第四話 大通りの不良集団Ⅰ
小さな声が聞こえてきた。目を覚ますと、見知らぬ壁が目の前にある。寝返りを打って天井を見ると、そこも見知らぬ天井だった。
知らぬ間に垂れていた涎を手の甲で拭い、紫苑は昨日の記憶を時間をかけて思い出す。そして、起き上がって辺りの風景を見回した。
必要最低限の家具しか置かれていないこの部屋は、かつて朔那が住んでいた部屋で。《グレン隊》をさっさと辞め、《カラス隊》に転身した朔那が残した物は何もなかった。
殺風景な部屋の外から、起きてきた誰かの話し声が聞こえてくる。そうだ。この話し声があったから自分は目が覚めたんだ。
紫苑は掛け布団を剥がして扉を開け、廊下を寝惚けながら歩く遥の背中を視界に入れた。
「遥さん、おはようございます」
駆け寄って声をかけると、「んあ?」と瞼を擦る遥が振り向く。あんまり開いていないように見えるそれが紫苑を捉えることはなく、盛大なあくびをして壁に寄りかかった。
「おぉー……え、紫苑? おまえ、なんでここにいるんだ……?」
「昨日来た時に会ったじゃないですか」
紫苑は呆れた声を上げ、朝に弱い遥のことを追い抜かす。
昨夜、従兄の末森から逃げる為に《ハリボテの家》に駆け込んだ紫苑はリビングにいた全員から驚かれた。
当然のように愁晴からは叱られて、遥からは面白がられ、睦見からは笑われて、如月からは呆れられ、弥上からは褒められて、卯之原からは感心され、皐堂からはそれでも子供扱いされてしまった。
アリアは純粋に驚いていて、アイラからは年下のくせに夜遅くに外出したことについて窘められた。
炬だけがその場におらず、群れて生活をしない大将の孤高さに感動する。だが、朔那の部屋に通される直前に彼の部屋の前を通った時──他のどんな生物よりも滲み出ている炬特有の尖った雰囲気が、そこにいるのだと主張していて安堵した。
「おはようございま〜……す」
リビングに恐る恐る顔を出し、そこにいるはずの誰かを探す。《ハリボテの家》には窓がなく、朝日を感じることはなかったが寝間着姿の全隊員が朝であることを告げていた。
「あ。おはよう、紫苑〜」
だが、アリアだけはいつものクラシカルメイド服を着用しており、テーブルの上に二リットルのペットボトルとコップを置いて働いていた。
「……早いっすね、アリアさん」
「うん! 早起き、頑張ってるよ〜!」
力こぶを作ったアリアは、別に褒めていないのに上機嫌だった。そのまま他の家事をしに姿を消し、紫苑は一番オカン気質に見える愁晴に近づく。
「おぉ、起きたんか。おはよう」
「……お、おはようございます」
「昨日は聞きそびれてしまったが、施設で何があったんだ? 夜中に逃げ出すなんて相当なことがあったんだろう?」
「えっ?! ……い、いや、別にたいしたことはないんですけどぉ……」
「たいしたことがないなら来んなや。あったんやろ? 〝何か〟」
「い、いやぁ〜……」
愁晴は盛大にため息をつき、如月と目を合わせて肩を竦めた。
「言いたくないなら無理に言わせなくてもいいんじゃないですかぁ〜? 子供って意外と強情ですし?」
「子供じゃねぇです!」
けらけらと笑う卯之原に抗議し、紫苑は彼の隣に腰を下ろす。
《ハリボテの家》。《グレン隊》が過ごすいつもの朝の時間。施設で過ごしたほんの数日間よりも穏やかに進む朝のそれに紫苑は居心地の良さを感じ、今日の夜中に決行される作戦を脳裏に思い描いた。
黄昏時は妖怪に邪魔されるからだろう。放課後になってたむろしている彼らの基本的な時間ではなく、夜中に決行すると宣言した愁晴は素知らぬ顔でペットボトルからお茶を注いだ。
「紫苑。夜中までにやることやるぞ〜」
「えっ……、やることってなんですか」
そんなことは一度も聞いていないのだが。自分の肩を無理矢理引き寄せて組んでくる睦見を見上げ、紫苑は遥に助けを求める。だが、遥は別のソファの上でうたた寝していた。
「防御訓練とか」
「煽り方とか?」
「防御訓練だけで結構です!」
「そうだよね。紫苑はもう充分に煽れるもんね」
「そういう意味じゃないですけど!」
再び卯之原に抗議をして、弥上に容易に抱き上げられる。
「飯食ってしばらくしたら、空いてる奴らだけで稽古つけてやるぜぇ? 俺ら特製スペシャルメニューだ、感謝しろよぉ〜?」
「まっ、マジですか?! 感謝するんで下ろしてください弥上さん!」
「……軽そうっスね」
「筋肉とかついてないんだろうな」
「タンパク質増やしてやろうか? プロテインも混ぜられるぞ」
「それ絶対にクソマズいっすよね?! 却下です! 却下! 普通にタンパク質だけにしてください!」
全隊員から弄られ続けること数十分。施設で子供の世話をした時以上の疲労感が紫苑を襲う。
「ぜぇ、はぁ……」
悪魔だ。朝っぱらから一緒にいると死ぬほど疲れる。
「体力もねぇのな」
「お前らが悪いんやろ。反省しとけ」
ようやく止めに入った愁晴に保護されて、如月が作ったタンパク質メニューのスクランブルエッグを口内に掻き込んだ。
*
「報告通り、まだ残っとるみたいやなぁ」
タブレットを操作して卯之原からの報告を受け取った愁晴は、《ハリボテの家》の中に残っていた紫苑に視線を向けた。
日が完全に沈む前。空が暮れなずんでいる間に出発すれば奴らと完璧に鉢合える。
紫苑は愁晴に向かって頷いた。大丈夫だと心から伝える為に視線は逸らさず、今日一日だけでだいぶくたびれた私服の裾を握り締める。
それを見た愁晴は笑みを零した。その意味がよくわからずに内心で首を傾げ、「大丈夫や」と優しい声色で声をかけてくる愁晴の瞳をあっさりと信じる。
「何かあったら使うんやで? ……お前の〝力〟、お前が持っとるその〝力〟は誰かのモノやない。お前の個性の一つなんやから」
愁晴が本当に言いたかった言葉は、他の誰でもない紫苑だったからこそすぐに理解できるものだった。
この世にたった一人しかいないと思われる人工陰陽師の朝霧愁晴は、生まれた時からの陰陽師である末森紫苑の能力を肯定してポケットを指差す。
「俺の、〝力〟……」
震える声で呟いた。
「せや。まずは自分の身を守ることを最優先にして戦うんやで?」
陰陽師は自分の身を守ることを得意としている。だが、それは対妖怪の話であって人に対してというわけではない。最初に紫苑がしたような方法であれば身は守れるが、それは最終手段だということもわかっていた。
「そうすれば、いつかお前は《グレン隊》最強の盾になれる。……ま、それまでは俺が《グレン隊》の盾やけどな?」
「……俺、盾じゃなくて矛がいいです」
「ほぉ〜、小学生はまだそっちに憧れるんやなぁ」
「なっ?! こ、子供扱いしないでください! 最強なんですよね?! 最強なら別に盾でもいいですよ!」
子供扱いされたくなくて胸を張った。最強の矛は炬だろうからその座を狙う気もさらさらなかった。
「ジョークやジョーク。なりたい自分になってええんやで? お前は、な」
握り締めていた拳を解く。そこには、ほんの少しだけ寂しそうに笑う愁晴がいた。
「…………しゅ」
「お。来よったで、合図」
何か声をかけなければ──そう思った紫苑の思いやりはタブレットに表示された通知のせいで霧散してしまった。
「…………、いってきます」
空気を吸い込み、吐き出し、紫苑は一人で《ハリボテの家》の取っ手に触れる。これを一人で開けて、一人で目的地まで行って、一人で──
「紫苑」
──冷や汗をズボンで拭い、振り返った。
「お前は独りなんかやないよ」
立ち上がった愁晴の瞳は、鼠色のくせに綺麗だった。
「頑張りや」
今度こそ扉を開けようとする紫苑の背中に触れ、愁晴は紫苑を送り出す。背中を押された紫苑は「はい!」と答えて飛び出した。
階段を駆け上がり、不良集団がたむろしているこの道とは別の大通りへと向かう。だが、途中で走ることをやめた。歩き、偶然をなるべく装うようにして彼らの視界に入っていく。
「……あのガキ」
不良集団の中の誰かが、ぽつりとそんな言葉を漏らした。地獄耳の紫苑にはちゃんと聞こえており、足を止めることなく逃げられない範囲まで進んでいく。
「嘘つき」
開口一番相手を侮辱した。
「…………は?」
「お前ら……〝テメェら〟全員嘘つきだ」
腕を組み、座り込んでいる彼らをなるべく煽るように鼻で笑って見下ろしてみる。それだけで釣れた彼らは立ち上がり、あからさまに怒った表情で拳を鳴らした。
「お前、もっかいボコられてぇみたいだな」
「はぁ? あの時逃げてったのはテメェらだろ?」
それは間違いないのだ。紫苑の〝力〟で、彼らは逃げていったのだ。
彼らの中でどう処理されていたのかは知らないが、図星だったようでぴくっと全身の神経が反応する。その反応を紫苑は決して見逃さなかった。
「ぎゃははっ、図星みたいじゃね〜か!」
弥上の下品な笑い方を真似し、睦見が時々見せるゲス顔というものをしてみる。刹那、拳が真正面から飛んできた。
「うっ、わ!」
背後に避け、空ぶった拳の行先を確認する暇もないまま次々と襲いかかってくる奴らの攻撃を避け続ける。
ほんの少し前までの紫苑だったら絶対にできなかったが、遥に叩き込まれた拳の軌道の読み方は素人相手だと簡単に見破ることができ──急に強くなった紫苑を前にして戸惑う不良集団の表情が快感だった。
「かかって来いよ!」
叫び、腹部を殴られて腰を落とす。唾が飛び出してきた。奴らは紫苑に一発入れただけで浮かれ始め、次の攻撃も確実に紫苑の中に入れてくる。
だが、そんなに痛くないことに気がついて紫苑は如月に感謝した。如月から教わった力の受け流し方を半信半疑に、ぎこちなく使っていたが普通に実戦で通用している。卯之原から教わった弱者に見える立ち振る舞いは奴らの攻撃をエスカレートさせ、皐堂から教わった反撃の仕方も通用していた。




