第二話 金髪の少女Ⅰ
遥の部屋に泊まった朔那は、昨日よりも不機嫌そうだった。苛立たしそうにソファの隅に蹲り、時間を気にしながら椅子に座るアリアを一瞥する。
一人部屋の睦見と如月は知らん顔のまま、同じく一人部屋の炬と一緒に何かを話していた。アイラは出かける様子を見せないアリアに寄り添い、彼女と共にテーブルの上に並べられたカードを見つめる。同じくカードを凝視する遥は、小難しそうな表情をしていた。
「ねぇ、本当にさっくんはやらないの?」
「しつけぇよ」
「でも……」
「何」
アリアは口を噤み、何も言えずに押し黙る。見上げれば、今にも泣きそうなほど瞳を潤ませるアリアがいた。
昨日も夜遅くまで啜り泣いていたのに、まだ彼女の涙は枯れない。アイラは唇を真一文字に結んで、アリアを故意に傷つける朔那を見つめた。
アリアはずっと、朔那に会いに行っていたのではないのか。なのに何故──アイラ以上にアリアと共にいた朔那が何故、アリアの気持ちに気づけないのか。
「……チッ」
朔那は舌打ちをして、苛立たしそうに席を立つ。そして扉へと爪先を向け、「待って!」と言うアリアの悲鳴で足を止めた。
「どうして行っちゃうの? さっくん!」
立ち上がって朔那に縋りついたアリアの表情は見えない。それでも、ぎょっと目を見開いた朔那の表情だけは確かに見えた。
「お願い……お願いだから、〝絶対にいなくならないで〟……」
我に返り、体を強ばらせ、朔那は戸惑い気味に視線を逸らす。何か思い当たる節でもあるのか、どこか気まずそうだった。
「んなこと言ったって……あのバカはいなくなっただろーが」
「ヌイはいいの! だって、ヌイは強いから……! でも、さっくんは違うでしょ?! あんなことが続いてたら、いつかきっとさっくんも死んじゃう……! 死んじゃうんだよ……!」
何事かと、話し合っていた睦見たちの声が消える。突然のことに固まる遥も、そんなことを言われた朔那も、口を半開きにさせたままアリアの蒼い瞳に吸い込まれていた。
「……ふざけんなよ、俺は弱くない」
わなわなと唇を震わせて、心の底から絞り出したかのようなか細い声が聞こえてくる。
「弱いよぉ……!」
そんな朔那を否定して、アリアは糸が切れた人形のように泣き崩れた。
「ッ! お前、マジでバカだな! 俺はお前よりも強いッ!」
「そう……だけど! さっくんだってそんなに強くないじゃん!」
「うるさい! それでも……そうでも俺はっ……!」
朔那は顔を歪めに歪め、縋りつくアリアを勢いよく突き飛ばす。
音を立てて転げ回ったアリアは苦痛に顔を歪め、起き上がろうとして飛び出していく朔那の名前を叫んだ。
「さっくん! さっくんっ! ねぇ、待って……! 待ってよぉ!」
木板に爪を立てて、涙を頬に張りつけたアリアの声は届かない。アイラは声も出せず、咽び泣くアリアをただただ見下ろしていた。
「遥、追え」
「えっ? わ、わかった!」
遥は反射的に立ち上がり、全速力で朔那の後を追う。睦見は眉間に皺を寄せ、呆れたように片肘をついた。
「ほらな。早いとこやんねぇとめんどくせぇぞ」
「どうしますか、炬さん。愁晴さんが来るのを待ちますか?」
二人の正面に座っていた炬は、僅かに唇の端を引き締める。アイラはそんな炬を一瞥したが、耐え切れなくなってアリアの元へと駆け寄った。
アリアは呆然とその場にしゃがみ込み、アイラに視線を移して唇を噛み締める。
「行くぞ」
心が折れる前に──命が尽きる前に、炬の一声が睦見と如月を動かした。
「愁晴さんに連絡します」
「遥には俺が連絡しとく」
足早に《ハリボテの家》から出る二人を見送り、アイラは問うような視線で立ち上がる炬を見上げる。
「アリア」
顔を上げたアリアも炬を見上げ──
「行くぞ」
──炬の言葉で再び涙を流した。
何がなんだかわからない。困惑するアイラの手を引いて、アリアは泣き腫らした顔のまま炬の後を追う。
どこに? 何をしに?
何もわからないまま外に出る。
黙って闊歩する炬は何も言わず、普段は騒がしいアリアも何も言わず、アイラはどこにもいない睦見と如月の影を探す。それでも、遠い遠い場所にいるのか影さえ見えなかった。
「かがりん」
視線だけを向けて、炬はアリアをその目に映す。
「さっくんを──助けて」
アリアはそれだけを絞り出した。
アイラはアリアを見上げ、助けなければならないらしい朔那を思う。
「それはお前の仕事だろーが」
そんなアリアの切実な願いに炬は目を細め、呆れたように呟いた。
「……うん」
握り締める手の力が強くなる。
アイラは唇を噛み締めて、まだ人を救わなければならない宿命を背負ったアリアを憐れんだ。
「アリア」
「……何」
「あの日」
「……うん」
短いやり取り。
「……あの日も、お前に助けられたな」
それは、優しそうな声音だった。
アイラは目を見開き、野獣のような炬の柔らかな部分を見据える。
「……言ったでしょ、私が貴方を守るって」
アリアは泣き笑い、アイラを繋ぐ反対側の手で炬の裾を握り締めた。
炬はずっとアリアのことを見下ろしていたが、口角を緩めただけで何も言わない。アイラはぽかんと口を開けて、炬とアリアと並んで歩いた。
「ねぇアイラ。目的地に着いたら私から絶対に離れないでね」
アリアは急に何を言い出すのだろう。アイラがアリアから離れるなんて、絶対にありえない。
何度も何度も頷いて、アイラはアリアの手を握り直した。
*
数十分歩いて、炬が足を止めたのはとあるビルの目の前だった。
雑居ビル地区と呼ばれるこの末端地区からは一歩も出ていない、十階にも及ぶビル。その中から、信じられないくらい大きな悲鳴が幾度となく聞こえてくる。
「やっちゃおう、かがりん」
そして、信じられないくらい冷淡にアリアが言った。
返事のない炬は気だるげに首を回し、アリアが手を離した刹那に侵入する。アリアについて行くだけのアイラは、ビルの中で倒れる人々を視界に入れて絶句した。
救うのは──アリアがその手で救うのは、一体誰なのだろう。
倒れている人々には目もくれず、奥の方でデスクを盾にしながら怯える人々にも目を向けない。彼女はただ、エレベーターに乗り込む炬について行くだけだ。
何が起きているのかわからない。そう思っているのは自分だけだった。アイラは唇を噛み締め、わけがわからないまま最上階の床を踏み締める。
「よっ。片付けたぜ、大将」
「……どいつもこいつも骨がない。予想通りの雑魚でしたね」
倒れた人々を挟んだ最奥のデスクに堂々と座っていた睦見は、片手と口角を上げて足を組んでいた。そのデスクに寄りかかっていた如月は、つまらなそうに鼻を鳴らして腕を組んでいる。
「後はあれだけだな」
「雑魚には部下を、敵将には大将を。後は任せました、炬さん」
そうして二人がしゃくった顎の先は、壁だった。
「あれか」
炬は長いため息をつき、大股で歩いて勢いよく壁を蹴破る。
息を呑んだ刹那に飛び散った壁の破片。バラバラに砕かれたそれを眺める暇もなく、アイラが見たのは新たなる部屋だった。
「なっ……?!」
驚き絶句する新たな影。
「お〜お〜、出てきた出てきた」
「あれですね。薬物売買まで行っていたという悪徳金融業者の社長は」
「それに、親の借金を盾にしてさっくんを使い捨てた悪魔だ。……許せないよ、絶対に」
そんな影に淡々と語る三人が、あの優しそうな三人とは思えなくて。アイラはアリアから離れなかったが、本音としては今すぐにでもここから逃げ出したかった。
「な、なんで《紅炎組》の犬がここに……!」
「《紅炎組》じゃねぇよ」
煩わしそうに告げて、それでも炬は歩を止めない。
「知らねぇのか? 雑居ビル地区に拠点を構えていたくせに」
足を竦ませる男性社長は、嘲笑する睦見の話をまったく聞いていなかった。炬は不機嫌そうに顔を顰め、一歩ずつ隠された部屋へと自分の領土を広げる。
「《グレン隊》。それが私たちの名前で、貴方たちが飼い殺した南雲朔那の友達の名前だよ」
冷たく言い放ったアリアは、睦見と如月と共に事態の傍観を決め込んでいる。
「覚えとけや。お前らがこの町におる限り、何度だって俺らが潰すで」
振り返ると、愁晴と、遥と、彼らに連れられた朔那がいた。
朔那は呆然とアリアの背中を見つめ、一瞬、本当に一瞬だけ唇を噛み締める。
「……ちげぇよ」
絞り出して、慌てて声がした方へと振り向いたアリアと目を合わせた。
「──俺は、《グレン隊》の南雲朔那だ」
はっきりと宣言して、「友達じゃねぇ」と否定して。そして最後に、大きく目を見開いたアリアの涙を切なそうな瞳で眺めた。
「は? 《グレン隊》? えっいや、いつから?!」
「落ち着きぃや遥。みっともないで」
二人に挟まれた朔那は拳を握り締め、アリアをいつでも見つめ続ける。視線は絶対に逸らさない。今だけは逸らしてはいけないと堪えている。
「……さっくん」
アリアは僅かに声を絞らせ、へらりと笑った。だけど涙は止まらなくて、もらい泣きしかけたアイラだけが視線を逸らす。
「失せろ」
炬の一声で世界が壊れる音がした。視界の端の金色が揺れ、消えていって音を残す。視線を戻すと、アリアが朔那に抱きついた音だった。
「うぇっ、うわぁぁぁぁん!」
声に出して泣き、支えきれなくなった朔那が膝から崩れる。
状況をよく読み込めていない遥と、苦笑する愁晴と。にやにや笑う睦見と、思い詰めたような表情の如月と。そして、絢爛豪華な装飾品を身に纏った社長をぶん殴った凶悪で無防備で優しい炬。
──彼らが、《グレン隊》。アイラが知らなかった、彼らの正体。そして、アリアと愁晴の第二の居場所。
アイラは唇を結び、どこにもない自分の居場所に虚無感を覚えた。
アリアと愁晴がどのようにして《グレン隊》に所属したのかも、炬がどのようにして《グレン隊》を結成したのかも、朔那がどうして《グレン隊》に所属する決意をしたのかもわからない。
だから、寂しかった。




