第十八回 驚天動地の始まり
歌謡をきっかけにして、風演と玲の距離は急速に縮まっていった。
二人の間に肉体的な接触はないが、風演は玲の素朴な感性を愛した。
風演は頻繁に彼女の元に楽士を引き連れていったり、あるいは玲を呼びつけては新曲へ意見や感想を聞いた。
そしてついに二人は新たな曲を作り上げた。
曲名は『心對心』。
心と心、という意味だ。
対比される二つの心を歌った曲で、男女の恋心を歌ったようにも、玲と雪瑜のことを歌ったようにも感じられる歌だった。
そして風演は楽士団を通してこの曲を広く民間に伝えた
風演はこの曲の出来栄えに大変満足して、発表と同時に大赦でも出そうか、などと冗談を言うほどだった。
しかし。
このほのぼのとした出来事の裏で、後宮には不穏な空気が渦巻いていた。
後宮内の力関係は、これまで恵徳妃と天香妃という二つの軸によって支えられていた。
雪瑜の工作によって恵徳妃側が盛り返したものの、それは天秤のつり合いが取れるようにした程度のことである。
また、雪瑜は風演に大層気に入られていたが、同時に弁えていた。
後宮に入ってからは必要以上に表に出ず、恵徳妃の裏方に徹していた。
だが、皇帝と玲の急接近は、このバランスを破壊するものだった。
風演は玲か雪瑜の顔を見なければ夜も日も明けないという有様で、新曲が完成しても、「さあ次の曲に取り掛かるぞ!」と全く状況は変わらない。
そのような中、玲/雪瑜は天香妃に呼び出された。
明らかに不穏である。断ることもできたが雪瑜はそれを受けることにした。
「ええ……」
と、顔をしかめたのは侍女の玉蘭である。
「どう考えても危ないですよ。天香妃様は雪瑜様を嫌っていますし」
だが雪瑜は楽しそうに笑った。
「何が危ないものか。私にはついに相手が泣きを入れてきたようにしか見えんぞ。あいつが何を言うか楽しみじゃないか」
こうして、雪瑜は玉蘭を連れて、天香妃の居る宮殿、花王宮を訪れた。
二人が門をくぐると、すぐに宮殿を取り囲むように植えられた牡丹の花が目につく。
言わずと知れた天香妃の代名詞だ。
「ほう、見事なものだな。自ら天香と称するだけのことはある」
「本当に」
二人が花の美しさに目を奪われていると、いつの間にか笛の音が響いてきた。
音のする方を向くと、いつぞや講師の代理として教壇に立った女が、二人を待ち構えていた。
「お待ちしておりました、欧陽充媛……雪瑜殿。こうしてお会いするのは、これが初めてというべきか、それとも二度目というべきでしょうか」
「玲の知ることは私の知っていることだよ、カラブラン」
「そうでしたか……ささ、こちらへどうぞ。天香妃様がお待ちです」
そのとき、カラブランの翠の目が、白皙をもって誇りとする雪瑜の全身を捉えた。
まるで雪瑜の燃える瞳と対を為すような色彩の目である。
「む」
その瞳に晒された雪瑜の体は、無意識に玉蘭の影に隠れようとした。
「雪瑜様?」
突然肩に手を置かれた玉蘭が不思議そうに振り返った。
「……なんでもない。少し立ち眩みしただけだ」
カラブランに連れられて宮殿の一室に通されると、そこにはいつものように尊大な天香妃が待っていた。
「ようこそ、雪瑜。こうして話すのは初めてね」
「はい。本日はお招きいただき、まことに恐縮です」
雪瑜が型通り拱手すると、天香妃は手を振って、堅苦しいのはやめろと示した。
「あなた、なんで呼ばれたか分かってる?」
「さて、見当もつきません」
「ふうん。意外と鈍いのね」
ひたすらトゲトゲしく押してくる天香妃に、とぼけた振りなど通じない。
「貴方、いま自分がどんな立場にいるか分かっていないようね」
「どういうことでしょうか?」
「ここで、あまり調子に乗ってると死ぬわよって言ってるのよ」
「ふふふ。それは脅しですか」
「いいえ違うわ。単なる事実。今までにも貴方のような者はいた。でもそいつらはみんな墓の下に消えた」
天香妃は指で地面を指した。
「恵徳妃なんかより、私に付きなさい。それが後宮で唯一生き残る方法よ……」
「申し訳ありませんがそれは無理です。私は主上にお仕えしているのであって、天香妃様の婢女ではございませんので」
「なんですって……!」
天香妃は目を吊り上げた。
「おや、大変失礼しました。このようなめでたい日に無礼を」
「めでたい?」
「お父上の伊宰相が、長年の功績により潘国公の爵を賜ると聞きました。謹んでお祝い申し上げます」
「?」
「玉蘭、例の物を」
「は、はい」
言われるまま、玉蘭は小さな箱を取り出した。
カラブランがそれを受け取り、中を改める。
三寸ほどの伽羅(香木)であった。
「どうぞ、お納めください」
「……お父様が国公になるなど、私は聞いていないわ」
「そうでしたか。私は随分前から聞かされておりますが」
「……!」
聞いたとは誰からだ、とは天香妃も言わなかった。
位人臣を極めた宰相を、更に賞することができる人間は一人しかいない。
雪瑜はその人間から、天香妃すら知らない情報を取り出せると仄めかしたのだ。
そのことに気が付いた天香妃は、声を荒げた。
侮辱されていると感じたのだ。
「弁えなさい、雪瑜!」
「それは主上に直接申し上げ下さい」
「……いいのね、雪瑜。本当にどうなっても知らないわよ」
雪瑜は無言で一礼し、花王宮を後にした。
この日の午後、天香妃は掃除が行き届いてないということで、名もない侍女二名を折檻している。
彼女の誘いを断り、それどころか挑発までしてきた雪瑜への苛立ちは相当なものだった。
一方花王宮の帰り、雪瑜は焦螟の元を訪れた。
焦螟とはほぼ毎日顔を合わせているが、こうして雪瑜が宦官の官衙を訪れて面会するのは稀である。
「おお、これは雪瑜殿、いかがなされた?」
「実は後宮の規定に関することで少々尋ねたいことはありまして」
「さて、なんでしょうや」
「ここでも仙遊宮でも、玲と雪瑜は亡き母を祀る台を築いて、朝な夕な拝んでおりますが、そういえば焦螟様の許可を取っていないと思いまして」
「は?」
焦螟は目を丸くした。
罪人だったわけではあるまいし、母を追慕するのに他人の許可がいるとは聞いたことがない。
「そのことで拙の許可が必要とは思えませぬが……」
どういうことかな?と焦螟は目で訴えた。
「はい。しかし我が身は出自が出自。万が一、厭勝の疑いで訴えられることがあるかも知れぬと思いまして」
厭勝とは、人を呪うまじないのことである。その罪は極めて重い。
「そういうことであれば、拙が一筆したためましょう」
「お手数、おかけいたします」
そのとき雪瑜は拱手しながら、さりげなく焦螟に近づいた。
そして、焦螟の他は誰にも聞こえないように囁く。
「お人払いを」
焦螟は頷いて周囲の人を遠ざけた。
「さてこれでよろしい。何か、拙めに申されたいことがあるのかな」
「単刀直入に申し上げましょう。大家のこと、焦螟様はいかが思う?」
「いかが、とはどういう意味かな?」
「至尊の座にあるお方が、臣下の顔色に右往左往するなど、あってはならぬと思いませぬか」
「それは……」
焦螟は言葉を濁した。
対照的に雪瑜は真っ直ぐに詰め寄る。
「はっきり申し上げましょう。この雪瑜はそれを正そうと思っております」
あまりにも抜き身で無謀な言葉に、老獪な宦官はたじろいだ。
「そして、後宮で私と志を同じくする方は、焦螟様だけだと考えております」
「なんと……」
誰が敵で味方か分からない政治の世界では、皆探るように慎重に自身の意図を仄めかす。
これほど真っ直ぐな言葉に相対するのは、久しぶりの経験であった。
「……天子が臣下の言に振り回されるのは、好ましいと思いませぬ」
焦螟はしばしの沈黙の後、言葉を選んでいった。
「しかし、拙の役目は陛下の後宮を守ること、これにつき申す。誰にも後宮のことに口出しさせぬ代わり、拙が政治に口を出すのは僭越というもの」
「……それで十分です」
「雪瑜殿、何をなされるつもりか?」
「ふっ」
思わず雪瑜は鼻を鳴らして笑ってしまった。
「私は何もいたしませぬ。恵徳妃様を見習って大人しくしているだけです。それなら、焦螟様もこれまで通り、何も言う事ありますまい?」
「む……」
そのとき焦螟と雪瑜の視線が絡み合った。
二人は目で何かを伝え合う。
「恵徳妃様を見習って?」
「はい」
「……よろしい」
声をひそめて頷いた焦螟の声は、いつもの媚びるような調子ではなかった。
まるで武将のような力強い声……いや実際、焦螟は後宮を守る将なのだろう。
「恵徳妃様を見習うなら、拙から何も申すことはありませぬ」
我が意を得たりとばかり、雪瑜は満足げに頷いた。
「焦螟様、初めてお会いしたとき、玲に言われた会話を覚えておりますか」
「無論」
「自分なりにやってみたつもりです。まだまだ不十分で、身を守れるかどうかは分かりませぬが」
「おそらく大丈夫でございましょう」
そして均衡が崩れ──後宮、ひいては王朝を揺るがす事件が起こる。




