第四話 大通りの不良集団Ⅴ
真菊から引きずり下ろされてしまった紫苑は、払ってしまったバス代の金額に眉を顰める義姉を見上げる。
……そんな顔をするのなら、バスに乗らなければ良かったのに。バスに乗った自分を見て見ぬ振りして、普通に生きていれば良かったのに。
そんな言葉でさえ、真菊が貼った札は言わせることを禁じていた。紫苑は、なんだか無性に悲しくなって地面にずっと伏していた。
「紫苑。あのバス停まで行って、そこから駅の電車に乗るわよ」
小学生の義弟をおぶり、一個上である中学生の義姉は歩く。足取りは重く、何度も自分の腕の中から足を落としそうになっても真菊は歩く。紫苑は、やっぱりそんな義姉の上で悲しさを感じた。そんな思いを必死になって押し殺した。
「……どうして、家出なんかしたの」
汗ばむ真菊の首筋を眺めながら、動けない紫苑は答えを探す。
言いたいことは大量にあった。不満も、怒りも、孤独感も、紫苑の中から溢れ出ていて止まらない。そんな感情を、真菊は二年一緒に暮らしていても気づけなかった。気づいてはくれなかった。
「…………心配したんだからね」
どうしてこんなに窮屈なんだろう。
どうしてこんなに生きづらいんだろう。
真菊の、偽善に見える優しさが気持ち悪かった。
家族じゃないのに、家族として接してくる真菊が。家族なのに、家族と思いたくないくらいに心の距離が離れた春が。家族じゃないのに、兄として慕ってくれている多翼が。養父の姪なのに、自分たちの存在をあっさりと受け入れてくれた美歩が。臆病なのに、必死になって自分たちを頼ってくるモモが──紫苑の頭から一時も離れず、耐え難いほどに重たく、漠然とした不安になって押し潰そうとしてくる。
吐き気がした。こんなにしんどい思いをするのなら、あの時独りで野垂れ死んでしまった方が良かった。
小石に躓いた真菊のせいで自分の体が大きく揺れる。たったそれだけで紫苑に押し潰されそうになる真菊は、何を原動力にして今を生きているんだろう。
たいしてしっかりとしてない小さな背中にどんなものを背負っているのか、紫苑はなんとなく知っていた。それが──紫苑のことを一度も見捨てずにバス停まで辿り着いた真菊の思いが、重たかった。
「次のバスまでだいぶ時間があるのね」
シャツで汗を拭い、盛大にため息をついた真菊は紫苑をその場に下ろす。そうして未だ動かない彼を見、「ごめんね。まだ剥がせないの」と浅く笑った。
「…………」
何も言えない紫苑は、このまま誘拐じみた方法で施設にいる奏雨や真や星乃たちと永遠に別れてしまうのだろうかと考えて力を抜く。
あの時、末森が来なければ──。空気が読めない従兄を憎んでも仕方がないが、紫苑はこのぶつけようのない苛立ちに殺されそうになって従兄にやはりすべてをぶつける。
どうせなら、今。今この瞬間に駆けつけてくれたらいいのに。真菊のことを捕まえて、養父やその知人が作り出すあの家のことを壊してくれたらいいのに。
そうして六人で施設に移り、他人として過ごしていけたら幸せなのに。地獄のようだった施設から多翼とモモを救い出した養父自身が、今の地獄を作り出した一因になってしまったのだから。
「春も、美歩も、多翼もモモも……みんな心配したんだから謝りなさいよ?」
悪意のない悪意の中に溺れそうになる。全員が真の悪意に飲まれてしまって、何が正しいのかがわからなくなってしまっている。
一瞬だけ、紫苑は本当に自分が離脱した後の彼らのことを考えた。
養父が何も考えていなかったとしても、養父に取り憑くあの女は違う。あの女の悪意に真に取り込まれてしまったら──全員、もう戻って来れないのではないだろうか?
それは、一家心中と大差ないような気がした。
紫苑は怯え、真菊を見上げる。だが、真菊はあの時浅く笑っただけでなんの言葉も出してこなかった。
「…………」
なんとか、しなければ。だが、自分一人ではどうすることもできなかった。
自分には、〝間宮結希〟のような強さがない。あの場所に行く為に寄り道をした《グレン隊》の好意を無下にして、自分は今、《グレン隊》の隊員たちとも永遠に会えないような別れを味わう手前まで来ている。
「…………ッ!」
なんとかするのは、後の話だ。まずは今、ここを切り抜けて──いつか全員の目を覚まさせてやる。
すぐに札の効力を確認した。自分よりも年上で、自分よりも強力な札を持つことを許可されている真菊の札を剥がす方法なんてどこにもない。
紫苑は抜けない縄に縛られたような感覚に陥った。それを抜け出す為の隙を待つことにし、隙を見破る為に張り巡らされた妖力に集中する。
こんな時に限って、陰陽師で良かったと心から思った。間宮結希ならどうするだろう。間宮結希なら、どうやってこの窮地を抜け出すだろう。そんなことを考えながら、紫苑は目の前でバスを待つ義姉の警戒心のなさに呆れ果てた。
養父も、真菊も、親子じゃないのに詰めが甘いところが似ているのはどうしてだろう。紫苑は密かに息を吐き、自分という存在と状況を見つめ直した。
数十分かけて弱まっていく札の効力と、数十分かけて近づいてくる駅前行きのバス。真菊は振り向いて紫苑を見、抵抗する様子もなく大人しくしているのを確認して安堵する。
真菊のことだ。どうせ、札の効力が弱まった瞬間に逃げ出すとでも思っていたのだろう。だが、彼女は紫苑がいなくなったこの一週間の空白期間についてなんの考慮もしていなかった。紫苑は、この一週間ずっと《グレン隊》からの手ほどきを受けていたのだ。だから、真菊が知っている紫苑は最早もうどこにもいない──。
紫苑は無言で札の効力を無効化した。札の残滓がまだ残っているが、動けないことはない。走り、森の中に逃れ、タマモを呼び出して式神の家に転がり込んだらすべてが終わる。
なんの解決にも、なっていなくても。
「ッ?! 紫苑?!」
時間差で紫苑と札の異変に気づき、真菊が振り返った時にはもう手遅れだった。紫苑は背後の森に駆け込み、式神であるタマモを呼び出す。
「案内しろ!」
「承知いたしました」
背後に飛び下りてきたタマモはすぐに紫苑を追い越す。紫苑はその背中を追い、真菊の妖力がすぐ側まで来ていることに気がついた。
「いつもよりも遅いですよ、主君!」
「わかってる……!」
甘かったか。体が未だに痺れているような──どうやっても動き辛さを感じてしまう。
「紫苑! 待ちなさい!」
待てと言われて待つような紫苑ではない。だが、この距離のままでは式神の家に真菊まで連れてきてしまう。
どうする、どうする、どうする──!
このままでは、戦うという選択肢しか出てこない。だが、真菊と戦って勝ち目はあるのだろうか?
「──馳せ参じたまえ、カグラ!」
刹那、真菊の声が聞こえてきた。最悪だ。一番最悪な道を歩んでいる。
「ッ、タマモ!」
咄嗟にタマモを呼び戻し、背後を守らせた。だが、タマモだけでどこまで守り切れるのか──真菊の式神のカグラは、そういう式神だった。
振り返ると、タマモとカグラの刃が火花を散らせながら交わる。タマモよりも体格の良い男型の式神の強靭なカグラは、タマモを吹き飛ばして紫苑を追った。
「捕まえて! 殺さないで!」
そう叫びながら紫苑を追い続けている真菊は必死だ。殺意はないが、戦うという意思はある。
紫苑は吹き飛ばされたタマモを追いかけ、幹にぶつかっていた彼女の背後に隠れた。
「タマモ! 無事か?!」
「は、っ……はい」
いや、大丈夫そうにはまったく見えない。掠れた声を上げて殺意を剥き出しにし、刀を持ち直してタマモは立ち上がる。
「できるならしばらく耐えてろ! 俺は……ババァをぶっ倒す!」
「承知いたしました……!」
紫苑とよく似たタマモの表情は、闘争心に満ち溢れていた。まっすぐにカグラの元へと疾走し、紫苑はタマモがカグラを引きつけているうちに真菊の元へと駆けつける。
「ッ、紫苑!」
「ババァ!」
真菊は目を見開いたが、すぐに破顔した。
違う。自分の元に戻ってきたというわけではない。紫苑は、戦う為に戻ってきたのだ。
勝ち目がないのはカグラの場合であって、真菊だけならば勝ち目がある。真菊を倒したらカグラは必然と消えていくのだから、タマモにはそれまで辛抱していてほしい。
「紫苑……どうして?!」
「ババァ! 俺はやるからな!」
拳を握り締め、紫苑はポケットの中に手を入れた。
真菊を殴ることはできるが、真菊を殴り倒すほど紫苑は義姉を恨んでいるわけではない。どうしてもそれだけができず、紫苑は札を取り出した。
「──フッ!」
呪詛を飛ばし、真菊を呪う。それは、殺すつもりは毛頭ない真菊を威嚇する為のものだ。
真菊は当然のようにそれを避け、地面に伏す。悲しそうな瞳で紫苑を見上げていたが、紫苑は立ち止まるような心優しさをかなぐり捨てた。
「紫苑……どうして……!」
紫苑だって悲しさを感じている。すれ違いは何よりも悲しい。互いが互いを理解できない。
真菊は偽善者の仮面を被った年相応の少女で、紫苑は真菊たちのことを最初から理解する気のない年相応の少年だ。そんな二人がわかり合う日なんて来るはずがない。そんな牙を思い切り剥いて紫苑は真菊を攻撃した。真菊は紫苑の攻撃を避け、蹌踉めきながら立ち上がった。
「紫苑がその気なら……私も……」
迷いを未だに瞳に残し、真菊は再び札を構える。その前に紫苑は札を飛ばした。真菊が紫苑にしたように、彼女の動きを止める為に。
「ッ!」
人差し指と中指を立てて、真菊は正面に簡易結界を張る。紫苑の札はそれによって阻まれて、紫苑と真菊の間には、高く薄い結界が残った。
「…………紫苑、お願い。何か言って」
泣きそうな真菊の声を無視して、紫苑は次の札を構える。
引き裂かれたわけではない。紫苑と真菊は最初からそうだった。




