25.完璧な淑女の弱点
「殿下、こちらの件ですが――」
「後で確認する」
最後に声をかけてきた学生へそう答え、アレクシスはようやく一人になった。
講義が終わってからというもの、廊下へ出るたびに質問や相談で誰かしらに呼び止められていた。王太子という立場上慣れてはいるものの、溜息のひとつも吐きたくなる。
静けさを求め、すぐに控室へ戻る気も起きず、少し遠回りになる回廊へとあてもなく足を踏み入れた。
何気なく進んでいたアレクシスは、少し先で見覚えのある姿を見つけた。
シャルロット嬢だ。
同じ一年生らしき令嬢から本を受け取り、柔らかく微笑みながら会話を交わしている。背筋は伸び、声は穏やかで立ち居振る舞いにも隙がない。
初めて言葉を交わしたときから印象は変わらない。王太子の自分に対しても、常に適切な距離感を保ち、過不足ない言葉を選ぶ。
もっとも最近では、それが彼女のすべてではないことも知っている。
エレナ嬢たちと一緒にいるときは、驚くほど表情豊かによく笑い、呆れ、遠慮のない言葉も口にする。それでも、人前で大きく取り乱す姿だけは見たことがなかった。
話し相手の令嬢が去り、一人になったシャルロットがこちらへ歩き出す。アレクシスの姿に気づくと、一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「殿下。ごきげんよう」
「ああ」
軽く挨拶を交わし、そのまますれ違う――はずだった。
シャルロットが、ぴたりと足を止めた。
アレクシスが振り返ると、彼女は無言のまま、妙に鋭い視線を窓側に飛ぶ一匹の小さな蛾へ向けている。
何事もなかったかのように再び進み出した彼女だったが、先ほどより明らかに速度が速い。アレクシスはその場に立ち止まったまま、何気なくその背中を目で追った。
ふらふらと飛ぶ小さな蛾の動きに合わせて、シャルロットは右へ左へとあからさまに反対側へ寄っていく。
「……何をしている?」
「何がでしょう?」
振り返った顔にはいつもの笑み。けれど、どこか「それ以上は聞くな」と言いたげな妙な圧があった。
「蛾を避けているように見えたが。苦手なのか?」
「いいえ。……そう見えたのでしたら、ただの反射です」
固まった笑顔のまま即座に否定し、シャルロットは再び前を向いて歩き出す。姿勢も歩幅も整ってはいるが、やはり足早だ。
だが、アレクシスは知っていた。
彼女が向かう回廊の先――自分がつい先ほど通り抜けてきた柱の壁側に、一匹の巨大な影が止まっていたことを。広げた羽がかなり目立つ、格別に大きな蛾だ。
(……大丈夫なのか?)
無言で見守っていると、数歩進んだところで柱の陰から先ほどとは別の蛾が飛び出した。
ばさり、と羽音が響く。
「……っ!」
分かりやすく肩を跳ねさせ、ものすごい速さで距離を取るシャルロット。
アレクシスが遠目から納得の視線を送ると、彼女はちらりと振り返ってほんの少しだけ眉をひそめ、すぐに顔を背けた。以前より分かりやすくなった変化に、アレクシスが思わず口元を緩めた――その直後だった。
シャルロットの視線が、ついに例の壁側へ向けられた。
ぴたり、と足が止まる。
完全に硬直した。顔から一切の表情が消え、壁に釘付けになっている。
そして、巨大な蛾がゆらりと羽を広げた瞬間。
「――っ!?」
声にならない悲鳴を上げ、シャルロットは猛然と方向転換した。
立ち居振る舞いもどこへやら、なりふり構わずアレクシスの元へ向かってダッシュで戻ってくる。
「ちょ、シャルロット嬢――」
驚くアレクシスに問いかける余裕すらなかったらしい。
すれ違いざま、彼の右腕が強烈な力で掴まれた。勢いそのままにアレクシスの背後へ完全に入り込み、彼を盾にする。
「……私を盾にしていないか?」
「殿下は背が高くていらっしゃいますから、ちょうどいい壁なんです!」
開き直った叫びを聞きながら、アレクシスは苦笑した。かつて彼女たちから「城壁」と呼ばれていたことを思い出し、まさか本当に物理的な壁として利用される日が来るとは思わなかった。
「殿下!あれを……あれを外へ追い出してください!」
「なぜ私が……王太子は蛾を追い出す役職ではないのだが」
「今だけお願いします! 近くにいますか!?」
「ああ、追ってきてすぐそこを飛んでいる」
「いるかいないかだけ教えてくだされば結構です!」
必死すぎる背後の気配に、アレクシスはついに小さく吹き出した。背中越しに「今笑いましたね」と不満げな圧が伝わってくるが、それどころではないらしい。
やがて蛾は開いた窓から外へ出て行った。
見届けたアレクシスが「もういない」と告げると、背後からそっと顔を覗かせたシャルロットは、上空まで念入りに確認して胸を撫でおろした。
「……よかった……」
心底安堵した、完全に素の表情。
その隙だらけの横顔から、アレクシスはふと目を離せなくなった。誰にでも見せるわけではない顔を、自分だけが見ているという事実に、胸の奥がわずかに高鳴る。
だが、ハッと我に返ったシャルロットが、自分が掴み続けていたアレクシスの腕を見て顔を跳ね上げた。
「……っ失礼いたしました!」
勢いよく離れ、姿勢を正す。取り繕う動作を見せつつも、耳の先端が真っ赤だ。
「……蛾が苦手なのはよく分かった」
「……昔、顔に止まられたことがありまして。大きいものは……無理です」
観念したように小声で打ち明ける彼女に、アレクシスが思わず笑みを深めていると、回廊の向こうから声がした。
「シャルー!」
駆けつけてきたのはエレナとイザベラだった。アレクシスに礼をした後、エレナがシャルロットの顔を見て首をかしげる。
「探したよ。なんだか疲れた顔して……あ、もしかして蛾?」
「エレナ」
「あれ、めっちゃでかかったよねー! あの時顔に止まってトラウマになった――」
「エレナ?」
にこりと笑みを浮かべるシャルロットの圧に、エレナは即座に「ごめんなさい」と口をつぐんだ。
「なるほど。相当なトラウマだったんだな」
「……殿下、どうかお忘れください」
「努力はしよう」
またも自然に口調が崩れ、つい声を強めてしまったシャルロットは、慌てて咳払いをしていつもの佇まいに戻った。その一連のやり取りを、エレナとイザベラが「もう遅いよね」「しっ」と小声で囁き合っている。
いつでも穏やかで、隙がなく、取り乱さない印象。
だが、それだけではない。親しい者の前では遠慮がなく、怒れば睨み、困れば頼り――そして大きな蛾を前にすれば王太子すら壁にする。
知らなかった彼女の一面が増えていくたびに、もっと見てみたいと思ってしまう。
「では殿下、私たちはこれで」
礼をして歩き出した三人のうち、シャルロットだけがふと足を止めて振り返った。
「……先ほどは、ありがとうございました」
取り繕った笑顔ではない、ほんの少し照れたような、柔らかで素朴な表情。
アレクシスは咄嗟に言葉が出ず、ただ「……ああ」とだけ頷いた。
三人の姿が角を曲がって消えても、アレクシスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
先ほど掴まれた腕に視線を落とす。当然、もうそこには何も残っていない。それなのに、あの必死な体温と感触だけが、妙に鮮明に残っている気がした。
気品に満ちた彼女にも、苦手なものはある。
気に入っていると思える瞬間が、またひとつ増えたのを感じながら、アレクシスは静かに口元を緩めた。




