序章 百鬼夜行Ⅰ
少女が養護施設に入所したのは、三年前の春だった。再び訪れた春を前に、少女は真朱色の瞳を閉じる。
二〇一六年、四月十九日。
その日の黄昏時に、陽陰町は地獄と化した。
「アイラ君! アイラ君!」
慌ただしい足音と共に、二号室の扉が開かれる。施設長の五道は部屋にいた少女──アイラを視認して、安堵の表情を見せた。
「アイラ君! 来たまえ!」
少女は逆らうことなく五道の元へと歩き出す。刹那に手を引かれて一階へと駆け上がり──
「父様!」
「五道せんせぇ!」
──血相を変えた小町と亜子が普段から隠し持っている武器を携えている様を見て息を止めた。
「クッ、ここはもう駄目よ! 森に近いから妖怪で溢れているわ!」
「アイラ! 貴方の力で突破しないと、私たちは全滅でーすよぅ!」
二人は自動ドアの奥を見据え、歯を食いしばる。
アイラが二人の視線を辿ると、濃艷な茜色が町全体を覆っており──禍々しい力を持った妖怪が、瘴気を纏いながら溢れているのが見えた。
「アイラ君、頼んだよ」
アイラは黙って顎を引き、今日もまた綿之瀬五道の言いなりになる。
この日の為だけに三年間も生かされていたことを、齢七歳のアイラはちゃんとわかっていたから。
戦う為だけに生まれてきたのだと、自分に言い聞かせて今まで生きてきたから──アイラは両親が最期まで否定していた町の因習に従って、自らに与えられた力を振るった。
「──ッ!」
幼い少女の体から飛び出す八本の蜘蛛の足は、自動ドアを突き破って傍にいた妖怪を貫く。舞い散るガラスが茜色の光に反射して、地面に落ちる。
妖怪はアイラから滲み出る禍々しい妖力に気づいたのか、目的もなく徘徊していた行き先をアイラに向けた。
「アイラ、行くわよ!」
アイラは首を横に振り、前に出た小町の白衣の裾を引っ張る。
「アイラ?」
「小町、ここはアイラ君に任せよう。乾君とアリア君と合流しなくては」
「五道せんせぇの言う通りでーすよぅ! 今はまだ、アイラのサポートに徹した方が生存率が上がるかもですしぃ!」
アイラは同意するように頷いて、蜘蛛の足で養護施設を出た。
自らの体を八本の足で持ち上げ、二本の人間の足をぶら下げる。そうして高い位置から全体を見渡し、襲いかかる妖怪を躊躇うことなく潰していく。
「すごい……! すごいでーすよぅ、アイラ!」
「さすが私たちの最高傑作ね! この調子で行きましょう!」
振り向くと、小町と亜子が幼い子供のように瞳を輝かせていた。普通の人は怖がるはずなのに、この二人は自らの研究の成果が出ている事実に喜んでいる。
アイラは黙ったまま視線を戻し、この異常事態を壊れた心のままに受け止めた。
自分の使命は、生きている誰かの命を守ること。
自分を育ててくれた人たちの、夢の結晶となること。
それが、絡新婦の人工半妖として第二の人生を歩んだ自分のすべて。
──《十八名家》の総意で死を望まれた、骸路成愛来の、すべて。
アイラは視線を伏せ、本能のままに妖怪を蹂躙した。
地面が揺れ、割れた大地に草木が飲み込まれていく。養護施設周辺の自然はアイラによって破壊され、妖怪はアイラによって絶命していく。
「……ッ! 二人とも、どうやら町民の避難が滞っているみたいだ! 町民の避難誘導をする為に割かれる《十八名家》の人間が足りないらしい!」
どこかに電話をしていた五道は、妖怪の断末魔に負けぬように声を張り上げた。普段から悠然としている五道は、苦痛に満ちた表情を浮かべながら膝を折る。
「父様?!」
「……心配ない、少し目眩がしただけだ」
「足りない?! そんな、まだ避難が完了してないんでーすかぁ?!」
絶句した亜子は、持っていた短刀を落としかけた。
「ッ、亜子! 下りたら私たちで応援に行くわよ!」
「でも小町っ……」
「でもじゃないわ! 私たちは研究者である前に、《十八名家》の人間よ! 百鬼夜行が起きた時はその身を犠牲にしてでも止め、町と人々を守る! それが私たちじゃない!」
亜子は限界まで目を見開き、泣きそうになって、観念したように頷いた。
「父様、私たちが行きます。父様はアイラと共に行動してください」
「……小町、私たちも同行する。こちらが中学校に行かなくても、アリア君と乾君から来てくれるだろう」
「いいえ、駄目です。アイラは当初の計画通り、妖怪を殲滅する為の切り込み隊長になってもらわなくては。それに、町民にアイラを見られるわけにはいきません」
小町に言い聞かされた五道は言葉なく、亜子は片手で白衣を握り締める。
「アイラ、父様をよろしくね」
同じ目線にいた小町は、何故か微笑んでいた。
自分にも他人にも厳しくて、かと思えば誰よりも優しくて。自らの正義を矛にして生きている小町に、アイラは顎を引いて応える。
「やっぱり、小町は強いでーすねぇ」
「ちょっと、褒めても何も出ないわよ」
「出なくても別にいいでーすよぅ。こんな時でも、弱虫な私の傍にいてくれる。たったそれだけで、もう充分でーすよぅ」
「……馬鹿ね。貴方が本当に弱虫なら、今ここに──私たちの傍にいるわけがないでしょう?」
小町は亜子の背中を叩き、険しい顔つきの五道を見ることもないまま坂道を見下ろした。
「行ってきます、父様」
その言葉に同意した亜子は、たんぽぽ色の長髪を振り乱してアイラが開けた道を小町と共に駆け下りていく。靡いた白衣は美しく、アイラは唇を真一文字に結んだ。
「行こう、アイラ君」
アイラは五道の歩幅に合わせ、蜘蛛の足を動かす。瘴気が濃い。五道は苦しそうだ。
森の中から溢れ出た妖怪を殺し、五道を守る。五道は荒い息を整え、坂道を下りた瞬間に絶句した。
「なんだ、これは……ここは、地獄なのか?」
アイラは目を見開き、絶命した数人の人間が転がる道を見下ろす。ここにも妖怪が溢れている。きっと、奴らに殺されたのだろう。
「小町、亜子君……!」
が、そこに二人の遺体はない。
アイラは僅かに息を吐き、蜘蛛の足の一本を伸ばして妖怪を串殺した。
二人は無事だ。自分は黙って、生かしてくれた五道を守るだけ。
『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町内に残っている人は、《十八名家》の指示に従って地下に避難してください!』
茜色が濃い。
アイラは目を細め、太陽の温かさを初めて知った。
「アイラ君! 私たちは妖怪の掃討を担当する! 妖怪を町民のいる住宅地に向かわせることなく、森の手前で食い止めたまえ!」
顎を引き、アイラは動く。
絡新婦の毒で毒殺し、絡新婦の糸で縊殺し、絡新婦の足で串殺し、生み出した子蜘蛛の炎で焚殺し、虐殺を繰り返す。
わずか七歳の少女が犯した罪なき罪は、陽陰町の大地にこべりついて消えなかった。
アイラは流れた血が消えるのを見届けて、再び徘徊する。五道を守りながら、時間が経つにつれて増えていく遺体を傍観しながら妖怪を殲滅する。
何も痛くない。何も怖くない。ただ、疲労だけが蓄積する。
感覚が麻痺していることにさえ気づかない。三年前に生かされたアイラは、その判断が間違いではなかったと証明する為に妖怪を片っ端から嬲り殺す。
それを一番に見せつけたかった《十八名家》の屍の上を、蜘蛛の足で歩き。屍の中にいた生き残りの呻き声で──我に返った。
気づけば茜色は沈み、辺りは静寂に包まれた闇夜だった。五道はどこに、と振り返り、彼が後ろで顔を顰めていることを視認する。
「……あぁ、アイラ君。平気かい?」
頷いて、肯定。
「少し休みたまえ。君はもう充分に働いた」
頷いて、蜘蛛の足をしまう。五道の隣に戻ると、五道が見ていた景色がよく見えた。
『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町内に残っている人々は、陽陰学園生徒会の指示に従って地下に避難せよっ!』
まだ、あの放送が流れている。それに意味はあるのだろうか。妖怪に無慈悲に惨殺された《十八名家》の人間の遺体がそこらかしこに転がっている。
『緊急避難命令! 緊急避難命令っ! 頼むからぁ……っ、頼むから逃げてくれよ……! 言うこと聞いてくれよぉっ!』
「まだ桐也君の放送が流れているね。避難が終わらないと、我々《十八名家》も避難できない。このままでは、犠牲者が増える一方だ」
見上げた五道に、アイラはなんと声をかけていいのかがわからなかった。
顰めた顔を、五道は悔しそうに歪め。そして彼は、生まれて初めてアイラの前で涙を見せた。
「二十歳になって、母様から妖怪のことを聞かされて、その日からずっと私は研究に明け暮れた。私たちは無力だ、無力だから〝戦える人材〟を増やし、人工半妖という力を手に入れた。……だが、これはなんだ? ここは地獄じゃない。ここは私の故郷だ。なのに……」
震える唇から漏れる五道の思いを、アイラは知っている。
「……なのに、何故、人々は死んでいく? 今日という日の為に、〝戦えない人材〟を無駄死にさせない為だけに……努力をしてきた。その結果がこれならば、私たちが今までしてきたことは、すべて無駄だったのか? 私たちの努力こそが、無駄死にだったのか……? 土地神はそうだと言うのか?!」
知ってしまっている。だからアイラは、何も言えなかった。
そして、三年前に亡くした両親を想って俯く。
アイラの母親は、《十八名家》骸路成家の本家の人間だった。姉が頭首の座について、分家となった母親も、百鬼夜行が起きれば死ぬ気で町と人を守り抜く運命だった。
何故自分を置いて死んだのかと、幼いアイラは泣き叫んでいたが──今となっては、どちらが幸福だったのかもわからない。
なんでもない日に、なんの意味もなく死ぬか。
百鬼夜行の日に、意味を持って死ぬか。
アイラは俯き、静かに泣いた。
アイラの心も、五道の心も、悲鳴を上げている。軋んで壊れかけている。今妖怪に襲撃されれば、いとも容易く殺されるだろう。そんな時だった。
どこからか轟音が聞こえてきて、遠くの空に光の柱が上がる。消えることのないその輝きは、先端が花のように開いて町全体を覆っていった。
「あれは……」
涙を張りつけたままの五道は、膝を折って空を見上げる。
アイラもその光の柱から視線を逸らせずに、空から光の粒が町全体に舞い降りていくのを眺める。胸に吸い込まれていくそれは、染み込んで。芯から発火し、心臓が歓喜に震えた。
明ける夜。差し込む朝日。たったそれだけで、救われる命。
『──生きて』
誰かがそう言った気がした。そう聞こえたのはアイラだけではなかったらしく、五道が崩れ落ちて咽び泣く。
二〇一六年、四月二十日。
陽陰町に、本物の春が来た。




