第一話 陰陽師の子供たちⅤ
式神の家にいても朝日は昇る。この家にはどこにも時計がなく、紫苑は時間がよくわからないままに高く昇った太陽を見上げた。
「主君、寝坊ですよ」
「行かねぇもん、学校」
「不規則な生活です」
「……別にいいだろ」
タマモは何度かそれっぽい説教を述べていたが、所詮はずぼらな紫苑の式神だ。ある程度文句を言えば多くを言うこともなく、紫苑がいる部屋にできたての朝食を運んでくる。
「今日の朝ご飯はおむらいすなのです! 紫苑様、いっぱいいっぱい食べてください! ですっ!」
コミュ障の春を主に持つ──彼によく似た式神のツクモは、よくわからない日本語で駆けつけてきてオムライスにケチャップをかけた。
「おい、かけすぎ」
「はわっ?! す、すみません! ツクモはけちゃっぷがすっごく大好きで! ですっ! えっと、えぇっと〜! はわわぁ〜!」
「主君、面倒なので文句は言わないでください」
「……わかったよ」
何故か性格に面倒くささが増したような気がするツクモを数歩下がらせる。よく見ると撫子色のふわふわとした長髪をぺたんと萎らせ、青いつぶらな瞳はうるうると潤んでいた。
しばらく会っていなかったせいか、余計にツクモを面倒くさいと思った紫苑はわざとらしくため息をつく。たったそれだけなのにツクモは過剰に受け止めて、「うぅっ」と今にも泣きそうになりながら背中を丸めた。
「……お前、よくあんな奴と生活できるな」
「主君の扱い方が下手くそなんですよ。主君、春様とは上手く共存できているではありませんか」
「できてたら家出なんてしてねぇよ」
「…………。それもそうですね」
紫苑の傍らに座り、朝食を貪る主を見てタマモは一瞬瞳を閉じる。その動作になんの意味があるのか紫苑は知らないし知るつもりもまったくなかったが、何故か心が枯れたような感覚に陥ってスプーンを動かす手を止めた。
「……主君?」
「もういい」
「……嘘つき。食べ盛りでしょう」
「…………」
ここまで逃げてきたのに、何故か心はまったく晴れない。どんな顔をすればいいのかも、何故かまったくわからない。このまま自分がどこに行くのかさえもわからなくなって、紫苑は無意識のうちに唇の皮をびりびりと剥いた。
オムライスは仕方なく完食したが、膝を抱えたまましばらく言葉を失ってしまう。喋ればあんなに騒がしいツクモの声が聞こえなくて、紫苑は不意にタマモに尋ねた。
「ツクモに口止めはしたのか?」
「……一応。ですが、あの子は口が堅くないですよ」
「……ここも長くいられないか」
「じゃあ、行きますか?」
どこに──そう言いそうになって、陽陰町を頭に浮かべる。過疎化が進むあの村に身を置ける場所なんてなく、ゴロゴロと色んなものが転がっているあの地に紫苑は思いを馳せる。
「……行けねぇよ」
だが、あの町には絶対に住めない。紫苑は二年前、あの百鬼夜行の日に死んだことになっているのだ。
無理を言って旧姓で学校に通っているが、それは養父の優しさであって紫苑のわがままだ。死人のように暮らしていろと養父の知人からは文句を言われるが、そんな紫苑を養父はずっと守ってくれている。
養父の知人に何故そんなことを言われなければいけないのかわからなかったが、この家を支えているお金をその知人が出しているせいで紫苑もうまく言い返せなかった。それともう一つの理由が紫苑を縛った。
「偽名を使えばいいんですよ。主君、逃げたいんですよね? 生きたいなら手段を選んでいる場合ではありませんよ」
「……着替え」
「ここにあります」
差し出された自分の私服を一瞥し、紫苑はすぐにそれに着替えた。タマモはその速さに目を見開き、外へと駆け出していく主君の後を追いかける。
「タマモ、前に行け」
「わかっています」
タマモに先導してもらい、森を突っ切って抜け出した紫苑が見たのはよく知る村の風景ではなかった。
高い町の建物が遠くの方に建っている。人口密度が村よりも高い陽陰町はほんの少し空気が濁っているが、それが排気ガスなのか妖物の瘴気なのかはわからなかった。
「私たちの家から抜け出して、この地でちゃんと暮らせますか?」
「一人暮らしか?」
「……小学生が何を言ってるんですか」
そう言ってタマモが指を差した先にあったのは、クリーム色の壁をした施設だった。紫苑はそれをまじまじと見上げ、やがてその建物の正体を知る。
「…………養護、施設……?」
坂道の頂点にあったその建物は、多翼とモモが一時期暮らしていたという養護施設だった。
《グレン隊》にいた人工半妖のアリアとアイラもここにいて、百鬼夜行を境にこの施設の管理体制は大きく変わっていったのを紫苑は養父から聞き出していたから知っている。
ごくりと唾を飲み込んだ紫苑は、あの頃の面影がまったくないであろうそれを舐めまわすように見た。自分が出てきた森の場所からこの坂道の頂点まで──いや、この坂道全体に染み込んでいると思われる血溜まりを想像してぞくりと背筋が震える。
だが、すぐに考えを改めた。血溜まりなんて、陽陰町だったらどこに行っても染み込んでいる。
あの日逃げ遅れた紫苑はちゃんと見ていたのだ。
とてつもない死体の数々と、消えなかった赤黒い血溜まり。隣にいた春の手を握り締めて、強くあろうとして歩いていて、そうして今の養父である家主に出逢った。
「主君。私は、これでも一応主君の幸せを願っています」
振り返ると、タマモがじっと紫苑のことを見上げていた。
「ここで、ゼロからやり直しますか?」
「……ゼロ、から……」
やり直せるかは、まだわからない。本当にここでいいのかも、まだわからない。だが、ここしかないのもわかっていた。
式神の家はいつかはバレる。バレたらツクモが連れてくる可能性だってある。鉢合わせたら、絶対に連れ戻されてしまう。
「……俺は、しばらくあいつらから離れたい」
「はい」
「……あと、もう一度、人工半妖の妖怪退治を見てみたい」
「それは何故です?」
聞かれると思っていた。だから紫苑は頷いて答えた。
「──俺はずっと、妖怪をぶっ殺したかった」
妖怪を殺してはいけない。だが、この町の妖怪は理性を失っているから襲ってくる。だから早く帰ってこい。妖怪を見ても見て見ぬ振りしろ。妖怪は、殺すべきではなく守るべき存在だ──。それが、紫苑の今の家の信条だった。
陰陽師なのに変わっていると思う。全員が親を妖怪に殺されたのに、春でさえそれを肯定する。
この町の妖怪は理性を失っているから仕方がない。そうさせたのは陰陽師だ。陰陽師が何もしなかったら妖怪も何もしなかったのだ。
そう養父から教わったが、紫苑は心の底から納得したわけではなかった。現に、昨日見たアリアとアイラの残酷な戦い方に恐怖しつつも興奮したのは確かだった。尊敬もした。
「俺にあの家は合わなかったんだよ」
「……そうですね」
「だから、うん、そういうことだから……入れてもらえるか、聞いてみる」
上手く言葉にできなかった。ずっと窮屈で、度胸試し気分で《グレン隊》と人工半妖に接触し、ようやく指針を決めて自分で動き出せたような気がする。
「ちょっと、逃げてみる」
「恰好いいですよ、主君」
逃げてもいいって大人たちはよく言っていた。逃げる勇気を持つことも大事だって言っていた。
紫苑は頷き、一人で養護施設の自動ドアの前に立つ。ロビーらしき場所にいて紫苑に気づいたのは、紫髪の長髪があまりいい印象を持てない太った大きな男だった。
「うべっ」
「……なんだい、チミ。今は学校だろ?」
不審そうにそう言って、持っていたモップを置いた男は紫苑の目の前に立つ。改めて前に立たれると本当に大きな男だという印象しかなく、紫苑は開いた口を塞ぐことに苦戦した。
「……えっと、施設長いますか?」
昔の施設長は、老人に近い年齢の男だったらしい。そいつが諸悪の根源で、そいつがいなかったら人工半妖なんて生まれなくて──そこまで思って、紫苑はすぐにアリアの言葉を思い出した。
『もっともっと頑張ろう。おじちゃんや、こまっちゃんや、あこりんや、きーくんの名誉の為に……まだ、頑張らなくちゃ』
諸悪の根源だったかもしれないが、アリアとアイラは彼らの名誉を守る為に戦うと言っていた。
紫苑がそう認識している以上、彼らの名誉は二年経った今でも回復していない。紫苑は唇を大きく曲げて、「ボクが施設長の泡魚飛奏雨だよ」と言った大男から距離を取った。
「お前が?!」
「お前とは失礼なクソガキだね。ふんっ、つまみ出してやってもいいんだぞ」
「あっ、いや……! 嫌だ! 俺は家出してきたんだよ! だからここに入れてもらわなかったら死ぬ!」
「ここは家出をした人間の駆け込み寺ではないけどね……。あぁ面倒くさい。こういうクソガキが来るから施設長なんて嫌だったんだよ……」
奏雨はぶつぶつと呟いて、面倒くさそうに顎髭に触れる。そうして一向に引きそうにない紫苑につき纏われて、疎ましそうに見下ろした。
「親に言うよ」
「本当の親はいない」
「…………義父かなんかが親かい?」
「そうだ。そいつと馬が合わなくて、養ってる人数も多いから四六時中働きに出てるし知らない人から援助も受けてる。最悪の家庭環境だから、逃げてきた」
奏雨は「ふぅん」と相槌を打った。紫苑の頭をぽんと撫で、熱くて、厚くて、重たい手を退ける。
「そういうことなら入れてあげられるけど、警察に通報もするからね」
「警察?!」
一気に心臓が縮み上がった。
紫苑は死んだとされている人間だ。養父の知人に言われているから──そういう理由だけで紫苑が死んだふりをしているわけではない。
「……頼む、言わないでくれ」
警察に就職した親戚に、生存確認をされたくなかった。祖父母に勘当した孫が生きていることを、知られたくなかった。
紫苑の表情は奏雨の行動を阻止できたらしく、奏雨は面倒くさそうにこの世で一番厄介な子供だと思われる紫苑のことを受け入れた。




