第三話 天国と地獄Ⅱ
「この階と地下はお前らに任せた」
たったそれだけを告げた炬は階段を上り、見たことのない世界に一歩踏み出す。
この階は、愁晴がいた階だ。高校生の頃──今思えば、遠い遠い昔に出逢ってすぐ傍で笑っていた愁晴の帰る場所だった。
炬は正面へと続いていく白い廊下を走る。
ここに来て、一体自分は何をすればいいのか。何をしたら潰したことになるのか。
苦悩して、星乃の慟哭に急かされる。
知らない仲ではないアイラと真と吹雪がまだここにいる。《十八名家》の分家の三人が一階と地下にいるとは思えず、いるとすればこの階だろうと目星をつける。
《十八名家》ではないあの四人を置いてこの階に来た炬は、再奥の部屋から出てきた水色の髪の集団とかち合った。
「……雪之原」
唸るような声が漏れた。
検察官の雪之原家は、暴力団の炎竜神家と何かと馬が合わない。同じく暴力団の相豆院家ほどではないが、因縁の相手と言っても過言ではないだろう。
「……炎竜神、炬」
その声に応えた集団の中心にいる女性は、眼鏡のブリッジを上げてへにゃっと顔を緩めた。
「ひぃぃぃぃ?! なななななんで?! なんでかーくんがここにいるの?!」
「うるせぇ。吹雪はどこにいる」
苛立ちを抑えて問い詰める。が、彼女はまったく聞く耳を持たない。今も、昔も、彼女は人の話を聞く気があるのだろうか。
「ごめんなさいごめんなさい食べないで! ふーちゃんなら中にいるから!」
「頭首、何故此奴に萎縮するのです」
「《紅炎組》の犬め、我らの功績を横取りする気か?」
「犬じゃなくてハイエナだな」
炬は、雪之原家の現頭首で吹雪の従妹の白雪に従う彼女の親族を睨みつける。ビクッと、両肩を震えさせた彼らは老人や若者ばかりだった。
どの家も共通している。百鬼夜行を終え、生き残った一族は皆雪之原と同じ状況なのだ。
ぽっかりと空いた世代の代わりに進み出す老人と若者の心に余裕はない。炬は苛立ちを噛み締めて、資料を部屋から運び出す雪之原家とすれ違った。
ここはなんの部屋なのだろう。開けっ放しにしてある暗い部屋を覗くと、吹雪が両膝をついて打ちひしがれていた。
「吹雪」
声をかけて、辺りを見回す。
廊下の明かりで照らされていたのは吹雪だけだ。アイラと真は、照らされていない。
「……炬、お兄さん」
詰まるような声を吐いた少年に目を止める。真だ。しばらく会っていなかったが、確かに赤ん坊だった頃の面影がある。
そして。
「……アイラ」
炬はアイラの名を呼んだ。
アイラは柔らかな白い長髪を汚い床に擦りつけ、静かに肩を上下させている。謝っているのか──それは、土下座したような体勢にも見えた。
「やめろ」
ふるふると、首を横に振られた。
アイラは何も話さない。アイラの声を炬は知らない。無口と言うには度が過ぎている声なき少女は、やがて額を床に打ちつけ始めた。
「やめろ」
「……アイラお姉さん」
やがて、耐え切れなくなったのか真も声に出して泣き出した。
悲しいと思えるほど、真も──ついでに星乃もここにいた期間は少ない。なのに堰き止めたように泣き出すのは何故なのか。
遠い昔、いや、そもそも泣くことさえ許されなかった幼少期の童心を炬は理解できない。手を伸ばして繋ぎ止めることも、できない。
「……誰だ」
しわがれた声だった。
女性の吹雪でも、幼いアイラと真の声でもない。
炬は視線をデスクに止めて、今の今まで生気を失っていた男性を隅から隅まで眺めた。
「お前……」
忘れていたわけではない。愁晴が言っていたのを覚えている。
「……五道」
亡くなった小町の実父で、アリアと乾の養父。さらに言うならば、天涯孤独となった愁晴を支援していたのも彼だった。
『あ~、なんて説明したらええんやろ。俺な、面倒を見てくれるおっちゃんがおるんよ。年上なんやけど、おっちゃんの娘さんとか……年下の女の子らとかと一緒に住んでんの』
今思えば、それが五道で小町でアリアで乾だった。
『おっちゃんが俺のこと支援せえへんかったら、こないな町にも学校にも来れへんわぁ。ほんま、感謝せなあかんよなぁ』
今思えば、彼が炬と愁晴を出逢わせた切っ掛けを作った人物だった。
感謝すると言いながら恩を仇で返そうとする愁晴が理解できず、靄になって消えていく。そして思う。愁晴は多分、あの頃の愁晴ではない。
知能を得た傀儡は、牙を向く。
そんな言葉を、どこかで聞いた気がした。
愁晴は傀儡ではないが、あの頃の愁晴は無知な人形のようだった気がする。人間として、未成熟だったような気がする。
炬は忘れるように首を左右に振り、五道の狂人じみた瞳に睨まれた。
「五道さん! 話を聞かせてもらいますからね……ってかーくん?! ななななんでまだここにいるの?!」
「お前こそ用が済んだなら帰れよ」
「かっ、帰りません! 五道さんからちゃんと話を聞くんだから……」
一歩白雪が歩を進める。刹那、五道が纏っていた雰囲気が激変した。
「──ッ!」
白雪の手首を掴んで、無理矢理部屋の外へと投げ飛ばす。
「痛っ……?!」
「貴様! 頭首に何を……」
「全員逃げろ!」
叫んだ炬は、ゆらりと揺れる五道の手中に視線を向けた。注射器だ。中に何かが入っている。
「……五道、さん?」
異変に気づいた吹雪が震えながら問いかけるが、五道は何も聞いていなかった。首元を顕にし、なんの躊躇いもなく首筋に針を差し込む。
「五道さんっ!」
吹雪の絶叫は届かなかった。あまりにも躊躇いがなさすぎて、その流れが普通のものすぎて、反応することが遅れた炬は咄嗟に吹雪を担ぐ。
「アイラ、真! 出ろ!」
暴れる吹雪を外にいた雪之原の一族に投げ、出ることを拒む二人を担ぐ。再び部屋の外へと体を向けた刹那、視界の真下から黒い布が飛び出した。
……これは、なんだ?
炬は呆然と、まっすぐに伸びている黒い布を辿る。
「きゃああああ!!」
先端は赤黒い液体で濡れており、ぽたぽたととめどなく垂れていた。視線を上げると、白雪と吹雪が悲鳴を上げて炬を見ている。
「かーくん! そんなっ、かーくん!」
「炬! 炬っ! 貴方、聞こえているの?!」
雪之原家と炎竜神家は家柄のせいで仲が良いわけではないが、白雪も吹雪も必死になって炬の名前を呼んでいる。二人は家柄なんて関係ないと──そうやっていつでも炬自身を見守っていた雪之原家の従姉妹だ。
そんな二人が、何故今にも死にそうな表情で炬を見ているのだろう。
「五道さん貴方……! なんてことをしたんですか!」
「そっ、それは大罪です! 貴方の罪は、地獄の住人でさえ決して許さない──人ならざる者の罪です!」
炬は喀血し、初めて知った。
黒い布は自分の腹を貫通して、ぽっかりと穴を開けている。
「炬、お兄さん……?」
呆然と、担がれていた真は炬の背中を見つめていた。黒い布は背中から炬の体を刺し、赤黒い血を引きずり出している。
アイラは声なき声を上げて手を伸ばし、顔を上げて炬を刺した五道を見つめた。
「……ど、し、て?」
言葉を出そうとしたのだろう。だが、残念ながら上手くは言えていない。
炬は一歩歩を進めた。
自らの体を刺す。それでも前へ前へと突き進む。
「かーくんっ! やめて! 動かないで!」
「待ちなさい! アリアはどこ?! アリアを連れて来なければ……」
やめろよ。炬は自虐気味に口角を上げ、渇いた笑みを吐き出した。
アリアは来ない。
決して来れない。
今からここを潰そうとしている自分を、アリアが救うわけがない。
炬はアイラと真を白雪と吹雪に手渡し、ぬるりと布が引いていくのを眺める。もう、黒い布は自分を刺していない。
振り向くと、両手が黒い触手となった五道が炬を睨みつけていた。
……化け物かよ。
口内の血を吐き出して、そのまま呟く。
「五道さん、貴方……なんなの……?」
「半妖……? で、でも、そんなのありえないわ……だって……」
──半妖は、女性しかなれないんだもの。
呟かれた白雪の声は、ぼろぼろと零れてばらばらに砕け散った。
「…………」
何かが壊れた。壊れたのは施設なのか、それとも、五道の心なのか。
砕け散ったものは修復不可能で、取り返しがつかなくて。炬は息を止め、再び叫んだ。
「行けっ!」
逃げろ。今の五道は危ない。吹雪も真も、アイラでさえ殺すような勢いだ。
「炬! 貴方も逃げなさい!」
「……ッ!」
逃げない。炬は今、五道を殴りたい衝動に支配されている。
「シッ!」
死ね。
それだけしか言えない。
死ね死ね死ね死ね。
「──お前か!」
実家かどうか。そんなことはもう関係ない。
目の前に化け物がいる。正統なる血を引き継がない、化け物がいる。
五道が《十八名家》ではないアリアを地獄へと突き落とした。なんの力も持たない無知で無垢だった愁晴を地獄に縛りつけた。
乾も、アイラも、真も、星乃も──化け物へと仕立て上げた。
目の前の五道を見て本能でわかる。
こいつは今、ここで叩き潰さなければ。
何よりもアリアと愁晴のこれからの人生を縛りつけた五道を──炬は、許せそうになかった。
百鬼夜行で本物の妖怪と命のやり取りをした炬は、死んだ方がマシだと思えるほど怯えていた。この自分が、怯えていた。そんなことはありえない。だが、そんな世界があるのは本当だ。
そんな世界に、炬が心を許したアリアと愁晴が突き落とされている。
許せない。何がなんでも、許せそうにない。
炬は吹き出した腹の血を無視して五道の元へと駆け出した。床を強く踏み鳴らす。必ず勝つ。勝ってやる。それでアリアと愁晴が笑顔になれるとは思っていない。それでも、勝つ──。
「殺すなら殺せっ! 炬ぃ!」
「うるせぇ!」
五道は自暴自棄になっていた。
捕まらないように、必死に抗っている。
醜い。醜い醜い醜い醜い……。
「死んで償えっ!」
自分の為に多くの人々の人生を食い潰したことを、いつまでも。未来を食い潰したことを、運命を捻じ曲げたことを、死ぬほど後悔して死んで償え。
炬だけでも背負うことが難しいそれを、見ず知らずの孤児に背負わせた五道が憎い。
愁晴の私怨が乗り移ったかのようだった。拳で五道の触手を殴る度に、血が沸騰するように熱くなる。自分ではもう、止められそうにない。自然と口角が上がった。
「炬お兄さん……!」
「真っ! 行くわよ!」
「……ッ、総員撤退!」
五道を見てようやく判断を下したのだろう。
雪之原の一族がアイラと真を連れて逃げていく。そう思ったが、違った。
「…………」
炬は歯を食いしばり、何故かこの場に残ったアイラの気配をそっと確かめた。




