序章 百鬼夜行Ⅳ
幕が開けた〝新時代〟は、誰かが望んでいたものではない。
施設へと戻ったアイラは、答えのない不安を押し潰すように愁晴の手を握り締めた。
アイラが現状頼れる大人は、愁晴しかいない。愁晴はアイラを困ったように見下ろし、やがてため息をついてアイラを引き剥がすことを諦めた。
「アリア、乾、しばらくそこにおって」
愁晴は二人をロビーに留め、片時も離れないアイラを連れて二階へと上がる。
二階の奥の部屋、それが施設長五道の自室だ。その手前にある執務室に、あの日から彼は引きこもっている。
愁晴は無言のまま執務室の扉を開け、薄暗い部屋のデスクにかじりついたままの五道を見下ろした。
「あぁ君か、朗報だよ。今回の百鬼夜行を受けて、親を失った子供が非常に多くてね……今受け入れの手続きをしているんだ。これから忙しくなるから、覚悟をしておくように」
「まだ続ける気なん? 施設長」
静かな、低めの声色だった。身嗜みを整えず、あの日から働き詰めの五道に狂気を感じて僅かに身を引く。
「どういう意味だね?」
五道はゆらりと顔を上げて、垂れた前髪の中から覗くショッキングピンク色の瞳で愁晴を射抜いた。
「どういう意味も何も、そのままですやん。小町さんと亜子さんが亡くなりはって、それでもまだ続けられると思っとんの?」
真っ直ぐに背筋を伸ばして、あの日から五道に意見を出し始めた愁晴に引く気はない。
そしてそれは、五道も同じだった。
「続けるんだよ、それでも。二人の為にも、私たちの夢の為にも……。我々が行っていた実験は、未完成だったんだ……。未完成だったから二人と桐也君は亡くなったんだ!」
大きくデスクを叩き、荒々しく息をする。
瞳は憤怒と絶望に満ち、噛み締める唇からは人とは思えない音が漏れる。最愛の娘を亡くし、生きる指針であった自らの研究は未完成のままその日を迎え、数多の人の遺体を見つめた五道は夢に敗れた。
彼の悲しみは、負の連鎖に絡まれて終わらない。
アイラは息を呑み、五道の影から漏れる瘴気を視認した。
それに愁晴も気づいたのか、アイラを自らの影に隠して五道から守る。
「完璧を求めたらあかんと思います。もう、ここで終わりにして普通の施設にした方がええんちゃいますか?」
愁晴が問いかけると──
「完璧の何がいけないんだ? 愁晴君」
──今にも零れ落ちそうな五道が問い返した。
「施設長がやっとることは、神の領域や。実験を完成させるっちゅーことは、神になるっちゅーことや。俺はもう、手を引いた方がええと思います」
「手を引く、だと? 君のような傀儡に何がわかる? たった二十一年しか生きていない、作り物の君に私の何がわかるというんだ?」
愁晴は唾を飲み込み、眉間に皺を寄せた。
「確かに俺は作り物やと思います。せやけど、ここにある物が嘘やとは思えません。それに、俺を貶めるっちゅーことは自らの腕前を貶めることと同義やと思います」
不愉快そうだが、感情を押し殺したままの愁晴は揺らがなかった。
「施設長、現実的な話に戻しますけど、ほんまに小町さんと亜子さんなしで続けられることやないでしょう。後ろ盾の桐也もおらん、本家に迎え入れられた涙からの支援ももう望めん。施設長と傀儡の俺のみで、一体何ができる言うんですか」
五道は押し黙り、やがて椅子から崩れ落ちる。デスクに隠れた五道の嗚咽が、再び執務室を支配する。
アイラは愁晴の腰に顔を埋めた。五道の剥き出しの痛みから逃れたい一心だったが、それでも容赦なく突き刺さる物がある。その代わりに、愁晴はまったく動じなかった。
「それと、アリアと乾もどないするんですか。あの二人は先月卒業して、高校にも入学せずに未だに中学校に足を運んでます。あの二人の将来について、施設長は何か考えてはるんですか?」
尋ねた愁晴に、五道は返す言葉もない。
「アイラも結局小学校に入学させませんでしたよね? アイラの能力は確かに他者を傷つけますけど、その代わりに勉強を教えていた二人がいない以上──アイラの将来についても、考えなあかんのとちゃいますか?」
アイラはハッと顔を上げ、五道を見据える愁晴を見つめた。
アイラの位置から五道は見えないが、愁晴の位置からは見えるのだろう。彼は険しい表情のまま、真っ直ぐに立っていた。
「アイラ、二人を呼んできてくれへんか?」
アイラは目を見開き、頷いて執務室を後にした。
早く戻らなければ。あの場所に、愁晴と五道だけを残すのは危険だ。
ロビーに戻ったアイラを見て、乾は察したのだろう。アリアを小突き、アイラに目配せをして先に二階へと上がる。
前を進む乾の背中は、地獄を見る前の日々と変わらず凛々しかった。乾は今でもアイラの憧れであるし、彼女の後に続くアリアはアイラの希望である。
執務室の扉を開けた乾は立ち止まり、床に這いつくばう五道を見下ろす愁晴に視線を向けた。
「なんの用だ、愁晴」
「……しゅーくん」
「二人に用があるんは俺やなくて施設長や。しっかり聞きや?」
愁晴は下がって、アリアと乾を前に出した。
アイラはほっと息を吐き、下がった愁晴の隣に立つ。
「おじちゃん、大丈夫……?」
先に声を出したのは、アリアだった。
五道は姿を現せないのか、まだデスクに身を隠している。
「二人とも」
しわがれた声色に二人はたじろぎ、顔を見合わせて動揺する。
この数分で何かあったのか、五道は威厳を保とうとしながら保てていない脆さを生き残った四人に曝け出して話を続けた。
「今までずっと、二人のことは小町と亜子君に任せていた。だから私は、二人の進路のことなんて知ろうともしなかった。二人が高校に進学しなかったことも、知ったのはつい最近だ。……これから、どうするんだ?」
二人は息を呑み、乾は拳を握り締める。
アリアは再び乾を見つめるが、乾は一切アリアを見ず──
「この施設から出る」
──五道を見据えて迷いなく告げた。
「ぬ、ヌイ?!」
慌てるアリアが乾の肩を掴むが、それでも乾はアリアを見ない。愁晴は言葉を失い、アイラも衝撃で動けない今──
「何も、施設から出ろとは言っていないのだがな」
──枯れてしまった五道だけが彼女の意思に追いついていた。
「私が出たいんだよ」
それは、許されるのだろうか。
半妖の力を持つ自分たちが、この場から離れることは許されるのだろうか。
胸が動悸を打ち始める。五道と乾の会話から目が離せない。アイラは胸を押さえつけ、潤む瞳をしっかりと見開いた。
刹那、五道は立ち上がり乾を見下ろす。改めて見た五道は、やはりアイラの知る五道ではない。充血した瞳で乾の真意を探る五道は、泣き言なんか言わない──いつもの五道だった。
「……わかった、金は用意しよう。後は乾君の〝自由〟だ」
「あぁ、よろしく頼む」
乾は顎を引き、一歩下がる。
五道の前に立っているのは、アリアのみ。後は、アリアだけだ。
「アリア君、君は?」
「えっ? わ、私は……えっ……と」
アリアはしどろもどろになりながら愁晴を見、助けを求めるように乾に視線を移す。
「行けばいいじゃん。傍にいたい人がいるんでしょ?」
アリアはビクッと両肩を上げ、今にも泣きそうになりながら顔を歪めた。
アイラは唇を噛み締める。乾の気持ちもわかるが、このままでは確実に乾はどこかに行ってしまう。
アリアを見つめる乾の表情は、アイラには見えない。だが、涙を流したアリアの表情でわかる。
「…………私はもう、大丈夫だからさ」
乾は、いつになく優しげな声を出して──心の底から笑ったのだ。
「…………ヌイ」
ぼろぼろと泣きじゃくるアリアは、何度も何度も頷いた。何度も何度も涙を拭って、あの日も、今日という日も受け入れた。
「決まった、な」
「あぁ」
「うん」
愁晴の一言で、今まで宙に浮いたような生活をしていた二人はようやく生き方を決め──出逢いと別れの、春を迎えた。
*
決めればすぐに行動に移す乾は、その日のうちに僅かな荷物を纏めて施設の外に出る。
「ヌイ!」
施設の前で乾を呼び止めたアリアは、ついてきたアイラと共に乾を見据えた。
「……何?」
亜子が作った服を詰め込んだキャリケースを持って、振り返った乾は息を漏らす。
アイラはアリアと違って、乾と一緒にいた時間は少ない。それでも、百鬼夜行を受けて生き残ってくれた数少ない仲間だ。離れてしまうのは、寂しい。
「いってらっしゃい!」
なのにアリアは、最後の最後に笑顔を見せた。
傷は癒えていないのに、アイラよりも寂しいはずなのに、アリアは笑って乾を送り出す。
「ッ! ……あぁ、いってくる」
口角を上げた乾は、多額のお金を持っていつもの坂道を下りていった。
──いってらっしゃい。
二人の別れに、それ以外の言葉は不要だったのだ。
アイラは目を見開き、前へ前へと突き進んでいく乾の最後の背中を眺める。
「私たちは、離れ離れになっても家族だからね」
風に乗ったアリアの言葉は、乾に聞こえていただろうか。
アイラはそんな二人の関係が羨ましくて、だけどやはり寂しくて、笑って送り出せずに俯いた。
「アリアは良かったん? 乾と別れてしもうて」
振り返ると、愁晴も旅立つ乾を見送っていた。
「うん。だって、私だけ〝自由〟でも嬉しくないんだもん。ヌイがそれを望むなら、ヌイがそうしてくれたように私も送り出したかったから」
アリアは満開の笑顔を寂しそうに緩めて、振っていた手を下ろす。
「えらいなアリアは」
「アイラも偉いよ」
アイラは首を横に振って、施設の中へと駆け込んだ。そして気づく。ここにはもう、四人しかいないと。そして、しょっちゅう出掛けているアリアと愁晴がいなくなると──アイラと五道のみになる。
五道は入所者を増やすと言っていたが、残された四人だけで何ができるのか。吹雪は組織が違う。だから、彼女の助力も望めるとは思えない。
アイラはその場で膝を抱え、静かに泣いた。
この世界は地獄だ。だから、滅んでも構わないとも思っていた。
けれどアイラは、こんなことを望んでいたわけではない。こんな結末になるくらいだったら、あの時殺されていた方がマシだった。
アイラはまだ、地獄を見ている。
二人に比べたら自分なんて感情がないただの傀儡なのに、乾のように前にも進めず、アリアのように前にも向けない。
「乾君は、もう行ったのか?」
顔を上げると、五道がロビーに下りていた。頷くと、五道は俯く。
どうして乾を外に出したの? 乾がいないと、貴方の夢は一生叶わないのに。
言いたいことは山ほどあったが、アイラはすべての言葉を飲み込んで立ち上がった。
まだ何も終わっていない。まだ何も始まっていない。だからまだ、膝を折れない。
──生きなきゃ、まだ。
もう一度、サトリの能力を持つ彼女に会う為に。
未来を予知する彼女はきっと、いつか必ず帰ってくるから。




