44.軍略盤に熱中しすぎた
その日の午前、一般科の講義では王国における過去の戦争と、そこから発展した軍略について扱われていた。
内容自体は一般科向けに簡略化されたものだったが、教授が教材として紹介した一品に、エレナとリリアナは揃って目を留めた。
軍略盤
実際の地形や補給路、砦、兵種の特性を考慮しながら盤上で兵を動かす戦略遊戯だ。元は軍人や騎士の戦術教育用だが、現在では士官を目指す男子生徒たちの娯楽としても親しまれている。
一般の令嬢が触れる機会はまずない。けれど二人にとっては、酷く懐かしいものだった。
講義が終わるなり、リリアナが隣へ顔を向ける。
「懐かしくない?」
「……すごく懐かしい」
幼い頃、ノワール辺境伯領で騎士たちが非番の日に遊んでいたのを、二人はよく囲んで見ていた。最初こそ駒の動かし方を教わる程度だったが、いつしか大人たちに混ざって対局するようになっていたのだ。
「久しぶりにやろうよ!」
「いいね!」
昼休みに差し掛かると、二人は教材として保管されていた一式を借り受け、午後の空き時間を利用して人の少ない談話室へと向かった。
◇ ◇ ◇
盤上には小さな兵士の駒が並び、中央の平地を挟んで森や丘、奥には砦と街道が配置されている。
「ここ取るね」
「そこ行くんだ。じゃあ、こっち」
軽い調子で駒を進めるリリアナに対し、エレナも迷いなく手を動かした。一見すればリリアナ側が押し込んでいるように見える。
「それ取ったら、後ろ空くよ?」
「知ってる。空けてるから」
「……あー、そっちか」
「遅い」
即座に返されたリリアナは苦笑した。
やり取りこそ普段通りだが、手つきに迷いはない。兵を囮にして相手を誘導し、隙を突いて別の地点へ戦力を回す。守る場所と捨てる場所を瞬時に見極め、数手先まで読み合っていた。
そこへ、偶然通りかかったのがアレクシスとセドリックだった。
「……お前たち、何をしている」
「軍略盤ですか。お二人で?」
不意に聞こえた低い声に振り返ると、アレクシスが不審そうに眉をひそめ、セドリックが驚いたように目を丸くしていた。授業で出てきたから久しぶりに遊んでいたのだと説明すると、セドリックは納得したように頷き、そのまま興味深そうに盤面へ視線を落とした。
「……それ、取らないのか?」
アレクシスが短く問う。
「取らない。取ったらリリが喜ぶから」
数秒沈黙したあと、アレクシスは納得がいったように「……なるほど」と呟いた。セドリックもすぐに察し、エレナが相手を中央へ誘導しようとしていることに気づく。
「でも遅いよ。その前にこっち通すから」
そう言ってリリアナが指し示したのは、自陣の砦を完全に捨てる大胆な手だった。
「砦を捨てるんですか?」
「守るより取らせた方が楽でしょ?」
「……面白いですね」
セドリックの目が楽しそうに細まる。エレナが「殿下たちもやる?」と視線を向けると、アレクシスもまた、盤面から目を離さないまま短く応じた。
「……やる」
◇ ◇ ◇
組み合わせは、エレナ・アレクシス陣営 vs リリアナ・セドリック陣営。
初めは軽い対局のつもりだったが、数手進む頃には四人とも完全に勝負へ没頭していた。
アレクシスは無駄手を打たず、最小限の動きで相手の選択肢を確実に削っていく。セドリックは地形や補給路、残存兵数を細かく計算し、盤面の穴を緻密に塞ぐ。
対するふたりも引けを取らない。
「ここ、全部捨てる」
「……正気か?」
「うん。こっちを取れるから」
エレナの一手は大胆だが決して無謀ではない。普段は考えるより先に動くことの多い彼女だが、興味を持った対象に対しては、驚くほど冷静に損得を弾き出す。
一方のリリアナも、軽快な口調のまま敵陣へ巧妙な罠を仕掛けていた。セドリックがしばらく盤面を見つめ、ふと笑みを浮かべる。
「……なるほど、最初から殿下たちをここへ誘い込んでいたんですね」
「今気づいた? 遅いね、セドリック様」
「味方にまで隠されているとは、少々悔しいですね」
そう言いながらも、セドリックは即座にリリアナの狙いに合わせた援護の手を打つ。
形勢は二転三転し、誰かが仕掛ければ別の誰かが裏をかく。白熱するにつれてアレクシスの口調も崩れ、普段の省エネな佇まいからは想像もつかないほど熱の籠もったやり取りが交わされていた。
その間、廊下の向こうで午後の講義開始を告げる鐘が響いたが、盤上の戦場に集中しきった四人の耳には、何一つ届いていなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、講義室ではシャルロットとイザベラが頭を痛めていた。
講義が終わり、鐘が鳴り響いても現れなかった二人の空席。さすがに何かあったのではと心配になり、二人はアカデミー内を探し回っていた。
やがて、午前中にリリアナが「教材を借りる」と言っていたことを思い出し、近くの談話室の扉を開けた瞬間——二人はその場に凍りついた。
「そこ取ったら中央空くよ」
「空けてる。殿下、次こっち」
「待て。それだと逃げ道が残る」
「リリアナ嬢、こちらを一つ下げましょう」
息を詰まらせるほど真剣な顔で、盤面を睨みつける四人。
自分たちが心配して探し回っていたことなど露知らず、扉が開いたことにすら気づいていない。
「……エレナ、リリ」
シャルロットの静かな声に、ようやくエレナが顔を上げた。
「あ、シャル。ベラも、どうしたの?」
「どうしたの?じゃない!!」
シャルロットの雷が落ちた。
「あなたたち、今日の午後の講義は!?」
静まり返る談話室。
セドリックがゆっくりと壁の時計を見上げ、全員の視線がそこへ吸い寄せられた。
「……終わってる」
「……嘘」
講義の終了時刻をとうに過ぎていることを知り、愕然とする二人。セドリックも珍しく目を瞬かせ、アレクシスに至っては言葉を失って気まずそうに視線を盤面へ逃がした。
「授業を丸ごと忘れて何をしているの!」
「……ごめんなさい」
即座に頭を下げるエレナとリリアナ。続けてイザベラが、静かな威圧感を漂わせてアレクシスへ向き直る。
「……殿下。生徒の模範となるべきお方が、講義を忘れてゲームに夢中になっていたとは、どういうことですか?」
「……悪かった」
普段なら言い返しそうな王太子が素直に謝罪したため、エレナたちは驚きに目を丸くした。
「セドリック様もです。止めるどころか、一緒になってサボるなんて」
「……返す言葉もありません」
完璧な側近までもが素直に項垂れる姿は、なかなか見られない壮観なものだった。
◇ ◇ ◇
そこへ、次の予定に戻ってこないアレクシスとセドリックを捜しに来たルシアンとカイが通りかかった。
説教されている四人の異様な光景にカイが低く眉をひそめる。
「授業丸ごと……お前らはともかく、なんで殿下たちまでサボっているんだ?」
「……うるさい」
「今回はぐうの音も出ませんね……」
しかし、説教の横でルシアンの視線が途中で止まった軍略盤へと向いた。盤面を数秒見つめたあと、自然な足取りで近づいていく。
「……ここで止めたのか。赤側が押されているように見えるが、中央を取り戻せばまだ巻き返せるな」
「そこは罠だ」
「だろうな」
何気なく会話を交わし始める二人。カイも腕を組みながら身を乗り出し、盤面の一点を指した。
「右の騎兵を進めて、先に砦を落とさせれば済む話だろう」
「それでは補給路を切られる。落としたところで孤立するぞ」
「切らせればいい。落とした後で取り直せばいい話だ」
「……相変わらず乱暴な見立てだな。だが、中央の部隊を囮にして引きつければ、筋自体は通るか」
二人とも軍略盤の性質と戦術を熟知しているだけに、盤面の状態を把握するやいなや、外から盤面を分析する議論へあっという間に没頭し始めてしまった。
「……あなたたち」
シャルロットの冷ややかな声が響く。
「今、講義をサボった四人を怒っているところなのですが」
「分かっている。だが、これは面白い」
「おれ達はサボっていないぞ」
「そういう問題ではありません!」
再び談話室にシャルロットの怒声が響き渡り、その横でエレナとリリアナは思わず吹き出した。
少し前までなら、こんな油断した姿を絶対に見せなかったであろう。完璧な王太子も、余裕ある側近も、無表情な公爵令息も、無骨な騎士も、いまや年相応の青年らしい顔を見せている。
「何笑ってるの、二人とも!」
「なんでもない!」
「絶対何かあるでしょう!」
結局、その日一番長く説教を受けることになったのは、元凶であるエレナとリリアナだった。




