第一話 炎竜神の炬火Ⅰ
初雪が、夕焼け色に似た燃えるようなオレンジ色の髪に触れて溶けた。炬は鬱陶しそうな表情を浮かべていたが、次第に慣れてきたのか無表情に戻す。
太陽が沈んで暗くなった田んぼ道をバイクに乗って辿り着いた炎竜神家の本家は、二年前に頭首が変わってから一度も訪れたことはなかった。
炬はバイクから降り、気だるげに本家の戸口へと向かう。外見は昔から変わらない古民家風の屋敷だったが、合鍵で中に入れば西洋風の内装が広がっていた。
「お帰りなさいませ、若様」
「あぁ」
視線を上げると、スーツ姿の女性が立っていた。
炬に深々と頭を下げる女性は、くすんだオレンジ色の短髪から見てわかる通り炎竜神家の名を持っている。炬の遠縁にあたる二十代後半の女性は、組員兼使用人として炎竜神家に貢献していた。
「若様、客間に案内いたします」
「いらねぇよ」
炬は女性の申し出を不躾に断り、大理石の廊下を闊歩する。
曲がり角を曲がると一面がガラス張りになり、その奥の中庭に今でも建っている離れには、旧頭首の燐火が引きこもっていた。
炬はそれを一瞥し、奥へ奥へと進んで行く。廊下の途中で足を止めて客間の扉を無造作に開けると、そこに彼女はいた。
炎竜神家の現頭首、従姉の密が牛革のソファに深く腰を下ろしている。密は落としていた視線を上げ、アンニュイなブラウンの双眸で炬を見据えた。
密は咥えていた煙草の炎を吸殻に押しつけ、座っていてもよくわかるスタイルの良さを無意識の内に見せつけながら足を組む。遠縁の女性や従弟の炬よりも色鮮やかなオレンジ色の髪から、二束だけ天使の羽のような白髪が覗いていた。
「炬、何故濡れているの?」
ゆっくりと抑揚のない声で尋ねる密に、炬はめんどくさそうな表情をありありと出して答える。
「雪が降ってた」
「そう……。もう、雪が」
初雪だった。母親に似て、寒さに強く引きこもりがちな密が雪に気づくとは思っていない。
「そんなことよりも説明しろ。頭首が交代して二年。一度も仕事がなかったっつーのに、なんの用で俺をここまで呼び出した」
「何って、今日は炬の二十歳の誕生日だから」
誕生日。そう言葉にしても祝う気はさらさらないのか密はアンニュイな表情を崩さなかった。
「何が言いたい」
「長くなる。から、そこに座って」
密は目の前のソファに視線を移し、炬は無言でそれに従う。同じ目線になった二人はブラウンの双眸で相手の出方を伺ったが、密が唐突に口を開いた。
「──陽陰町には、妖怪がいる」
あまりにも突飛で、非常識。炬は密の言葉を理解できず、無表情のまま密の理解できそうな言葉を待つ。
「現実逃避、しないで」
「してねぇ。してるのはお前の方だろ」
「組長」
「組長がわけのわかんねぇことを言ってるんだろ」
密はこくりと頷き肯定した。
なんの時間だったんだと炬は辟易するが、密が纏う空気が組長の時の空気とまったく変わらなかったのもまた事実だった。
「言ってない。これが町の真実。町のほとんどの人が知らない本当の姿なの」
「妖怪がか?」
「そう」
生きていく上で自ずと知識として知る、〝妖怪〟。それは架空の存在で、昔話の中にしか存在していないはずだった。
炬は目に見えないものは信じない主義だが、密がそんなくだらない嘘をつくとも思えない。そして、誕生日の日にわざわざそれを言う理由も読めなかった。
「何が言いたい」
「千年前、陰陽師に駆逐されていった妖怪がここに集まった。陰陽師は逃げないように結界を張って、陽陰町が誕生した。妖怪は、その中で人間と交わった……この意味、わかる?」
炬は黙考する。
「私たちは、その子孫」
そして、思考が止まった。
「子孫だから、千年前に起こった百鬼夜行がいつか起こったら……私たちが、死ぬ気で止めなくちゃいけない」
ぞくり、と背中に悪寒が走った。今まで相対してきた裏社会の人間には感じなかった恐怖が今、己を蝕んでいる。
目に見えるものと、目に見えないものは違う。瞬間にそれを理解した。
「…………なんでだ」
「なんでだ、って?」
「なんで俺たちがそれを止める」
「子孫だから」
「なんの為に」
「町と人の為に」
そう言い放った密でさえ、納得していないような表情だった。炬でさえ、そんな理不尽は納得できない。
「二十歳になったら、妖怪の子孫は全員この事実を知らされる。私たちは他人の為に自分の命を投げ打って──死ぬ、そんな運命なの。生まれた時から」
納得できない大きな理不尽を前にして、炬は言葉を失った。
「でも、百鬼夜行が起きない限り大丈夫。千年間何も起きなかった。から、私たちが死ぬことはきっとない」
なんでそれを言い切れるんだと、炬は少しだけ苛立った。
「それに、旧頭首……母さんは〝力〟を持っている。から、多分守ってくれる」
密が燐火を母さんと呼んだ事実を気にも止めず、炬は無意識の内に自分の胸を掻いた。
「その力は、二年前……睦見冬馬が狙っていた紅蓮の炎を操る力」
「…………は?」
炬は顔を上げ、密の言葉にまた耳を疑った。
「本当はあるの。その力」
ブラウンの双眸が濁り、穏やかな雰囲気を持たせるはずのその色が朽ち果てる。
「母さんがそれを持ってるの。母さんは私たちの中でも半妖の血が濃くて、その力は妹に継承されている」
「…………恵にか」
「違う。私たちは本当は三姉妹で、持っているのは次女の方。生まれてからすぐに引き離されて他所にいるから貴方は知らなくて当然だけど」
「…………」
炬は再び沈黙し、密もまた沈黙した。二人きりの客間を静寂が徐々に支配していく。それに抗う術はない。大人しく教わったことを頭の中で考え直すが、炬はやはり納得できなかった。
《十八名家》炎竜神家の分家として生まれて育ち、汚れ仕事を続けていく。そんな運命に疑問を持つことはなく、抵抗することもなく、そしてまた絶望もなかった。
なのに、なんだ。
なんだ、これは。
自分たちは妖怪と人間の子孫で、目に見えないものと戦わなくてはならなくて。目に見える相手ならばいくらでも振るえるこの拳は、そんなものを捉えることができるはずもなくて。戦う状況を与えられないまま息絶える自分を想像し──炬は、静かに息を止めた。
振るうと血が高揚し、自然と気が楽になるこの拳は。なんの役にも立たないのだ。
「私も二年前に母さんから聞いたばかり。相手は母さんだし、私自身、きちんと理解できていないかもしれないけど、炬はどう? 疑問、ない?」
「…………本当に全員なのか?」
「恵はあと三年。使用人もその対象」
「…………炎竜神だけか」
「《十八名家》」
「っ」
刹那、炬の脳裏に浮かんだのはたった一人の少女だった。何度今日という日を繰り返しても、たった一人を思い浮かべるだろうと炬は思う。
綿之瀬有愛──。
綿之瀬家の分家の末っ子で、この二年のほとんどの時間を愁晴と共に過ごしてきた少女だった。
思い返せば、《十八名家》の知り合いは多い。高校時代のクラスメイトだけで考えても数名はいる。
アリアも……。アリアも、理不尽に死ぬ者の対象ということか。
二年前に出逢ったばかりの頃は愁晴と共にただただ鬱陶しいだけだったが、今は別れるのが惜しいと思う程度には親しみを覚えている。
濁りのない金色の髪。蒼い瞳。西洋風かと思えば丸みのある日本人らしい顔つき。赤ん坊のまま育ったかのような柔らかな肌に無垢な心。常に笑顔を浮かべるその様は道化師のようでもあり、炬はそれを眺めているのがなんだかんだで好きだった。
「…………」
ドタドタと騒がしい足音がする。アリアもこんな足音だと思い返したところで、客間の扉が勢いよく開いた。
「炬!」
海辺に実っている蜜柑のような色の長髪。密と同じく耳の後ろから流れる生まれつきの白髪。炎竜神家に共通する穏やかなブラウンの双眸。
密よりも一回り幼い容姿をした少女は、鋭く釣り上がる短めの眉をひくひくと動かして炬を睨んだ。
「恵」
炬は短く少女の名前を呼ぶ。その声色に驚きの色を混ぜたのは、恵がたった今着ている制服だった。
二年前まで炬も通っていた陽陰学園の、群青色が美しい制服。生徒会の人間のみしか着ることが許されないそれを、高校三年生になった今でも来ているということは彼女はまだ生徒会の人間なのだろう。だが、生徒会長ではなさそうだった。
「お前、なんで……」
「なんではこっちの台詞だ! 何しにうちに来た! お前を呼んだ覚えはねぇぞ!」
がるるるると唸る彼女に指を差される。物心ついた時から何かと炬に突っかかる恵は、炬を今でも敵視していた。
「恵。今日は、炬の二十歳の誕生日。邪魔しないで」
「姉貴ぃ! そんなんで納得すると思ってるの?! 普通にわけわかんないから!」
「わけわかって」
炎竜神家本家の次女──いや、三女は、頑なな密の態度に困惑の表情を浮かべる。
あぁ、あれか。あれが〝無知〟の表情か。
ぼんやりとそう思った。
涙も弱音も出なかったが、ただ単に空しかった。なんの為に生まれてきたのか、なんの為に育てられてきたのか、なんの為に死ぬのか。
体の芯が熱くなるのを感じた。時々こうして体が発火するのも、常人よりも頑丈なのも、全部この中で絶え間無く巡っている血のせいか。
吐き気を覚えた。
何が自分の中にある。この血は人か、妖怪か、どっちでもないのか。
──誰か俺を殺してくれ。
生まれて初めてそう思った。苦悩の中で、これだけは断言できた。




