第二話 避難所の子供たちⅡ
──やばい。そうやって自分の本能が自分に危険を知らせてくる。
紫苑はごくりと唾を飲み込み、下がろうとして下がれなかった。下がったら負けだと瞬時にそう思っていた。
引かない。引いてはいけないから前に進むしか道はなくて、その隙に紫苑は四方八方を少年たちに囲まれてしまっていた。
「ッ!」
ニタニタと笑うその笑みは、自分たちの勝ちを確信しているような笑みだった。多勢に無勢。それに快感を覚えているような少年たちの笑みだった。
「……お前ら、本当に嘘つきだな」
紫苑も紫苑でそう確信する。紫苑が知っている《グレン隊》は絶対にこんなことなんてしない。《グレン隊》に夢を見ているのかもしれないが、そんな意地汚い精神を持ち合わせた人間の集団には見えなかったから──紫苑はやっぱり引かなかった。
喧嘩の仕方なんて本当は知らない。不良は不良でも喧嘩なんて一度もしたことがない人間だから、奴らに勝てる確信はない。
だが、拳では勝てなくても紫苑には〝力〟がある。
紫苑はポケットに突っ込んだままの紙切れでタマモを呼ぶかどうか一瞬迷い、すぐにやめた。中学生くらいの容姿を持つ少女のタマモにこの場を助けられたら一生の恥だ。
「…………」
思わず俯いた。その隙をわざわざ狙った拳が紫苑の目の前を通り過ぎ深く深く腹部にめり込む。
「ぐぁっはっ、あっづ……?!」
言葉にならない声が瞬時に飛び出してきた。紫苑は咄嗟に腹部を押さえ、どんな声も漏らさないように唇をきつく噛み締める。きつく睨みつける暇もなく、次と、次が、熱さを伴って紫苑を殴る。
「ッ!」
殴る──そんな生易しいものではない気がして、紫苑はいつの間にかついていた片膝を睨みつけた。
──何してんだ、俺の膝。
そんなことを思ってポケットを探る。その手も蹴られて、痛み、痺れ、感覚が消えてきた。
「死ねぇ!」
そう言ったのは自分自身で、嘲笑う少年たちの遠く重たい声が耳朶を打つ。紫苑は自分の正面に〝札〟を叩きつけ、じわんじわんと傷んだ掌をきつくきつく握り締めた。
「っ……てぇ!」
引いていく少年たちの足音を聞きながら、紫苑はそのまま仰向けに倒れる。
──やってしまった。あまりやりたくはなかったが、これ以上の痛みに耐えられるほど紫苑は強くなかった。
じんわりと目元が熱くなって、情けないくらいに痛くなって、ぼろぼろと涙が溢れてくる。それを止める術を紫苑は一つも知らなかった。なのに止めたいと願うから、いつの間にかうつ伏せになってしまう。
青空に背を向けて、紫苑は自分が貼った人避けの札を見下ろした。人を避ける──だから少年たちは去っていき、一定の距離まで行って自分たちが何故逃げてきたのかと疑問に思うだろう。
だが、この札が効果を発揮している間は誰一人として戻ってくることができない。それは、陰陽師でもない限り──。
少年たちの中に陰陽師がいないことを確認していた紫苑は、誰も戻ってこれないとわかっていた。と同時に誰も通りかからないから自分のことを救ってくれる人間がいないこともわかっていた。
タマモを呼ぼうかともう一度悩んで、紫苑は視界に入っていた影が動いたのを視認する。まさか陰陽師が──ぴりっと空気を張り詰めたが、熱を帯びた痛みに耐えられなくなって紫苑は意識を手放した。
*
ぼんやりと意識が戻ってくる。だが、紫苑はこのまま眠っていたくてかけられた布団の温かさに包まれる。浮き上がってきたこの意識を寝かせたまま、紫苑は辺りの様子が違うことに気がついた。
『アリア、すまんな』
『ううん。だってすっごい怪我だったし……助けてあげたいって思っちゃうよ』
『せやなぁ。……にしても、何したらあんなボコられるねん……頭痛いわ』
『最近の子ってさぁ、妙にかがりんに懐いてるっていうか……怖がらないってよくはーちゃん言ってるよねぇ。舎弟気分でいるっていうか、《グレン隊》の身内だって言って色々やらかしてるらしいよ』
『あぁ、それは俺も聞いとるわ。面倒やなぁ……『身内ちゃうで』って言って回るわけにもいかんし、中坊ボコるわけにもいかんし』
『名乗るのやめてねって言うのもちょっと違うよねぇ』
『向こうから接触してきたら話は変わるんやろうけど、言いふらすだけ言いふらして接触してきいひんのも腹立つわぁ〜』
『困ったねぇ……。かがりんがアレだから言えばすぐに入れるんだろうけど、私はあぁいう子入れたくないなぁ』
この声は、アリアと愁晴だろうか。うっすらと目を開けると木造の天井が視界に入れる。ここは……《グレン隊》の本拠地ということだろうか。
『それは俺も同意見や。適当な奴やからなぁ……俺らがシメとかんと』
『そうだねぇ。みんなにも一応話しとこっか』
ずっと部屋の外で話していた二人は、足音を立てて階段を下りていった。紫苑は一気に心臓を凍らせて、もう一度自分が《グレン隊》の本拠地にいることを確認する。だが、確信できるような物品をベッドの上からは確認することはできなかった。
「…………」
紫苑は寝返りを打ち、周りに誰もいないことを確認する。そうしてちゃんと目を開けて、起き上がった。
「…………なんでこんなとこに…………」
言葉に出して頭を抱える。《グレン隊》──炬の手下だと自称する中学生の集団から暴行を受け、意識を失ったことまで思い出し──紫苑はぽっかりと口を開けた。
「…………なんで…………」
なんで、どこも痛くないんだ?
あんなに熱くて、溶けそうで、痺れていたのに。そんな痛みなんか受けていなかったかのような──いや、受ける前よりも体が身軽になったような気がする。
紫苑は混乱し、無意味に辺りを見回して思い出した。
──アリアだ。
人工半妖のアリアが自分のことを助けたと、さっき言っていたじゃないか。
「…………なんで…………」
どうして自分を見捨てなかったんだろう。見捨てられるような非常さを持ち合わせていない隊員たちの心を疑い、紫苑はわしゃわしゃと髪を乱した。
無闇に人を傷つけるような愚かな人たちじゃないことに安堵し、逆に助けようとするような愚かな人たちだったことに絶望する。
なんなんだ。《グレン隊》にはどういう人間がいて、どういう人間が魔王の炬に仕えているのか。
紫苑はそっとベッドを抜け出した。抜き足差足で扉まで歩き、扉に耳をつけて外に誰もいないことを確認する。アリアと愁晴のおかげで防音機能をまったく果たしていないことだけは知っていたが、外の構造がどうなっているのかは知らなかった。
恐る恐る扉を開けると、廊下を確認することができる。正面に扉はなく代わりに階段の方があったが、上へと続くものだった。視線を移すと廊下の端にも階段が見え、紫苑は再び忍び足で廊下を歩く。
(…………あった)
ごくりと唾を飲み込んで、下へと続く階段を覗く。聞こえてくる話は、本当に他愛のない──今日の昼飯の話だった。
『私もアイラと同じオムライスがいー!』
『おれはラメーン! まだ麺残ってたよな?!』
『ラーメンなら自分で作れ』
『えぇー?! 宗太の飯じゃねぇとおれ食えねぇーよー……宗太の飯がいいよー……』
『十八にもなって何甘えたこと言ってんだ』
『言うてアリアだって十七じゃんよ』
『まぁ、アリアのはアイラのついでだからな』
『えっ?! じゃあおれもオムライスにすれば作ってくれんの……?』
『あぁ』
『よっしゃ! じゃあオムライスで!』
『じゃあ俺らも〜』
『……なんなんだお前ら』
そんな会話を聞かされると、きゅうと腹の音が鳴る。紫苑は自分の腹を撫で、唇を尖らせて腰を落とした。
『宗太に作ってもらうのが一番楽だからなぁ〜』
『安心しろ! 俺はちゃんとチップを払うぜぇ?!』
『僕も払うよ〜、チップ。お部屋お掃除券でどう?』
『……肩たたき券でどうスか?』
『いらない』
一人だけ昼飯を作らされている青年の声は明らかに不機嫌で、自分の分も作ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた自分を殴る。
仲間でもない。倒れていたところを拾われた自分に差し出せるものは何もなく、施設に帰るまで何も口にできないのかと本気で落ち込んだ。
そのせいできぃと聞こえてきた小さな音の正体に気づくのが遅れ、紫苑は慌てて振り返る。下り階段の一番近くにあった部屋から出てきたのは、野獣のような寝起きの青年だった。
「へっ……あぎゃあ?!」
一気に首根っこを掴まれて、宙に浮かんだ紫苑は足をバタつかせながら抵抗する。青年はギシギシと音が鳴る階段を下り、血の気が引いた紫苑のことを全員の前に放り出した。
「いだっ……!」
「うわっ、かがりん?! その子どうして……寝てたんだから寝かせてあげなよ!」
──かがりん?
紫苑は慌てて振り返り、炎竜神炬だと思われる青年のことをじっと見つめる。
鋭い目つきをした炬は紫苑を訝しげに見下ろしており、「……そこで聞き耳立ててたんだよ」と髪を掻いた。
「ほん、もの……?」
「炬さん、おはようございます! そいつ愁晴さんが拾ってきたんすよ〜。ボッコボコにされてたっぽくってさぁ」
「そんでアリアが治療してたんだってよぉ〜。すごかったんだぜぇ? 血塗れだったからタオルでわざわざ拭ったりよぉ」
「そんで俺の部屋で寝かせてたんやけど……起きたみたいやなぁ」
《グレン隊》の隊員は、全員、決して弱いわけではない。なのにそんな彼らを有無を言わせずに従わせている炬は〝強い〟。だから──
「──炬……さん! 俺を炬さんの〝手下〟にしてくださいっ!」
心の底から叫んで願った。
怪しまれないようにアリアとアイラに近づく為に。バケモノのように強くなる為に。怖さを押し殺して、紫苑はその場で土下座した。
たいした力もない紫苑だが、ただの少年と比べると陰陽師という力が味方についている。それでも、生身でも強くあれるように。それが紫苑のなりたい紫苑の姿だ。
「好きにしろよ」
それが、炬の返答だった。




