第三話 フレイム・オブ・グレンⅣ
「アリアー?」
「んー?」
乾の声が聞こえる。毛布を上げると暗闇から急に差し込んだ光が眩しくて、アリアは「わっ」と目を細める。
「……やっぱり毛布の中にいた。ほら、今日もこれから南雲のとこに行くんでしょ?」
毛布を引き剥がした乾が腰に手を当てた。乾は無個性だった白いワンピースから好みの白シャツと紺のスキニーパンツに着替えており、準備万端だということが見て取れる。
「あ、ごめんヌイ! そのことなんだけどね……」
そんな乾に、起き上がったアリアは両手を合わせて謝った。
「ん?」
「私、今日は一人で行きたいところがあるの!」
思い切って言ってみたが、乾はどんな反応をするのだろう。
恐る恐る視線を上げると、乾は碧眼を丸くしたまま言葉を失ったかのようにアリアを見つめていた。
「じ、自分の足で行きたいところがあるの」
そこがどこかは言えないけれど、と付け足してアリアは俯く。俯いたら逆効果かもしれないと思った瞬間、乾は口を開いた。
「わかった。アリアが来ないなら……不本意だけど、それでも私は南雲のとこに行く。今日も一人で公園にいたら可哀想だからな」
可哀想? アリアは思わず視線を上げたが、乾はアリアの思考回路が視えていないのか気にした素振りはなく頭を掻く。
「うんっ! ヌイ、さっくんのことよろしくね!」
乾は眉を下げ、「わかってるよ」と僅かに口角を上げた。
*
施設へと伸びる坂を下りたところで乾と別れ、アリアはきょろきょろと辺りを見回す。空の半分を夕焼けが赤く染めており、アリアをじっくりと焦らせていた。
(早く見つけなきゃ)
宛がないわけではない。アリアは急いで、陽陰学園への道のりを行き交う人々全員に聞いて回った。
「嬢ちゃん外の子? 陽陰学園なら反対方向だよ」
苦笑してそう答えたのは、駅前で出会った中年の男性だった。
「えぇっ?!」
「方向音痴なのかい? ほら、この辺は見ての通りショッピングモールと会社しかないからねぇ。あ、あと一人なら気をつけた方がいいよ。ちょっと先を行ったら雑居ビルが密集してる地区があってね、不良の溜まり場になってるんだ。最近も火事があったようだしねぇ」
「……ふりょう? ねぇおじちゃん、炎竜神炬って人はどこに行ったら会えるの?」
「えっ? 嬢ちゃんはその人に会いにわざわざ来たのかい? 止めた方がいいよ、その人怖い人だから」
男性はアリアを説得しようと目線を合わせる為にしゃがみ込んだが、アリアはその忠告を聞かなかった。
「会わなきゃダメなの!」
「いやだから……あ、お巡りさん! この子が……」
振り返ると、警察官が交番の中からアリアと男性を注意深く観察していた。アリアは瞬間に息を呑み、彼らに捕まらないように全力で逃げた。
「あっ! だから嬢ちゃんそっちは危ないって!」
男性が引き止めるのを無視して、アリアはいつの間にか建物の雰囲気がガラリと変わった地区へと逃げ込む。
「っはぁ、はぁ……!」
誰も追ってこないのを確認して肩で息をし、視線を上げた先にある焼け焦げた建物を見て気がついた。
(ここ、ふぶりんと初めて会ったビルだ)
まだ焼け跡が生々しく残っている。規制線が貼られ、近いうちに解体すると書かれた看板まで置いてあった。
(…………ここじゃない)
アリアはもう一度辺りを見回した。
駅前とは違い、人の往来はあまりない。探し人がいるならばすぐに見つけれそうだった。
「やっぱり、そんなにすぐには見つか……」
──ダァンッ
諦めかけた刹那、耳を塞いでしまいたくなるほどの衝突音が近くのビルの上から聞こえた。視線を上げると、五階建てのビルにつけられた錆びれた螺旋階段から黒いスーツを着た二人組の男性が駆け下りてくる。
一人はそのままアリアの横を通り抜け、もう一人は勢いのままにアリアを突き飛ばした。
「いっ……?!」
「チッ! 邪魔だガキ!」
「……ッ?! ふ、ふぁい!」
アリアはぶつけた腰を擦りながら、茫然と走り去っていく男性を見つめる。不良──とは少し違って見える彼らは、急いで何かから逃げているようだった。
「逃げるのは構へんけど、どうやったって炬からは逃げられへんのに。ほんま諦めの悪いやっちゃなぁー。これは俺らの縄張りを荒らした罰でもあるんやで?」
螺旋階段の一番上から聞き覚えのある声が下りる。
「クソッ、来やがった!」
夕焼けに照らされた人影は、見覚えのある青年の姿をしていた。
言葉を失いながらもアリアが〝給仕の青年〟を見上げていると、給仕の青年もアリアの存在にようやく気がつく。ニコニコ笑顔だった表情は途端に凍りつき、恐怖だけがそこに貼りつけられていた。
「おい、てめぇら! 近づいたらこのガキがどうなってもいいのか?!」
「…………え、私?!」
青年の恐怖の理由はこれだったのだろうか。
アリアのこめかみには拳銃があてがわれ、体は男性の腕に引き寄せられる。
「なっ……!」
螺旋階段の半分まで下りていた給仕の青年は表情を引き攣らせて足を止め、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「どうした」
それよりもゆっくりとした足取りで、新たな人物が螺旋階段の頂点に姿を現す音がした。俯きかけていた顔を必死に上げ、アリアは再び夕焼けに照らされる人影を見つめる。
そこには、給仕の青年とはまた違う容姿の青年が立っていた。夕焼け色に近いオレンジ色の髪を掻き上げて、青年は給仕の青年と同じく眼下のアリアを視認する。
「…………あ?」
そして気だるげに声を漏らし、青年は緋色のラインが入った白いブレザーのポケットに両手をつっこんだ。中のシャツはわざとなのかそうでないのか、ボタンがかけ違えられていて素肌が隙間から見えている。そのだらしない上半身からは想像もつかないが、靴は高価で丈夫そうな物を履いていた。
まったく同じ制服を丁寧に着ているが、ボロボロの靴を履いている給仕の青年とはどこまでも違っていた。
「炬、えらいことになってしもうた……」
給仕の青年は、少しだけ柵から身を乗り出して青年を見上げる。
(炬?)
きっと、そのまさかだった。
炎竜神家分家の一人息子である炬は、ブラウンの双眸でアリアを見据える。そして──
「誰だ、あのガキ」
──と、給仕の青年に尋ねた。
「あの子は……ッ!」
答えようとして、給仕の青年は言葉を失った。
アリアにとっての給仕の青年。
給仕の青年にとってのアリア。
そこにズレがあると思って、悲しくなった瞬間に彼が口を開く。
「俺の〝かぞく〟。俺の妹や」
出てこなかったはずの言葉を絞り出して、給仕の青年は真剣そうな表情で答えた。
また、体中が熱くなる。嬉しさと憧れを詰め込んで、アリアは目頭が熱くなるのを感じた。
「ハッ、似てねぇな」
間髪を入れずに炬は鼻で笑い、視線をアリアから少しだけ上げる。炬の視線が移動した先では、例の男性二人が小声で話し合っていた。
「おい、よく考えろよ。これ本当に大丈夫か? こんなガキ一人を人質にして……身内じゃねぇだろ? あいつらが助ける義理がねぇ」
「知らねぇよ……! とにかく今は、この場から逃げることだけを考えとけ!」
給仕の青年の言葉が聞こえていなかったのか、聞こえていたが頭に入らないほど集中していたのか、男性たちの不安が解消されることはなかった。
代わりにアリアの不安がなくなり、ニッコリと笑う。炬はそれを意外そうに眺めて柵に片足をかけた。
「ッ?! く、来るなっつってんだろ!」
「てめぇの指図を受ける理由はねぇんだよ」
そのまま炬は口角を上げ、柵に両足をかけた途端に飛び下りた。
「炬ぃ!? ちょっ、ほんまあほやな自分!」
給仕の青年は慌てて柵に手をかけて、自分を追い越して下りていく炬を視線で追う。
ダァンッ──炬は、アリアが反応するよりも早く両足を地面に打ちつけた。
「武装したただのカタギのくせに、陽陰町まで来た度胸だけは認めてやる。チャカを渡せば見逃してやってもいい」
「そっ! そんな言葉俺らが信じると思うか!」
「そうだ。俺たちは対立している組同士、嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ」
瞬時に距離を詰めた炬に怯え、引き金に力が込められる気配がする。それでも炬は、口角を上げるのを止めつつも年上の男性二人に緊迫感なく言葉を投げた。
「撃つ度胸だけはねぇくせに、いっちょまえにチャカ持ってんじゃねぇよ」
瞬間、炬のブラウンの双眸に膨大な熱が込められた気がした。それはまるで炬自身が炎だとでも言うように燃え盛っている。
「オレンジ……?」
違う。瞬間に空が、世界が──
「ぁ」
──赤く染まった。
「ぁぁあぁぁぁぁあ!」
鼓膜に響く絶叫。そこでアリアはようやく状況を理解する。
炬に殴られて赤黒い血を鼻から吹き出した男性は、アリアを引き寄せていた手を緩めた。男性が殴られた衝撃はアリアにも少なからず影響を与え、軽い吐き気を覚えながら伸ばされた掌をじっと見つめる。
ゆっくりと近づいて見えるそれは炬の掌で、細かな傷がついたボロボロの手だった。
「ふ……ぁっ、あっ!?」
炬に腕を引かれたアリアは正面に放られる。
躓いて思わず転びそうになったが、それを危うげに抱き止めたのが螺旋階段を全速力で駆け下りた給仕の青年だった。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
荒い息を整えながら、給仕の青年はいつもの優しそうな瞳でアリアを見下ろす。
「……もう、大丈夫……やからなっ……!!」
「うん……」
アリアの背中に回された手は、あの星空が美しかった夜の日に感じた手と同じだった。
とても温かくて頼もしくて、綺麗で優しい。
世界で五本指に入るくらい、大好きな手だ。
「……助けてくれてありがとう!」
その手と、あのボロボロの手に助けられた。
アリアが振り返ると、既に殴り合いが終了した後だった。一方的にボコボコに殴られた男性二人を何故か困ったように眺め、炬はゆっくりとアリアに視線を移す。
「ありがとうっ!」
ちゃんと炬にも届くように、笑ってもう一度アリアは言った。
炬はそんなアリアのことを初めて不思議そうな視線で眺めていた。




