築くためである。
その筆頭は宰相の伊玄曹や宦官を統括する焦螟だが、石豹は雪瑜にも賄賂を贈っていた。
表向き『後宮娘子軍 将軍位就任を言祝いで』という名目で賄賂を贈ったのは、石豹なりの諧謔だろう。
雪瑜に贈られたのは西方で醸された赤い果実酒である。
西方との玄関口を守護する、石豹ならではの贈り物だ。
こうした抜け目ない対応の傍ら、石豹は何人か科挙に登第したものの、官位につけていない者を、辟召し、辺境へと連れ帰った。
都では科挙に合格したところで、新たに官に席が空き任用されるまで、時に何年もかかる。
だが、都から遠く離れた辺境では、文字の読み書きが覚束ないものも多い。
高度な教育を受け、法令処理能力に長ける人材はいつだって必要だ。
石豹はこうした無位無官の浪人を、自身の幕僚に加えていったのである。
作中で恩蔭系と科挙系の対立という概念に触れましたが、違和感を覚えた人もいるかも知れません。
言い訳させてもらうと、この構図は相当に簡略化したものです。
昭国は主として唐代をモデルにしていますが、実際の唐代では門閥貴族と科挙系の対立はあったもののとてもミナミごときには手に負えないほど複雑で
別に恩蔭系=門閥貴族というわけではないとか、門閥貴族も一枚岩でなくて山東貴族と関隴集団の対立があったりとか
関隴もさらに内部で隴西と隴東に分かれてたりとか、そもそも山東貴族とつるんでる関隴出身者いるじゃん。本当に山東と関隴の対立なんてあったのかよ?と言い出す人もいたりとかで
こんなんやりだすと素人の自分はアバババババ…ってなるので、ざっくり恩蔭系(旧派閥派)と科挙系(新興貴族)が対立してるよってことにしました。




