第一話 陰陽師の子供たちⅣ
タマモに頼んで持ってきてもらったランドセルを背負って、紫苑は一人で電車に乗り込む。町内出身者の紫苑だが、今は町外に住んでいるせいでこれに乗らないと家に帰ることができなかった。
果てしなく高い山々に囲まれた陽陰町。それと町外を繋ぐ唯一の交通手段である小さな電車は、今日も数人の人間が乗っている。長い長いトンネルを通って開けた世界は紫苑にとって見慣れたもので、紫苑は唇を結びながらその先を見据えた。そして、陽陰町を囲む結界から脱出した気配を察知した。
妖怪が住みついた陽陰町の外に悪しき妖怪が出ないように。そういう意味を込めて陰陽師が張った結界だが、それは随分と前から意味を成していない。紫苑は地平線に沈みかける夕日を見、黄昏時が終わるのを電車の中で息を潜めて待っていた。
夕日が沈めば、もう夜中。そのことをわかっていた紫苑は隣駅に着いてすぐに下りる。陽陰町と違ってかなりの田舎であるこの村には、街頭がぽつぽつと立っているだけで辺りは夜目が利く紫苑でさえ暗いと感じるほどだった。
「紫苑!」
名前を呼ばれて視線を向けると、そこには中学生になったばかりの義姉、真菊が立っていた。
真菊は紫苑が来年通う予定の柊命中学校に通っており、制服もそこのものを着用している。彼女は何故か心配そうに紫苑を見ており、駆け寄ってきてかなり強く抱き締めてきた。
「うわっ、ババァ! てめぇ何するんだよ!」
「心配したんだから、紫苑! どうしてこんな時間になるまで帰ってこなかったのよ!」
「こんな時間ってまだ七時だろ! 離せよバーカ! バーカ!」
「黄昏時は過ぎてるのよ?! あの町の妖怪は理性を失っているんだから気をつけなきゃ!」
離れようと何度も藻掻いて、ようやく離した真菊をきつく睨む。紫苑は舌打ちをして真菊を蹴り飛ばし、逃げるように家へと走った。
家へと続く帰り道は、駅を出てすぐに見える脇道に逸れ、そのまま坂道を上り続けるだけで辿り着ける。とても近いのに、その坂道だけが異様に長い。振り返ると、真菊が紫苑を追ってくれるのがよく見えた。
「紫苑! 待ちなさい!」
「ぜってぇー待たない!」
坂道だが、ほとんど山道のような道を二人で走って。十分もかけてようやく辿り着き、紫苑と真菊はゼェゼェと乱れた息を整えながらだだっ広い野原に寝そべった。
「紫苑!? 姉さん!? どうしたの、一体何があったの?!」
「何もねぇよ!」
「何もないわよ」
倒れた二人に向かって古ぼけた屋敷の中から駆けつけてきたのは、紫苑の双子の兄の春だった。
春はあの後も真面目に授業を受けていたのだろう。一卵性双生児だというのに紫苑と違ってそのまま真っ直ぐに帰ってきて、宿題をしていたのか鉛筆を片手に持っていた。急に飛び出してきたからか、髪がいつも以上に乱れていた。
「…………チッ」
舌打ちをし、真菊と春を置いていくように紫苑は家である古ぼけた屋敷の中へと向かっていく。我が家じゃない。実家でもない。そんな家に真っ直ぐに紫苑が入っていったのは、玄関ではなく縁側だった。
靴を乱暴に脱ぎ捨てて、広大な居間に座っている義妹の美歩、義弟の多翼、義妹のモモを一気に一瞥する。
「おかえりなさ〜い!」
そう言ったのは多翼で、紫苑は何も言わずに卓袱台の前に座る。同じく卓袱台を囲んでいた美歩とモモも「おかえりなさい」と言葉を続けるが、ここを本物の我が家だと思っていない紫苑は誰の言葉にも「ただいま」を言おうとしなかった。
真菊も、春と紫苑も、美歩も、多翼も、モモも、本来はこの家の人間ではない。二年前の百鬼夜行。その時に両親を亡くした陰陽師の子供たちが、ここにいる六人の少年少女たちだった。
真菊、そして春と紫苑は百鬼夜行の直後に直接ここの家主に拾われた。美歩はその直前からこの家にいて、多翼とモモはその数日後にあの施設から引き取られていたことを紫苑はちゃんと覚えている。
本当の家族でも、偽物の家族でもない。そう強く思うから、紫苑は何も言わないし真菊のことを「姉さん」と呼ばない。ここにしか帰る家がないから仕方なく帰っているというだけで、本当はどうしたいのか紫苑自身未だに心の整理をつけられずにいた。
二年経った今でも悩んで、なんの決断もしようとしないで、意地になって、反発して、どんどんどんどん機嫌が悪くなっていって、気づいたら〝不良少年〟という烙印を周囲の人間から押されていた。そんなある日《グレン隊》の噂を聞いてしまい、北東に例の妖力を感じ、これしかないからと現実逃避をしようとしたのかもしれない。
「紫苑に〜ちゃん?」
消えそうな声で多翼が紫苑の名前を呼んだ。多翼はじっと紫苑のことを見上げており、そのつぶらな瞳に紫苑は死ぬほど胸が苦しくなる。
「……んだよ」
だからこの家は大嫌いだ。紫苑の機嫌が悪いことを敏感に感じ取ったのか、モモは怯えた顔で美歩の真後ろに隠れ始める。
真菊と春も縁側から戻ってきて、六人で同じ卓袱台を囲んで、紫苑は改めて目の前に並べられた晩御飯を見た。
炊かれた米。異様に具の少ない薄味の味噌汁。たくあんに、その辺で採れた山菜の天ぷら。そして大量の生卵が視界に入った。
今日も真菊が作った晩御飯は冷めている。全員、紫苑が帰ってくるのを待って晩御飯を冷ましてしまったようだ。
「勝手に食ってろよ」
それを見ていつもそう思う。いつもは心が痛んで言えなかったのに、今日ばかりは言いたくて思わず声に出してしまった。
「ダメよ。六人全員が揃ってないと美味しくないでしょう?」
それが一番の年上である真菊の言い分だった。紫苑はその言葉にも息苦しさを感じ、「いただきます」も言わずに米を口内に掻き込んでいく。
「紫苑! 『いただきます』ってちゃんと言いなさい!」
真菊はそうやって叱咤するが、紫苑はまったく聞く耳を持たなかった。そのまま物凄い勢いですべての晩御飯を口内に掻き込み、箸を置いて居間から逃げ出していく。
あの場には不穏な空気が漂っていた。苛々する。息苦しい。心が詰まって吐きそうになる。いつものように逃げ出して、ここの家主が所有している野原に紫苑は飛び込んだ。
うつ伏せから仰向けになり、満天の星空を紫苑色の瞳に目一杯入れる。真っ暗な闇の中に光る無数の星々を見上げても、自分の悩みが〝ちっぽけなもの〟だと思ったことは一度もなかった。
どうしてこんなに窮屈なんだろう。
どうしてこんなに生きづらいんだろう。
二年前の百鬼夜行。その日を境に紫苑の中のすべてが変わっていった。人生も大きく変わっていった。
取り戻そうと思っても絶対に取り戻せないほどに大きなものをあの時失い、そうして得たものは何もない。
ずっと暗闇の中で生きてきた。今いるこの場所も暗闇だ。
学校にも、仮の家にも、心休まる場所なんてない。このまま同じ時が進むのなら、いつか自分は死んでしまうとさえ思う。
いっそのこと、逃げ出そうか──。
不意にそのことが脳裏を過ぎった。この家に心残りなんてまったくないから、逃げ出そうと思えばすぐに逃げ出せる。
「……ッ!」
行く宛なんて紫苑にはない。親戚はいるが勘当されたせいで帰れない。
だったら死ねばいいのか。いや、自分はまだ死ぬわけにはいかないから。生きてやらなければならないことが自分にはあるから、紫苑は起き上がって生きていく道を考えていく。
このままだったら心が死ぬ。ここじゃない場所で生きていく為に、紫苑はタマモを呼び出した。
「お呼びですか、主君」
「今すぐ家出したい」
「何を急にバカなことを……。行く宛なんてどこにもないですよね?」
「だからしばらくお前のとこに泊まらせろ」
そう言ったら、タマモは驚いたように目を見開いた。
「ツクモもいますよ?」
「それになんの問題があるんだよ」
「別にないですけど、いいんですか?」
「いても別に構わねぇだろ」
キレ気味に言うとタマモは何も言わなくなった。紫苑はすぐに立ち上がって家に戻り、今度は全員が見ている縁側からではなく玄関から中に入る。
最早縁側が玄関になっているこの家の玄関は寂れており、紫苑は埃っぽいそこから逃げるように長い廊下を小走りで進んだ。
二年前家主に与えられた自分の部屋は、たいした私物も入っていないのに無駄に広い馬鹿みたいな大部屋だ。タンスの中にもたいした服は入っていない。それでもすべてを引っ掴み、リュックの中に詰め込んでも入らなかったものは全部後から来たタマモに持たせた。
「服だけでいいんですか?」
「学校なんかもう行かねぇ」
「何故ですか」
心が擦り切れるような場所ならば、逃げてもいい。時々流れてくるラジオがそう言っていた。
だから紫苑は二年前にゴミの中から拾ったラジオを片手に持ち、居間に向かって無言の食卓を囲む五人の元へと行く。
「し、紫苑? 何その荷物、どこに行くのよ!」
「家出する。宛はあるから探すな」
宛と言っても苦渋の決断だった。それでもそこしか思いつかないから、紫苑はすぐに玄関へと駆け出して靴を履く。
「紫苑! 待って! どうして行っちゃうの!? 行かないで紫苑!」
その過保護な束縛が苦しくて、死んでしまいそうになる。だから紫苑は逃げ出した。
振り返ると、真菊が走って追いかけてくる。だだっ広い野原をもう一度二人で走り回って、紫苑はタマモが駆け寄って来るのを見た。
「タマモ!」
呼びかけて、タマモが森の中に入っていくその後ろ姿を追いかける。真菊を森の中で振り切って、タマモの背中だけを見ていた紫苑は空間が急に開けていくのをこの目で見た。
そこは、タマモとツクモ──末森家の式神が暮らす式神の家だった。
歩幅を緩め、紫苑はじっと空間の奥に立つ小さな家を見上げる。童話の中に出てきそうな簡素な家だが、その造りが今の紫苑の心に優しく染みる。
それだけなのに泣きそうになった。一人でいれる場所じゃなくていい。一緒にいて嫌な人間がいないこの場所が、紫苑の今の居場所だった。




