第四話 ロストワールドⅣ
春風が吹いた。間宮結希が咲かせた桜の花弁は散り散りとなり、若草の匂いがそこかしこから香ってくる。自然の匂いだ。五月の匂い。
アイラは瞑目し、開き、突き抜けるような青空を視界に入れた。数日前までは地獄のような光景が広がっていたのに、この町はそれでも美しく在り続ける。それは、《十八名家》の永久の努力の結晶であり揺るがない郷土愛だった。
「アイラ、大丈夫?」
視線を移して、目の前を歩くアリアの蒼い瞳を見つめる。アリアは微笑み、差し伸ばした手でアイラの手をゆっくりと握った。
「平気」
温かなアリアの手を握り返す。
そんな日々が、これからもきっとここにある。
「疲れたら言ってね」
「うん」
アイラは笑って頷いた。愁晴の願いを叶えるようにアリアはずっと笑っている。そんなアリアの為に、アイラも笑おうと心に誓う。
ぎこちないかもしれない。それでも、笑って未来を見つめて。未来を語って前に進みたい。
大切な人の為にも。
「アリア、アイラ。着いたで」
愁晴が連れてきた場所は、養護施設と同じく隔離されたような場所に位置する百妖家の──その付近に作られた墓地だった。
《十八名家》であるにも関わらず、このような森の中に建つ百妖家はどんな家なのだろう。それは麗夜の幼馴染みの和夏の実家であり、愁晴の友人の麻露の実家だった。
アイラは息を止め、アリアと共に墓石の前に立つ。どれほど前からそこにあったのだろう。丁寧に掃除されているが、年季を感じる墓石だった。
綿之瀬家の墓。そう書いてある。
ここに、分家の五道と小町が。芽童神家の方には分家の亜子が。白院家の方には分家の桐也が眠っている。
式神のエビスに墓地はない。
「ここに、歴代綿之瀬家の分家が眠っとるんや」
「……歴代」
アリアが小さく呟いた。その声は何故か少しだけ震えていて、アイラは僅かに唇を噛む。
何を思っているのだろう。
どれほど彼女に心を寄せても、他人の気持ちなんて掴めっこない。そんなあたりまえに存在する壁が高くて、握った手から温もりが消えていって、遠ざかっていく。
「アイラ、ここの斜め後ろにあるのが骸路成家の分家の墓や。翔子さんとアランさんがおるよ」
顔を上げると、愁晴が妙に優しい顔をしていた。
するりとアリアの手を離し、アイラは咄嗟に足を動かす。そして、綿之瀬家の墓から離れて自らの家系であり未来の墓である墓石を見つめた。
真朱色の瞳を見開く。
生まれて初めて知って、生まれて初めて訪れた墓地。そこに、父親と母親が眠っているなんて知らなかった。
「ぁっ……」
何を言えばいいのかわからない。
ここに、この場所に、自殺とされた両親の骨が埋まっている。
辛うじて覚えている母親の優しい手と、日本人ではない彫り深い顔立ちをした父親の熱がこもった手。そんな二人に抱き上げられて、五歳にも満たない当時のアイラは穏やかな日々を過ごしていた。
『アイラ』
そんなわけないのに世界で一番美しい名前だとでも言うような呼び声が耳朶の奥で木霊する。耳朶が震える。耳朶を、塞ぎたくなる。
『どうか、私たちの可愛い可愛い貴方の下に愛が来ますように』
だから、愛来。
貴方たち以外の全員から死を望まれているのに、愛なんて来るわけがない。言えなかったが、アイラは自分の名前が世界で一番嫌いだった。
でも、今は好きだ。
この世界は広い。家族だけが世界のすべてじゃない。《十八名家》がすべてなんて、ありえない。この町が、陽陰町が、世界の中心なわけでも……すべてなわけでもない。
勘違いをしていた。
何も見えていなかった。
でも、今なら言える。
「……だいすき」
この名前が。この町が。《グレン隊》のことが。
大好きだ。
心の臓が震える。胸が詰まる。何よりも大好きな両親は、自分を置いていったから何よりも大嫌いだ。
溢れるくらいの愛憎を詰め込んで、胸を抑えて、アイラは桜色の唇を開く。
「──だいすきっ!」
目の奥が熱くて、痛い。狂ったように脳がじわんじわんと痺れていて、痛みを訴えてくる。
それくらい、愛してた。
「アリア、あそこ」
「え?」
「あそこが、四年前に亡くなったアリアの両親の墓や」
「……なんで、しゅーくんがそんなこと知ってるの?」
「言うたやろ。俺は、綿之瀬五道の傀儡や。この手足も、この声も、この脳も、この胸も、全部全部あの人のモンやった」
顔を上げて、斜め前から見た二人は。
痛ましいくらいに笑っていなくて、空っぽだった。
誰よりも笑い、誰よりも幸せそうなのに。誰よりも笑わない心を持って誰よりも深い闇をその内側にしまい込んでいる。
鼓動が止まりそうだった。常に笑っていたあの日々の二人が嘘のようで、百鬼夜行が壊したものの結晶が深く胸に突き刺さる。
「おじちゃんはもういないよ」
「知っとるよ。せやから宙ぶらりんや」
「私も……私も、宙ぶらりん」
アリアは俯いた。
先日、五道の母親であるトメに乾ごと引き取られた彼女は未だに思い悩んでいた。
本当にこれで良かったのか。
乾に許可なくやってしまって良かったのか。
笑顔の下でそう問うているのが、見ていればよくわかった。いいに決まっているとアイラはアリアに言った。乾は、ちゃんと見ている。あれほど傍にいて身を案じていたアリアのことをちゃんと見ている。だから、嫌だと思ったら帰ってくるはずだと。
そう言ったら、アリアは「そうだね」と力なく笑っていた。
「しゅーくん、あれだっけ?」
「せやで」
「じゃあ、お別れ言ってくるね」
アリアは淡々と、なんの感情も込めずに笑った。
歩く姿は百合の花。なのに、彼女の心は綿之瀬家の方に傾いている。
アイラはきゅっと手を握り締め、何一つ知らないアリアと愁晴の過去に触れようとして戸惑った。墓石に向かい合ってアイラに背を向けたアリアは、何も言わなかった。
その小さな背中は、内側にある大切な部分が抜け落ちてしまったかのように薄っぺらかった。
アイラは足元を確かめるように歩いて、愁晴の下に戻る。
それが引き金となったのか、愁晴はしゃがみ込んで手を合わせた。
アイラも愁晴に倣い、手を合わせる。
購入した献花の数が異様に多かったのは、この為なのだろう。見て見ぬ振りなどできないほどに親しかった誰かが埋まっている。
「ねぇ、しゅーくん」
不意にアリアが声をかけた。
アリアはまったくこっちを見ない。
「本当にここにいるの?」
背筋が凍った。アリアは多分、そんなことを今聞いたのだ。
「おらんよ」
そして、それが的中してしまうのだから、心が寒かった。
「その墓は空っぽや。形だけで誰もおらん。遺体はイギリスに帰して、本当の墓もそっちにある。それは、アリアの為だけに作られた墓や」
「どうして私は一緒に帰れなかったの?」
声が震えている。
「その権利さえも、アリアは綿之瀬五道から奪われたんよ」
その答えは、アイラの予想外の答えだった。
「……どうしておじちゃんは、全部を奪ったの? しゅーくんの全部も、私の全部も、ヌイの全部も、アイラの全部も……私っ、おじちゃんたちがいないとどうしていいかわからないよ……何も、大事なことは何も思い出せないのにっ!」
泣いてくれた方がまだ寄り添えた。なのに、アリアは泣かなかった。怒っているわけでもない、ただただ痛がってるだけの表情なのに、誰も寄せつけない。
「そないなこと、聞く暇もあらへんかったな」
愁晴は呟き、思い出したかのように微笑した。
目まぐるしかった施設での日々と心躍る《グレン隊》での日々。そんな二つの日々が二人の中で交差してすれ違う。アイラは眉間に皺を寄せて、はっと体を強ばらせた。
自分は、それを知っているではないか。
「私、おじちゃんたちの夢を叶えたかった。必要としてくれるなら、傍にいてくれるなら、助けて──守ってあげたかった。もう、パパとママみたいに救えないのは嫌だったの。でも……奪うのは違うよ。おじちゃんたちはそこを間違ってた。どうして、何も言わないまま死んじゃったの……?」
「ゴドウさんは……」
自分は、百鬼夜行が起きたあの日も五道が死んだあの日も彼の隣にちゃんといたではないか。
「……守りたかっただけ、なの。だから、努力したって言ってた。あの日、たくさんの遺体を見て、嘆いてた。守れなかったって、土地神は人が全滅することを望むのかって……自分の努力こそが、無駄死にだったって……言って、泣いてた。みんなを巻き込んで、酷いこと、したと思うし……間違ってたかもしれないけれど、あの人は優しかった」
誰かの人生を奪わないと、守れなかったのだろう。
アイラも、乾も、アリアも、誰も守れなかった。けれど、愁晴と吹雪だけは守ってくれたと認めてくれた。
人工半妖が多くの人の命を救ったと、吹雪は《十八名家》の会で証言したと言う。他に味方なんていないのに吹雪はまったく挫けなかったと。
五道がやったことは、正しくないことだったかもしれない。それでも、間違ってなかったと否定することはこの先いくらだってできる。
「最期に、言ってた。『死にたくない』って。ゴドウさんは、おくびょうな人……だったんだと思う」
存在を否定されることは辛いことだ。
一度でもあんなに痛いのに、二度目なんて耐えられない。そんな苦痛を、アイラは真と星乃に味わってほしくない。
「だからわたし、みんなとゴドウさんの名誉のために戦いたい。どんな目的があったとしても、生かしてくれたから……誰かから死んでほしいって思われるような生き方を、わたしはもう、したくない」
アリアの疑問の答えになっていない。それでも、これが五道に奪われて空っぽになった心の中にいた感情の正体だ。
顔を上げると、驚いたようにアリアがアイラを見つめていた。




