第一話 銀髪の少女Ⅲ
目を覚ますと、そこはアイラが昨日見た世界だった。
アイラは右隣を見、別のベッドで横たわっているアリアの愛らしい寝顔を眺める。当のアリアは気持ち良さそうに眠っており、寝息がかすかに聞こえてくるほどだった。
アイラは視線を戻し、自分だけに聞こえるように短く息を吐く。
夢なのか──そう思ったが、夢じゃなかった。何一つ夢じゃなかったのだ。
昨日の出来事ははっきりと覚えていた。ここは、《ハリボテの家》にあるアリアと愁晴の部屋だ。
昨日施設から飛び出してきたアイラを心配して、愁晴がここに泊まるように言ってくれたのだ。アリアはアイラの付き添いとしてここに泊まり、眠くなるまで《ハリボテの家》の住人と話していた。
彼の提案で泊まったこの部屋は温かく、同じく眠くなるまでアリアの隣にアイラはいた。
睦見と遥と如月と、誰よりも先に──というか一切会話に加わらずに寝てしまった炎竜神炬の話で盛り上がったのは今から約数時間前の出来事だろうか。
今までの就寝時間を大幅に遅らせてまで聞いていた彼の話は、アイラにとってとても興味深い物だった。
「……んん」
視線を再びアリアに向けると、アリアは目を擦っている最中だった。
「……あ、おはよ〜アイラ」
おはようとアイラは頷き、アリアと共に起き上がる。
アリアはそんなアイラを眺め、嬉しそうに破顔した。
「なんだか楽しいね、アイラ」
楽しい?
何がだろう。わからないが、アイラは自分の気持ちのままに答えた。するとアリアは再び破顔し、アイラの手をぎゅうっと手に取る。
「えへへ、嬉しいなぁ〜。アイラだぁ〜い好き!」
アイラは、そんなアリアに僅かに顎を引いただけだった。好きかどうかもよくわからなかったが、アリアのことは嫌いじゃない。だから特に否定はしなかった。
「あっ、そういえば今何時?!」
何時?
そんなのアイラにわかるわけがない。
「じゃあ下に行こ!」
アイラが俯くと、アリアに手を引かれて寝起きのままに連れ出された。階段を駆けるように慌ただしく下りたのは、今日が初めてだ。
──どうしてだろう。昨日から初めてばっかりだ。
「おっはよ〜!」
階段を駆け下りた瞬間、アリアの弾けるような挨拶が聞こえた。俯きっぱなしだったアイラは驚いて思わず顔を上げ、そこにいた昨日の住人を視認する。
「おぃーっす」
だるそうに返したのは、睦見。
「おっす」
片手を上げて返したのは、遥。
「おはよう」
顎を引いて返したのは、如月。
一人一人を、アイラはちゃんと覚えている。忘れることなんて、多分一生ありえない。
「ねぇねぇ、今何時っ?!」
「今? 九時だけど」
スマホをいじっていた睦見は興味がなさそうに告げ、「それがどうしたんだよ」と視線を向けた。
「待ち合わせ! 十時からなの」
アリアはアイラの手を引きながら、睦見が座っているソファの対面に座る。睦見はスマホを腹の上に置き、寝そべっていた体勢を整えた。
「へぇ〜。そういやアリア、中学卒業してからしょっちゅう出かけてるもんな」
「何かあんのかよ」
ひょこっと顔を出すように身を乗り出した遥は、不思議そうな顔をしている。そんな遥の腹部に肘を入れ、睦見は眉間に皺を寄せた。
「ちょっとちょっと。女の子に待ち合わせ云々を突っ込んで聞くのは失礼だろ〜?」
「えっ?」
「遥は基本無自覚なんだよ」
「宗太まで?!」
三人のやり取りは昨日とまったく変わらない。アイラはその不変に安堵し、不意に思考を止めた。
施設長代理の愁晴は、施設に帰らないといけない。入所者のアリアとアイラとは違うのだ。だから、もしアリアが待ち合わせ場所に行くと言ってここを出ていったら──アイラは、愁晴が来るまで一人ぼっちになってしまう。
「えっ? 何? なんで私の袖を引っ張ってるの? どうしたのアイラ!」
「そりゃあ……その、何か言いたいことがあるんだろ」
「いやでもこの子、昨日から一言も喋ってないよな〜」
「無口というレベルではないみたいだけどね」
口々に喋る四人に気圧され、アイラは手を止めた。
言いたいことはたくさんある。けれど、どう喋ればいいのかわからない。だからこうなる度につくづく思う。
──本当に、自分は何もわからないことだらけなのだと。
「あれ? 手を止めちゃった」
「つーかお前、長年の付き合いがあるならわかるんじゃねぇの?」
遥に突っ込まれ、アリアは困ったように眉を下げた。その困惑の意味は、アイラにだってちゃんとわかっている。
「う〜ん、私、あんまりアイラと話したことないからなぁ……」
アリアとアイラは、話したこともなければ一緒にいたことさえほとんどないのだ。
「私が中学に入学してかがりんと一緒に行動し始めた辺りからアイラが来て──本当に、あんまり会わなかったんだよね」
乾も中学に入学したばかりで、友達と一緒に遅くまで外にいることが多かった。だからアイラは、小町と亜子に、本当に良くしてもらっていたのだ。
「へぇ〜。まぁ、アリアが中学に入学っつーことは三年前だろ? そんでアイラちゃんが四歳っつーことは、そりゃ会わねぇわな」
睦見は納得したように笑い、如月はじっとアイラを見据える。
アイラは如月の視線から逃れるように視線を伏せ、出かける準備をする為に二階へと上がるアリアに気づくことに遅れる。
「そういやさ、炬さんまだ寝てんの?」
足を組んだ遥が天井を見上げ、睦見も倣って天井を見上げる。
「あ〜、もう九時だもんな。そろそろ起きてきてもおかしくねぇけど」
「昨日は誰よりも早くに寝て、今日は誰よりも遅く起きてくる……。本当に炬さんらしいな」
如月は苦笑し、栗皮色の髪を耳にかけた。
「そろそろ起こすか? あいつ寝すぎだろ」
「え〜、起こすなんて炬さんが可哀想だろ」
「子供扱いする方が可哀想だと思うけど?」
話を続ける三人の息はぴったりで、アイラがいてもいなくても何も変わらない。アリアがいたら少しは違うのに、そう思って、何も喋らない自分がいけないのだと思った。
喋らなくても、小町と亜子はアイラを常に気にかけていた。
アイラと意思疎通ができていたし、アイラは二人と一緒にいて楽しかった。でも、ここはアイラが飛び出してきた施設じゃない。ここは、《ハリボテの家》という不思議な場所だ。
アイラは俯いたまま、ずっと手を弄っていた。アリアはまだいるのに、一人ぼっちになってしまった感覚に苛まれる。
もう、施設に戻ってしまおうか。
アリアと愁晴が自分を一人にしないことはもうわかったから、新しい子たちと共に寂しさを紛らわせてもいいのではないだろうか。
「アイラちゃん」
不意に名を呼ばれ、パッと顔を上げると全員がアイラを見つめていた。
「悪いんだけどさぁ、ちょっと炬を起こしてきてくれない?」
え?
「あいつ俺らだとブチ切れるけど、さすがにアイラちゃんには怒んないだろうし」
睦見はへらへらと笑い、呆けるアイラに手を合わせて頼んでいる。炬──昨日、四人が熱く語っていた《紅炎組》の犬だ。
誰よりも恐ろしく、誰よりも優しく、誰よりも強い。どんな人なのかもまったく把握できていないのに、アイラにできるだろうか。
「やっぱ無理なんじゃ……? いや、炬さんがこんなちっせぇ子をぶん殴るとは思ってねぇけど!」
「別に無理強いはしてないよ。全部君の心次第だ」
それでも、やることがこんな自分にもあるのなら──それが、一番いい。それがアイラの信条で、アイラのすべてだ。
アイラは慌てて二階へと駆け上がり、部屋から出てきたアリアと鉢合わせた。
「あっ、アイラ! 私もう行くね!」
きちんとした服を着て髪型も整えたアリアは、嬉しそうな表情だった。アイラは振り返り、スキップをしながら階段を下りるアリアを見送る。
傷が癒えたわけではない。昨日、アリアが泣いていたのをアイラは知っている。だから、嘘でもそんな風に笑ってくれてアイラも嬉しかった。
「いってきます!」
「いってら〜」
「早く帰ってこいよ〜」
「いってらっしゃい」
口々にそう言う彼らに見送られたアリアは、どんなに幸せ者なんだろう。正直に言うと、ちょっとだけ羨ましい。
アイラは息を整え、目の前にある扉を眺めた。ここはアリアと愁晴の部屋じゃない。その部屋よりも大きな、あの炬の部屋だ。
震える手を持ち上げて目の前に翳し、そのままノックをする。でも、返事がない。
「あ、そのまま入っていいからさ〜」
入っていいの?
アイラはぎょっと驚いて、辺りを見回して胸を押さえた。
どうしていいのかまったくわからない。施設にいた時は単純作業だからちゃんとわかるのに。
アイラは動かし続けた思考のままに扉を開け、大きなベッドの上で眠る獣を見つけた。
──息を呑む。アイラに背中を向けているあの人は、〝男性〟だった。
五道は年老いていて、痩せている愁晴は中性的だ。涙も桐也もまだ幼さが残っている。そんな彼らを見てきたアイラにとって、炬の骨ばった背中は悪影響だった。
「……誰だ」
びくっと両肩を上げ、慌てて扉の陰に隠れる。炬はもそもそと起き上がり、前髪を掻き上げて振り向いた。
「…………は?」
目と目が合う。炬は眉間に皺を寄せ、色っぽく見える唇から長い息を吐いた。
バンッと音を立てて扉を閉め、アイラは焦って階段を駆け下りる。逃げるように転がり込んだ一階で、驚いた様子の三人の中の一人──
「うわっ?!」
──一番無害そうな遥の後ろに隠れ、アイラは息を整えた。
「ど、どうしたアイラちゃん」
ぶるぶると首を横に振る。動悸が止まらない。
「なんでもなさそうには見えないけど」
「やっぱ炬になんかされたな……」
睦見は髪を掻き上げ、長い長いため息をついた。
違うと否定しようにも、どうすればいいのかわからない。
「……なぁアイラちゃん、俺らさっきちょっと話したんだけどさ」
早くアリアか愁晴が来てくれればいいのに。そうすれば、楽なのに。
「一緒にお花見行かない?」
そう思った矢先に睦見が指を立てて提案した。




