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陽炎歴乱舞  作者: 朝日菜
業火のグレン
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第三話 天国と地獄Ⅳ

『──君。──という名前は外国名だね?』


 それは、いつの日の出来事だっただろう。

 本当の名前はもう思い出せない。だけど、確かに紡がれた自分の本名。


『今朝方届いた書類を見させてもらったよ。君はイギリス人の血を引くクォーターの──なんだね。日本人の血は祖父からのものだから、外国名なのは理解できるよ。けれど、日本では馴染みのない名前だから少し気になっていたんだ』


 クォーターなのは覚えていた。と同時に、アイラがイギリス人との間に生まれたハーフだと知って親近感が湧いた三年前を思い出す。


 初めて会ったあの時、彼女は世界中が自分の敵であると思い込んでいる節があった。

 何事にも警戒心を抱き、急に諦めて無防備になって。そしてまた警戒する──少しだけ変わった齢四歳の幼女だった。


『それで、これは私からの提案なんだけどね。君の育ての親として、君に新しい名前をプレゼントしようと思うんだ』


 アイラの名前は本名で、自分の名前はそうじゃない。

 自分の貰った名前を口内で反芻し、不意に流れた涙に驚いた。



『──……有愛アリア、というのはどうだろう』



 漢字で書くと、有愛。有った愛、愛が有る、ここに有る愛──そんな、愛の名前だ。そして、奇妙なことにアイラの漢字も愛の名前だった。愛来。愛が来ると書いてアイラだった。


 アリアは目元を拭って、かつてその意味を聞いた時に独奏曲アリアだと答えた五道ごどうの笑みを思い出す。


 一人ぼっちの愛の名前。それが綿之瀬わたのせ有愛だった。


「しゅーくん、離して……!」


 それでもアリアは、五道を嫌いにはなれなかった。

 アリアを押さえつける愁晴しゅうせいは、厳しい顔つきでアリアのことを見下ろしている。


「しゅーくん、どうして! どうしてなの!」


 流した涙は止まらなかった。


 愁晴は、愁晴だから何もわからないんだ。

 アリアやアイラのように、〝拾われた人間〟じゃないから何もわからないんだ。


「……アリアはなんも知らんのや」


「知らないって、何を……!」


「……覚えてへんの? 自分の、正体を」


「え……?」


 なのに、今にも泣きそうな愁晴の顔が、何故かそこにはあった。

 その瞳の中の自分は泣きじゃくっている。泣いているのは自分なのに、どうして愁晴もそんな顔をするのだろう。


「アリアの正体は、俺の正体とおんなしなんやで?」


 アリアは、愁晴のことを知っているようで本当は何も知らなかった。


 好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、将来の夢も、血液型も、趣味も、特技も、好きな人も──何一つ。知らなかったのだ。

 出逢った頃は名前さえ知らなかったのだと、アリアは不意に思い出す。朝霧あさぎり愁晴は、驚くほど自分のことを話さない人間だった。


「……わかんないよ」


「自分の本名も?」


「…………わかんないよ」


「本当の家族も?」


「…………わかんないよ!」


 アリアは床を殴り、じわんじわんと痛む手の骨にさらなる涙を流す。


「どうしてそんなことを聞くの?! どうでもいいじゃん! 全部! 何もかも!」


「そんなんでええの? 親から貰った本当の名前を忘れて、その親のことも忘れて、アリアはほんまにそれでええんか?」


「……ッ!」


 親……?


 だらんと手が垂れた。脳が焼けるように痛い。アリアは目を見開き、遠い遠い昔に自分を縛ったしゅを思い出した。



『──Get to remain life of children』



 忘れたまま、いつの間にか身についていた母親の言の葉。

 アリアは言葉を失い、失ったものの大きさを生まれて初めて思い知った。


「えげつないやろ」


 掠れた声で愁晴が言う。


「施設長は、アリアからすべてを奪ったんやで」


 そしてそっと、彼の手が頬に触れた。慈しむように撫でて、頬に伝った涙を拭う。優しい手。アリアがよく知っている大好きな手だ。


「本当の名前も、本当の親も、自分が何者なのかっちゅー自意識も……アリアは全部奪われたんやで。施設長が奪ったんやで? 俺も、いぬいも、アイラも……全員、施設長からすべてを奪われたんや」


 手が震えている。

 アリアや乾やアイラだけじゃない。愁晴も、五道から何かを奪われた──?


「しゅーくん、私……ほんとに何も知らないんだね」


 そうだ。一年くらい前に乾も言っていたような気がする。


『チッ。やっぱお前、前から全部知ってたんだな。自分の事情は何も話さねぇクセに、人の事情はこと細かに知ってんだからマジうぜぇ……』


 愁晴は。


『アリア。私たちは互いに何も知らないけどさ、こいつはアリアの事情も知ってるんだよ? あんたが忘れたこと、全部。アリアだけじゃなくて、最近入所した〝あの子〟のことも全部知ってるんだ。反吐が出るだろ?』


 自分だけじゃない。乾や、当時入所したばかりのアイラのことも知っている。


『ごめんなぁ、乾もアリアも。俺も別に知りたいわけやないんやけど、一応運営側の人間やから。入所時にある程度のことは知らされるんよ』


 その理由は、そんな果てしなく遠い距離を感じるような理由だった。


「…………しゅーくん、私、おじちゃんに会いたい」


「…………ええから。ここにいとき」


 アリアも、愁晴も、迷うように言葉を漏らした。


 愁晴は不意にアリアを離し、たった一言だけ今まで床に押しつけていたことを謝罪する。それでも、それはアリアを外に解き放つという意味ではなかった。


 養護施設への殴り込みに、アリアと愁晴は必要不可欠なはずだった。

 何故ならアリアは渦中の人工半妖はんようで、綿之瀬家分家の養女で──あの養護施設に、住んでいるから。


「嫌だ」


 もう、いいよ。


「…………帰る場所、なくなってもいいよ」


 だって、その家に帰ろうとしている家族はもうどこにもいないって──本当は、わかっているから。


 小町こまち亜子あこ桐也きりや、エビスは死んだ。亡くなってしまった。るいと乾はもう帰って来ないかもしれない。吹雪ふぶき伊吹いぶきは、そもそも帰る必要なんてないのだ。

 愁晴が壊したがっていて、五道が壊れていて、アイラと自分だけが残されて──。拒んでいるのは、もしかしたらアリアだけかもしれなくて。


 大好きな愁晴が、施設があるせいで不幸せなら。

 もう、何もかもが終わりだということを認めなければならない。


「でも、絶対に約束して。あの建物だけは、何があっても絶対に壊さないって……」


 起き上がって、アリアは愁晴を見上げた。

 それだけは絶対に譲れないと瞳に力を込めて、愁晴に訴えかける。


 忘れてしまった過去はもう振り返らない。今のアリアを形成したのは、誰がなんと言おうとあの養護施設なのだ。

 だから、どうしてもそこだけは譲れない。アリアの大切な、他人が侵してはならない聖域なのだ。


「ええよ」


 愁晴は涙をはらりと零しながら誓った。

 それだけでもう充分だった。


「せやけど、なぁ、アリア」


 アリアの正面に立った愁晴は、何故か眉間に皺を寄せている。


「……何?」


 アリアは怪訝そうな表情をし、愁晴の顔色をゆっくりと伺った。


「俺は、それだけしか保証でけへんぞ」


「…………」


 それは、どういう意味なのだろう。


 アリアは黙考し、不意にびくりと肩を震わせた。


「まさか……」


「待て! アリア!」


 腕を掴まれる。待てない。待つわけがない。それだけは許容できない。

 命の保証は、しなくてはならないのだ。間宮結希まみやゆうきが救ったこの命は、そう簡単に捨てていい命ではないのだ。


「行ったらあかん! お前はまだ子供なんやぞ?!」


「はーちゃんとさっくんは行ったじゃん!」


「あいつらとアリアはちゃうやろ!」


「何が違うの! 私は……!」



『──Get to remain life of children』



 ドクンッ、と、命が脈を打った。


 一生子供のままでいなさい。

 大人になっちゃダメなのよ。


 そう言い聞かされて育ったアリアは、出逢ったばかりの四年前から何一つ変わっていない。


 だが、はるかは違う。遥は毎日一歩ずつ変わっている。

 朔那さくなは元から子供離れしており、将来性も確実に内に秘めている。


「……私、は……」


 こんなところで閉じ込められているよりも、戦場にいた方が確実に活躍できる。

 反発しているから置いていこう──その考え自体に間違いはなくとも、命の危険があるとわかっているのなら無理矢理戦場に引っ張って役目を果たさせることだって可能だったはずだ。


 だって、アリアは決してかがりを見捨てない。

 何があってもアリアは《グレン隊》を見捨てない。


 だから、置いていく必要はなかったのだ。アリアは全力で《グレン隊》を止めるが、《グレン隊》が傷ついたら何がなんでも治すのもアリアの信念なのだ。


 炬はそれを、知っていると思っていた。だが、多分、アリアはあまりにも幼稚すぎた。自分の信念をちゃんと伝えられなかった。


「……そんなに」


 アリアは、《グレン隊》に入ってからよく半妖能力を使っていた。

 大人にならないと決めていても、子供とは思えないほど献身的に支え、アリアは今年で十五歳になった。しかし、かつて母親からかけられた呪はやがて限界を迎え、ひび割れていく。


 イライラした。乾や朔那みたいに思いきり舌打ちをしたら、どうなるのだろう。もう、子供には戻れないのだろうか。


 いくら過去を忘れていても、身に染みついていた母親との約束だ。それが彼女との唯一の繋がりで、守れるものなら一生守っていたかった。

 でも、その約束には元から無理があったのだ。


 子供は誰だってどこかは大人になるもので、時と場合によっては子供のままではいられないのだ。

 そんなことも、大人の炬ならわかっているはずだと今思った。それなのに、誰もアリアの秘められた可能性には気づけなかった。



「……そんなに私のこと、信用できないの?」



 純粋にそう思った。

 ぎょっと目を見開く愁晴は、何もわかっていない。


「しゅーくん。しゅーくんは私のことたくさん知ってるのかもしれないけれど、〝今の私〟のことは何一つ知らないよね……?」


 もしもアリアが呪いから解き放たれた大人だったら、施設を潰そうとする彼らに賛同しただろう。

 自分本位な感情よりも、他人の幸福と未来を優先して聞き分けるだろう。


 でも、アリアは子供だった。

 自分のことしか考えられない子供だった。


 もっと早くに呪縛から解き放たれていたら、忘れていた母親との約束を破っていたら、ついていって彼らを守れた。


 ぼろぼろと涙が溢れる。もしかしたらと、思ってしまう。アリアは多分、小町や亜子や桐也やエビス──そして、百鬼夜行で亡くなってしまったすべての人々を守れなかっただけじゃない。《グレン隊》のことも、守れないのかもしれない。


「……ッ!」


「なっ!? アリア!? やめ……行ったらあかん!」


 ほら、やっぱり。


「うるさいっ! 私は守りたいの! 全部! 絶対に絶対に守るんだから!」


 アリアは愁晴の隙をついて裏口から飛び出した。

 手を広げる。この手から、命を取り零すことは決してしない。


 必ず守る。それが自分の存在意義。兵器として五道に拾われた自分の生きる意味。だから、炬の下でもっともっと──耐えられるように強くなろうとしたのだ。自分が他人から守られるのは、信じてもらえないのは、違うのだ。


「…………ちっ。あだぁ?!」


 慣れない舌打ちをしたせいで舌がやられた。

 改めて、慣れないことはするものじゃないと生まれて初めて学習する。が、そうならば慣れていることをするまでだ。


 アリアは《ハリボテの家》から脱走した。


 逃げるのは養護施設での日々で慣れている。

 けれど、今は逃げたくなかった。


 突きつけられた現実から。選ばなければならない未来から。守りたいと願って、そんな自分の傍にいつだっていてくれる人々から。


 そして、人々を守った間宮結希の誰よりも尊い信念と行動から。

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