第一話 銀髪の少女Ⅰ
乾がいなくなった施設は、ぽっかりと穴が空いたようだった。
たった四人しかいない広々とした施設。五道は執務室にこもりっきりで、アリアと愁晴は家事が終わるとすぐに出かける準備をしてしまう。
毎日のほとんどを外で過ごしている二人がいないことは、いつものことだ。それでも、今日ほど寂しいと思った日はなかった。
アイラはロビーに上がり、背中を向けている二人を見送る為に外に出る。普段は見送りなんてしないが、しないと何故か気が済まなかった。
「いってきます」
少し元気がなさそうに、百鬼夜行が終わって初めて出かけるアリアが言った。
愁晴はアリアを悲しそうに見下ろし、不安げに俯くアイラの頭をゆっくりと撫でる。
「俺も行くわ、アイラ。何かあったら電話せえよ? 今の責任者は代理とはいえ俺やからな」
アイラは頷き、去っていく二人の背中をいつまでも見つめ続けていた。
二人は乾と違ってこの施設を出たわけではない。帰ってこない日は何度かあったが、必ず帰ってきてくれる。アイラはそう、信じている。信じることしかできないのだ。
坂道を下りていく二人は遥か遠く、アイラは唇を噛み締めて施設に戻る。自分の部屋──二号室に戻れば、暇を潰せるものはいくらでもある。アイラは地下の自室へと戻り、その場に座り込んだ。
小町と亜子が生きていれば、仕事が終わった後でいくらでも遊んでくれた。桐也とエビスが生きていれば、学校が終わった後でいくらでも遊んでくれた。
涙が本家の代理王子にならなかったら、いつまでも傍にいてくれたのに──。
「アイラ君、そこにいるのかい?」
我に返って扉を開けると、五道が執務室の外に出ていた。
昨日も会ったが、五道は昨日よりも窶れて見える。頬はこの数日で痩せこけて、目の下のクマは酷く、無造作に跳ねた白髪混じりの髪には清潔感がない。五道の瞳に映った自分もまた、少しだけ小さく見えた。五道は安堵し、アイラの存在を何度も何度も確認する。
「あぁ、良かった。あと数時間もすれば、新しい子供たちがこの施設に入所するんだ。三号室以降の部屋の掃除を頼めるかな?」
アイラは再び頷いて、入ったばかりの二号室を後にする。
暇を潰せるものはもう潰しきっていた。飽きたもので繰り返し遊ぶくらいならば、這いつくばってでも汚れた部屋の掃除をする方がずっといい。やることがこんな自分にもあるのなら、それが一番いいのだ。
地下に放置されていた掃除道具を片手に、アイラは三号室の中を覗く。構造はアリアと乾の一号室やアイラの二号室と同じで、埃が積もりに積もっていた。
「……あぁそうだ、アイラ君」
視線を向けると、ロビーに戻っていた五道が階上から顔を覗かせていた。
「一年前に一度、十号室が使われていたのを覚えているかな?」
一年前と聞かれても思い当たる節はなかったが、十号室の記憶は色褪せずに残っていた。
アイラは肯定し、五道の言葉の続きを聞く。
「あの部屋だけ愁晴君が定期的に掃除をしているんだ。だから、そこは無視してくれ」
それだけ告げて、五道は頼りなさそうに姿を消した。
一年前、十号室を使ったのは青年と少年の二人だけだった。少年の方に見覚えはなかったが、青年の方は一度だけ見かけたことがある。《十八名家》の分家だけが集まる会で、一人だけやけに浮いていた青年──彼の名前は確か、炎竜神炬。
炎竜神家の犬と呼ばれる、血統だけ優秀過ぎる野犬のような青年だった。
そんな彼から視線を逸らせず、アイラはあの日、彼だけを見つめていた。
アリアと愁晴が何故炬と知り合いだったのか、アイラは知らない。知りたいとも思わない。関わりたいとも思わなかったから、あの日は二号室から出ることができなかった。
バケツに入れた水で雑巾を絞り、床を拭く。
あの日も確か、アイラが十号室の掃除をしたはずだ。いの一番に愁晴から連絡を貰い、手が空いている人間が自分しかいなかったから役目を受け入れた。
アイラはため息をつき、床にへたり込んだまま動きを止めた。
*
汚水が入ったバケツを持ってロビーに上がると、乙梅がソファに座っていた。
「あら、アイラ。掃除をしていたのですね」
アイラは頷き、汚水を自分の後ろに置いて乙梅から隠す。乙梅は微笑し、首を振ってアイラを止めた。
「いいのですよ、そのようなものを隠さなくても。そんなことよりも、この子が新たに施設に入所する子です。貴方の一個下でもあるので、面倒を見てやってくださいね」
アイラは驚き、言われるがままに視線を移す。すると、乙梅の隣で大人しく座っていた子供が顔を上げた。
少年か少女かもわからない、中性的な子だった。茶色い髪はきめ細かに流れ、緑色の猫目が純に揺れている。温室育ちの猫のような品が溢れる動作はアイラの目を引き、開いた口を塞ぐことさえ忘れて見入ってしまった。
「彼の名は真です。挨拶を」
真と呼ばれた少年は顎を引き、「こんにちは」と社交的な笑みを見せる。どこからどう見てもアイラとは正反対の子だ。どうしても、仲良くできるとは思えない。
アイラは軽く頭を下げただけで何も言わなかった。バケツを持ち上げ、逃げるように奥の洗面所へと走る。
「……あぁ、終わったのかアイラ君」
立ち止まると、五道が研究室を出た直後だった。アイラは慌てて俯き、僅かに下がる。
新しい子に挨拶ができなかった。そのことで怒られたら、返す言葉もない。
五道は無精髭を撫で、気だるそうに瞑目した。
「部屋割りの件だけどね、予想以上に孤児がいて人数が増える一方なんだ。乾君が出ていったことだし、アイラ君も能力を制御することができている。だから君とアリア君の部屋を一緒にしてもいいだろうか?」
アイラはそれで構わない。
絶対、アリアも文句は言わない。
生まれて初めてのルームメイトに思いを馳せ──アイラは珍しく、心を跳ねさせた。
「まぁ、アリア君は帰ってこないかもしれないがね」
なのに五道はそう言い放ち、眉間に寄った皺に触れながらロビーへと赴く。
アイラは一瞬だけ頭が真っ白になり──
『行けばいいじゃん。傍にいたい人がいるんでしょ?』
──乾がアリアに向けた言葉を思い出した。
思わずバケツを落とし、そのままロビーへと体を向ける。ぶち撒けられた水が床を汚して広がっていくが、そんなことはお構いなしにアイラは慌てて駆け出した。
居ても立っても居られなかった。早く行かなければ。そうしなければ、間に合わなくなってアリアと愁晴に追いつかなくなってしまう。
自動ドアから飛び出すアイラを、乙梅と五道、そして真が丸くした目で追いかけていた。そんなことさえ知らないアイラは全速力で坂道を走って、下りていく。
何故こんなにも必死になって走っているのだろう。親しくしていたわけではない、五道の寵愛を一身に受けていた彼女を何故追いかけているのだろう。
このまま愁晴と共にアリアも去ってしまったら。考えただけでも胸が痛かった。
アイラは足を止めて、最寄りのバス停の看板を見上げる。これはアリアと愁晴が高頻度で使用しているバス停だ。二人の居場所は知らないが、ここから行ける停留所は一つだけ。
アイラは唾を飲み込み、再び走った。
世間知らずだという自負はあるが、お金がないとバスに乗れないことくらいは知っている。うろ覚えな道を休むことなく走り続け、アイラは駅前を目指した。
そこにきっと、アリアと愁晴がいる。アイラはまだ、アリアと愁晴を求めている。
乾はきっと、透視能力でいつでも見守っていてくれているだろう。だから安心するし、不安はない。
それでも、あの二人は駄目なのだ。目を離した隙にどこかに行ってしまう危うさがあるのだ。
数十分も走り続けたアイラは、疲れ果ててその場にしゃがみ込む。溢れてきた涙は止まらない。足が震えてもアイラは歩いた。帰り道なんてもうわからない。駅への道しかわからない。
涙を拭い続け、何も考えられなくなった頃──アイラはついに、目指していた駅前へと辿り着いた。立てなくなって付近のベンチに座り、二人がどこかにいないかと視線だけを動かし続ける。
「あっ、いた! はーちゃん待って! あっちにいるから!」
「はーちゃんって呼ぶな! いるってどこに……あ、あいつか!」
すると、人混みの中からアリアと──あの時の少年が姿を現した。アイラは立ち上がり、駆け寄るアリアに抱き締められて膝を折る。
「よ、良かった! おじちゃんから連絡をもらって、みんなで探してたんだからね!」
アリアはアイラと同じく泣いていた。肩は震え、アイラを抱き締める力を強くする。
「お、おい、大丈夫か?」
泣きじゃくる少女二人に気まずさでも感じたのか、居心地が悪そうに少年は視線をさ迷わせた。
「はーちゃん、しゅーくんに連絡して! アイラを見つけたから《ハリボテの家》に戻るって!」
「あ、あぁ、わかった。つーか大丈夫か? 立てないようならおぶってくけど」
アイラは少年を見上げ、アリアを抱き締め返す。そんなアイラの思いを汲み、アリアは首を横に振った。
「ううん、アイラは人見知りだから……。ありがとね、はーちゃん」
「いや、おれは何もしてねぇけどさ……。愁晴さんに電話してくる」
少年はため息をつき、スマホを操作して耳に当てる。
「あ、愁晴さん? 例の女の子を保護したんで、今から《ハリボテの家》に戻ります。……うす、え? 元気っすよ多分。あぁいや元気っす! 元気っすから!」
少年は慌てて通話を切り、アイラを背負うアリアを見下ろした。
「重くねぇの?」
「アイラは平均体重以下だから、そんなに」
「は? 愁晴さんの飯食ってんじゃねぇのかよ」
「少食なの。年中食欲がないっていうか」
色々と言われるかと思ったが、少年は納得したように息を漏らしてそれ以上の追及をしなかった。アリアも少年の意図を汲んでいるのか、余計な話はしない。
安心できる人の背中に揺られ、緊張を解いたアイラはやがて眠りについた。




