第二話 金髪の少女Ⅳ
全速力で走ったまま坂道を駆け上がり、養護施設の自動ドアを通るとロビーには誰もいなかった。その代わりに、奥にある食堂は今まで以上の賑わいを見せている。
恐る恐る──どんなに見るのが怖くても、アイラはがくがくと震える足に鞭を打って歩いた。
食堂はロビーの奥の自動ドアを開ければすぐに辿り着けるのに、それまでの道がとてつもなく長く感じる。目の前にあるのに、今さら怖気づいてしまう。
アイラは奥歯を噛み締めて、誰の手を借りなくても勝手に開く自動ドアの前に立った。
「星乃! 星乃! ねぇ見てこれ!」
「うわぁ! すごい上手だね、多翼くん!」
息を呑む。心臓がばくばくと鳴って止まらない。わらわらと、今までアイラたちが使っていた丸テーブルを囲んで遊んでいるのはどこの誰かもわからない子供たちだった。どの子を見ても、アイラと同い年かそれ以下に見える。
そんな彼らはアイラの方を見もせずに、思い出深い丸テーブルに直接絵を描いていた。そして、それを見ているはずの大人はどこにもいなかった。
「おねーた、おねーた」
はたと気づき、その〝おねーた〟が自分であるという自覚を持つ。アイラは恐る恐る視線を下ろし、わずか三歳くらいの幼女を見つめた。
「あっ、モモぉ! かってにはなれちゃ……おねーちゃん、だれ?」
多翼と呼ばれていた六歳にも満たなさそうな幼児は、そうやってアイラを見上げて観察している。十人はいるであろう子供たちの視線が、一気にアイラただ一人に集っていた。
こうして誰かに見られたことも、こうして〝おねーちゃん〟と呼ばれたこともなかったアイラは、ただ愕然と子供たちを見つめている。
アイラはずっと、誰かの姉にはならなかった。
誰かの妹で、誰かに追随することが使命だった。
「アイラおねーちゃん?」
視線を動かすと、そこには星乃と呼ばれていた少女がいる。
桜色の髪と若草色の瞳は見間違えるはずもなかった。彼女は今でもアイラの記憶に残っている、《十八名家》小白鳥家の分家──小白鳥星乃だった。
どうして……。どうして《十八名家》で真っ当な人生を歩んでいるはずの星乃が、こんな辺鄙な監獄の中にいるのだろう。
同じく《十八名家》骸路成家の分家だったアイラは、あまりの衝撃で腰を抜かした。
「やっぱりアイラおねーちゃんですよね! アイラおねーちゃん、みんなといっしょにあそびませんか? むかしみたいにっ!」
星乃はアイラの手を握り、あどけない笑顔でどんどんどんどん引き込んでいく。
《十八名家》の懇親会で何度か顔を合わせていた星乃は、アイラの一個下だった。アイラが《十八名家》から離れてこの施設に来た三年前の彼女は三歳で。当時まだ四歳だったアイラとよく一緒になって走り回っていた。
遊ぶって、どうやって?
三年前まで一緒に遊んでいたのに、アイラは同年代の子供との遊び方を忘れていた。同時に彼女は、この町を襲った百鬼夜行という名の悲劇を知らなかった。
悲劇を知って戦いを生き抜いた虚無のアイラと、未来ある無垢な星乃はもう同じ道を歩めない。
──同じ世界では、もう生きられない。
『俺は、それを止めるべきやと思う』
刹那、愁晴の声が聞こえたような気がした。
アイラは息を止め、目の前にいるこの子が、星乃が、自分と同じ道を歩むことを知る。
体が震えた。そんなことはダメだ。決して、許されることではない──。
「あ、アイラお姉さんだ」
振り返ると、見覚えのある少年がいた。
「真!」
「真だ!」
真は微笑し、自分の名前を連呼する十二人の子供たちを眺める。
「ねぇ真! 見てこれ!」
「ぼくもかいたの! いっぱいかいたの!」
「まこ、まこ」
群がる彼ら。さらに小さなモモでさえ真にしがみついて、大切そうに頬ずりをした。
アイラは目を見開き、すっかり彼らのリーダー的存在となった真の存在を認める。そして唇を噛み締めて、ここにも自分の居場所がないことを知った。
「星乃君、次は君だよ」
「──ッ!」
いつの間にか伏せていた視線を上げ、アイラは食堂に姿を現した五道を視認する。
「……ん? あぁ、帰っていたのか。アイラ君」
相も変わらずやつれている五道は虚無の瞳でアイラを捉え、どうでも良さそうに視線を外した。
言葉を出せないアイラはぎこちなく頷き、星乃を連れ去る五道の後ろ姿の小ささを知る。猫背だった。いつでもピンと張っていたあの背筋は、もう五道にはできない。
もう、あの頃には戻れない。
「アイラお姉さん」
真は微笑んでいた。
「ぼくね、五道さんに犬神の〝じんこうはんよう〟にしてもらったんだ」
え?
「だから、ぼくも……星乃も、アイラお姉さんのおてつだいができるよ」
何を、言っているの?
「あ。もしかしてアイラお姉さん、ぼくのことおぼえてない?」
違う、そんなことじゃなくて。
「ぼくだよ、ぼく。猫鷺家の真っ!」
アイラは口を半開きにさせ、朗らかに笑う少年を思い出した。
猫鷺真。《十八名家》猫鷺家の分家で、星乃と同い年で、アイラとも遊んでいた──あの頃の幼児だ。
「思い出してくれた?」
顎を引く。真は思い出してくれたことがそんなに嬉しかったのか、アイラの両手を優しく包み込んだ。
そんな……。そんなことって、あるのだろうか。
「だからね、アイラお姉さん。また……」
茶色い髪を揺らして、緑色の猫目を揺らせて──
「……また、三人であそべるね!」
──真は未来に希望を見い出していた。
アイラは思い浮かぶ言葉さえ出て来なかった。
忌み嫌われた血をその身に宿し、あんな地獄の日々を彼らも生きなければならないなんて。
そんなの、受け入れられなかった。
「アイラお姉さん?」
真はアイラの異変に気づいたのか、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの? さっきからずっとしずかだけど……ぐあいでもわるいの?」
そんなことない。言葉にできない。
アイラは首を横に振り、戸惑って困惑した。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……。
『ごめんください』
それは、暗闇に咲く一筋だった。
アイラは顔を上げ、食堂から全速力で飛び出す。
ロビーでひっそりと佇んでいたのは、アイラの知らない男性だった。春物のコートに身を包み、目深に帽子を被っていた男性はアイラの勢いに気圧されて一歩身を引く。
「……あ、こんにちは」
真下から男性を眺めたアイラは、どことなく誰かに似ているような気がする彼に驚き足を止めた。
「ねぇ、ここの責任者の人はどこにいるのかな?」
「五道さんにようじですか?」
動かないアイラの代わりに応対した真は、アイラに目配せをして軽く頷く。
「五道さん? ……あぁ、うん。そうだね。綿之瀬五道さんはどこにいるのかな?」
「今よんできます。ちょっとだけまって……アイラお姉さん? どうしたの?」
それでもアイラは真を引き止めて、警戒心を顕にさせた。
誰だろう。この男性は、一体誰に似ているのだろう。
そして、愁晴の件がある以上、軽率に誰かを五道に合わせるわけにはいかなかった。
真はアイラの様子に何かを感じたのか、催促することも動き出すこともしない。
「いるんだよね?」
そんな二人の子供に目線を合わせた男性は、優しそうな声色で五道を探した。
「五道ならいるよ!」
振り返ると、食堂から出てきた多翼が笑いながら暴露する。
真は誤魔化せないと判断したのか、意を決したように告げてしまった。
「……います」
「五道! お客さーん!」
多翼はバタバタと施設の廊下を走り回って、アイラと──そしてかつてのアリアと乾が悲鳴を上げた実験室へと向かう。
同じく悲鳴を上げたはずの真は表情を曇らせ、目的がわからない男性をアイラと同じように警戒した。
「今の子の名前はなんて言うのかな」
「多翼です」
「へぇ、素敵な名前だね。あと、モモという名前の子もいるはずなんだけど……君たちは知っているかな?」
「はい」
モモ? この人は、一体どんな目的があってモモを──。
「連れてきたよ、おじちゃん!」
活発な多翼に引きずられて姿を現した五道は、ボサボサの髪を振り乱しながら不審げに男性を見やった。
やはり彼は、五道の知り合いではないのか。だとしたら、一体どこの誰なのだろう。
「……誰だね、君は」
「私の名は雅臣です」
「そんなことは聞いていない」
「あぁ、そうなんですか?」
五道は不快そうに眉を顰め、三十代くらいの雅臣の態度に機嫌を損ねた。
「なら、陰陽師と名乗った方がわかりやすかったですね。謝罪します」
雅臣は言葉とは裏腹に朗らかに笑い、帽子を取って胸の前に置く。
真下から見えていた雅臣の表情は変わらなかったが、全体を見ても彼が誰に似ているのかはわからなかった。
「……陰陽師、だと?」
「はい。いきなりで申し訳ないのですが、私も急いでいるので単刀直入に言いますね」
雅臣は息を吸い込み、その形のいい唇から言葉を漏らす。
「多翼とモモを私にください」
それは、五道にとって拒むべき救いの手だった。
「……引き取りたいのか?」
だが、五道はアイラが思っていた以上に冷静だった。門前払いどころか、どこかに残っている理性が聞く姿勢を見せている。
「はい」
「何故」
「里親希望の理由を口頭で告げてもよろしいんですか?」
意外そうに漏らす雅臣の声に悪意はなかった。だが、五道は罰が悪そうに追求をやめる。
「……いいや、いい。さっさと連れていけ」
「え、いいんですか?」
「譲渡を求めたのは君だろう」
「あぁ、すみません。里親の適性や非常に面倒な手続きがあると思っていたものですから」
アイラは耳を疑った。
五道は自分たちを道具とでしか見ていない。なのに、目の前にいる雅臣はどこまでも里親であることを貫こうとする。
当事者であるはずの多翼は、口を開けたまま笑っていた。
食堂から引っ張り出されていたモモは、興味深そうな目で雅臣を見つめていた。
「この子がモモですか?」
「あぁ」
「この子が多翼」
「あぁ」
段々と、五道の返事がおざなりになっていく。
早くこの場から立ち去りたい。
早く雅臣を追い出したい。
そんな魂胆が丸見えだった。
「多翼、モモ」
不意に、雅臣が名前を呼ぶ。
ずっとしゃがみ込んでいた子供想いの彼は、二人の瞳をきちんと見つめて問いかけた。
「私が君たちの次の父親でも……いいかな?」
確かめるようにゆっくりと問いかけ、彼は多翼とモモの返事を待つ。
五道は何も言わない。アイラも何も言わない。真も、食堂で耳をすませている子供たちも、何も言わない。
「いいよ!」
返事をしたのは多翼だった。
多翼はモモの手を引き、雅臣の元へと駆け出す。
多翼とモモは他人だった。けれど、これからは他人ではない。
アイラは唇を引き締めて、新しい家族の誕生をこの目で見守った。




