第二話 避難所の子供たちⅠ
「チミ、名前は?」
受け入れてすぐに彼が問う。
「えっ……? えっと、さ……斎藤だ」
一瞬だけ焦ったが、紫苑はすぐに自分の一つ前の出席番号を持つクラスメイトの名字を告げた。
「斎藤?」
それになんの意味があるのかわからなかったが、奏雨は紫苑の言葉をオウム返しにして聞き返す。紫苑は偽名がバレたのかと思って、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「…………で、下の名前は」
だが、奏雨が深く問いかけてくることはなく──フルネームを名乗ることを求めて紫苑のことを追い詰める。
「斎藤だけでいいだろ」
下の名前はいい案が出てこなかったから誤魔化した。偽名とはいえ、これから何度も呼ばれるのならできればじっくりと考えたい。
奏雨はそんな紫苑を訝しそうに見下ろして、「あっそう」と面倒くさそうに言葉を吐いた。
「じゃあ斎藤、今持ってる荷物を地下の部屋に置いていくといい。場所は……十号室が空いてるから勝手に使うこと。終わったら上がってくるんだね」
「わかった」
紫苑は頷き、ロビーのすぐ傍にある階段から地下の方へと下りていく。地下だから薄暗いと思っていたが、太陽光が入っているのかと思うくらいにその階は明るかった。
窓なんてないのに、つけられた電球が地下の廊下を温かく照らしている。紫苑はきょろきょろと辺りを見回して、十号室という番号がつけられた扉を開けた。
その部屋は、馬鹿にしているのかと思うくらいに子供らしい部屋だった。
壁紙は子供が好きそうなキャラクターもので彩られており、圧迫感を感じてとてもじゃないがいい部屋とは言い難い。奥に置いてある二段ベッドの掛け布団の色は青色で、子供はこんな部屋が好きなのだろうというやっつけ仕事のような思惑が見え隠れしていた。
「…………」
紫苑は思わず無言になって、持っていた荷物をどさりと落とす。二人部屋のようだがこの部屋を使っている人物は他には誰もいないようで、紫苑はほっと息を吐いた。
気味の悪い部屋だがそれだけは恵まれていたようで。紫苑は軽く首を回して十号室を後にした。
恐る恐る階段を上がってロビーを覗くと、奏雨がモップをロッカーにしまっているところだった。
その大きな背中をじっと見つめて、紫苑は奏雨の背後に回る。奏雨は紫苑の方を一切見ず、上がってきたことにも気づかずに振り返って大声を出した。
「ははっ……!」
馬鹿みたいに驚いて騒いだ奏雨のことがおかしくて、紫苑は思わず笑みを零す。多少は驚くと思ったが、まさかこれほどとは思いもしなかった。
「ちょっ……! 何笑ってるんだいチミ! 失礼なヤツだね! こらっ! このクソガキぃ!」
「うるせぇデーブ! あははっ! あははははっ!」
本当に心から笑えるほど、奏雨は酷い顔をして紫苑を怒鳴り飛ばす。怒鳴れば怒鳴るほど逆効果なのに、奏雨はそんなことにさえ気づかずにずっと眉間に皺を寄せていた。
「いい加減にしないとつまみ出してやるからな! 警察にだって通報してやる! はんっ、謝ったって許さないんだからな! 斎藤!」
「ふぅん。大人気ねぇ〜」
紫苑はさっと笑みを消し、顔を真っ赤にして自分の感情をぶちまける奏雨を見上げた。
これほどまでに教育が下手な人間を見たことがない。ある程度世間を知って地獄を見てきた紫苑だからわかることだが、奏雨はとことん〝親〟に向いている人間ではなかった。
「はぁっ?! なっ、生意気なチミが悪いんだよっ!」
「はいはい。悪かったって」
「ふんっ、謝れるだけ可愛いモンだけどね。ついて来なよ。一応中を案内してやる」
「わかったよ」
奏雨は子供に舐められやすい外見のせいか、異様にキレやすい。こんな人間が養護施設の施設長をやっているなんて世も末だ。
紫苑は唇を尖らせて、ロビーの奥の自動ドアを開ける奏雨についていく。中には白い壁に囲まれた巨大な部屋があり、一見何かの実験施設に見えるのに当たり障りのない平凡な家具がリビングのような印象を紫苑に抱かせていた。
本当は別の目的があって作られたのに、用途を変えて再利用しているような──そんな部屋だった。
「ここは食堂だよ。ここに来れば基本的に誰かはいる。何か困ったことがあったらボクじゃなくてここにいる誰かに聞くんだね」
「誰もいねぇじゃん」
「チミがイレギュラーなんだよ! みんなは今、がっ、こ、う、だ!」
「うるせぇ」
わざとらしく手で耳を塞ぐと、奏雨は再び予想以上に怒鳴ってきた。ここまで盛大に怒鳴られると、怖いというよりも面白い人間だなぁという思いの方が強くなる。
紫苑は奏雨のことを軽く無視して、案内されても上の空で聞くことにした。奏雨は適当に相槌を打たれていることにも気づかずに、紫苑が黙ったのを見て得意気に語り始める。そんな姿が紫苑には滑稽に映っていた。
「ま、中は大体こんな感じだよ」
一通り説明を終えてロビーに戻った奏雨が言う。紫苑は頷き、「わかった」と答えた。
「で、チミ。本当に警察に言わなくていいのかい?」
今度は面倒くささの欠片もなく問いかけた奏雨に向かって一つ頷く。奏雨は紫苑の頑固っぷりに呆れ果ててため息をついたが、それ以上は何故か追及してこなかった。
「わかったよ。面倒事はごめんだから、余計なことは一切しないこと。したら首をちょん切るよ」
どこの山姥の台詞だよ。紫苑はそう思って唇を曲げ、適当に返事をした。
それですべてが済んだから、紫苑はほっと息を吐く。奏雨があまり人に興味がなくて本当に良かった。奏雨のような、仕事をまともにしないような人間が施設長で本当に良かった。
これでいい。ここがいい。
紫苑は胸にいっぱい空気を吸い込んで、ゆっくりと吐く。そうして奏雨から視線を逸らし、食堂を出た。奏雨は「どこに行くの」と問うこともなく、紫苑は気ままな心で施設からも出る。帰る場所を確保した紫苑は、養護施設の坂道を下った。
二年前、あのアリアとアイラが通った道を紫苑も歩んで──彼女たちと〝同じ〟になることを願った。
まだ昼になる少し前。妖怪なんてまだ出てこない時間帯だから気軽に紫苑は進んでいける。
ここからどこに行ってみよう。今ならどこにでも行けるから、紫苑は心を弾ませる。アリアとアイラが戦う姿はまだ見れないから、紫苑は蒼い蒼い空を見上げる。
「…………雑居ビル、地区」
ここしか考えられなかった。
行ったらまた、遥のような《グレン隊》の構成員に出逢うかもしれない。それでもそこ以外に紫苑が現状心惹かれる場所はない。
恐ろしいのに、恐ろしいことをするような人間になりたかった。妖怪を殺せるような力が欲しかった。妖怪を殺せるような力があれば、あの日両親を救うことができたのだと──紫苑は心から思って泣きそうになった。
「…………」
無言で流れた涙を拭う。心を殺して、鬼になって、そうして強い人間になろう。
アリアとアイラのような化け物に。炎竜神炬のような化け物に。
「…………よし」
そう言って、紫苑は自分の両頬をぱちんと叩いた。そのまま走って坂道を下り、目の前にバス停を見つけて進路を見る。
お金を持ってくるのを忘れた紫苑は、そこから走って駅前を目指した。走っていると余計に興奮する。興奮するからまたあの場所に行ける。
たいした目的がなかった前回とはもう違う。強くなりたいと本気で思ったから走り出せる。
「うぉぉぉぉ!」
意味もなく叫び出した。何故だかそういう気分だった。
辺りは田んぼで誰もいない。山沿いにある田舎道を走り続けているだけだから景色にたいした変化はない。
休む暇もないままマラソンをしている気分だった。休まなかったから一時間で駅前につき、紫苑は何度も呼吸を繰り返して広場のベンチの一つに座る。
辺りを一応警戒して、二年以上前の自分を知っている相手がいないことを確認して、紫苑は深く息を吐いた。
──行こう。
今度はタマモなしで雑居ビル地区の大通りへと向う。駅前と雑居ビル地区の明確な区切りは一切なく、北東に踏み込んで空気が変わったのを肌で感じた。
一般人は絶対に来ず、《グレン隊》のナワバリだからか《風神組》の連中も来ない。ここにいるのはよっぽど変わった人間か、ここに店を持っている人間か、はぐれ者くらいだろうか。
「あぁん? なんだお前」
きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、知らない少年の集団が大通りの隅でたむろっていた。
「……お前らこそなんなんだよ」
面倒そうだ。すぐにそう思って、紫苑は義姉の真菊と同じ柊命中学校の制服を見やる。
「小学生がこんなとこ来てんじゃねぇーぞ」
「……お前らだって来てんじゃねぇかよ」
「おい、一緒にしてんじゃねぇぞ」
「……そっちこそ一緒にすんなよ」
彼らと自分はたいして年が離れていないと思ったが、よく見ると自分よりもガタイがいい。まだ成長期が来ていない紫苑は、成長期真っ只中の彼らを前にして息を飲んだ。
「はぁ? お前、誰に向かってんなこと言ってんだよ。俺らはあの魔王の手下だぞ?」
すると、少年の取り巻きの少年たちが笑い出した。紫苑はその笑い声にぞくりと背筋を震わせて、絶対にそんなことはないのにと思いながらも集団の目の恐ろしさに足を竦ませる。
「……嘘だ」
声を振り絞って反論した。紫苑は昨日、魔王と呼ばれる炬の一味──《グレン隊》の本拠地に足を踏み入れたのだ。
少数精鋭の《グレン隊》の構成員が全員あの家に住んでいることは有名な話で、だからこそ彼らのような人間がいたらすぐに気づくし「そうではない」と素直に思える。だから、彼らのような人間が本当に炬の手下ではないと断言できる。なのに少年たちは、ゲスのような笑みをまったくと言っていいほど崩さなかった。
「俺は魔王のところに行ったことがある。だからお前らが嘘ついてるってわかんだよ!」
その笑みを凍らせて、紫苑は一瞬だけ快感を覚える。だが、立ち上がった集団から発せられる狂気を前にして今度は自分の足が凍った。




