15.思ってたよりいい人だった
エレナ視点です。
午後の講義を終え、私は一人で本館へ続く回廊を歩いていた。
シャルロットは政治関係、リリアナは文化史、イザベラは文献学の講義を取っている。私はというと、領地経営に関する講義を終えたところだった。
「エレナ」
聞き覚えのある低い声に振り返ると、少し離れたところにルシアン様が立っていた。相変わらず愛想のない顔だ。
以前なら真っ先に「城壁」という言葉が浮かんでいたけれど、さすがに本人を目の前にしてそれは失礼だと最近は思い直している。
ルシアン様はこちらへ歩み寄ると、手にしていた数冊の本から一冊を差し出してきた。
「これだ」
「……何ですか?」
「旧街道について調べていただろう」
表紙を見ると、王国西部の街道について記された題名があった。ぱらぱらとめくると、街道の年代だけでなく、当時の交易路や宿場、周辺領地との関係まで精緻に載っている。
「これ、どこにあったんですか?」
「二年の領政科で管理している資料室だ」
先日、廊下の装飾棚の前で話した際、閲覧できる範囲なら探しておくと言ってくれていた。だが、見つからなければそれまで程度の話だと思っていただけに、本当に覚えていて探してきてくれたことに驚いてしまう。思っていた以上に律儀な人なのかもしれる。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、ルシアン様は一瞬黙って視線を逸らした。
「……別に。ただ、それだけでは足りない。街道が使われなくなった経緯を記録した資料が、もう何冊かある。二年が今使っている講義室の共用棚だ。案内する」
ーーーー
二年生が主に使う区画へ入ると、すれ違う上級生たちがちらちらとこちらを見ていた。
普段あまりに普通に話していたため忘れがちだが、彼は公爵家の嫡男であり、王太子殿下の側近だ。周囲の好奇の視線に気づいた私は、ふと最初の頃の「城壁」という言葉を思い出して小さく笑ってしまう。
「何だ」
「何でもありません」
「嘘をつけ」
「気のせいです」
講義室に着くと、ルシアン様は後方の棚から二冊の本を取り出して渡してくれた。
そのとき、通りかかった二年生の男子学生が、珍しいものでも見るように声をかけてきた。
「ルシアン様。一年生の方をお連れになるのは珍しいですね。失礼ですが、こちらのご令嬢は……?」
「ノワール辺境伯家のご令嬢、エレナ・ノワール嬢だ」
「お知り合いで?」
ルシアン様が一瞬だけ間を置いた。
「……まあな」
それ以上説明する気のない素っ気ない態度に、男子学生は軽く会釈して離れていった。彼が気安く話すのは殿下たちくらいなのだろう。
受け取った本を開くと、探していた旧街道の名前と廃止時期がはっきりと記されていた。思わず喜びの声を上げると、ルシアン様から「ここは一年の講義室ではない。静かにしろ」と深いため息交じりに注意されてしまった。
「借りてもいいですか?」
「ああ。資料室のものだから、俺を通して返せ」
三冊の本を抱え直し、改めて感謝を伝える。
「本当に助かりました。ルシアン様ありがとうございます!」
彼は少し目を逸らし、「大したことじゃない」と短く返した。
ーーーー
エレナが三冊の本を抱えて立ち去ったあと、ルシアンは彼女が消えた扉の方をしばらく見つめていた。
「……ルシアン様」
先ほど声をかけてきた男子学生が、再び控えめに歩み寄る。
「一年生のご令嬢のために、わざわざ資料を探されるのは珍しいと思いまして」
「以前、閲覧できる範囲で探すと約束しただけだ」
「なるほど。失礼いたしました」
引き下がっていく同級生を見送りながら、ふと「お知り合いなのですか」という問いが頭をよぎる。
立場上、国内の貴族の家系や名名はすべて頭に入っていた。ノワール辺境伯家に令嬢がいることも当然知っていたが、社交界など表舞台に出てこなかったため、アカデミーに入学してくるまで顔までは知らなかった。遠くから自分たちを「城壁」と呼んでいた新入生の一人――最初はそれだけの存在だったはずだ。
それが今では当たり前のように言葉を交わしている。上級生に対する敬語も、気を抜くとすぐに崩れる始末だ。
普通なら注意するところだが、直させる気にもならなかった。
(……何かが違うな)
だが、それ以上深く考えることもなく、ルシアンは手近な席に腰を下ろして本を開いた。その日、開いたページの文字がまったく頭に入ってこなかった理由については、あえて追求しないことにした。
ーーーー
放課後、裏庭へ向かうと、すでにシャルロット、リリアナ、イザベラの三人が揃っていた。
テーブルに抱えてきた本をどさりと置くと、リリアナが目を丸くする。
「何の資料?」
「ルシアン様が貸してくれたの」
その一言に、三人の手が止まった。リリアナが面白がるように笑みを浮かべ、シャルロットも尋ねてくる。
「ルシアン様が、わざわざ?」
「うん。前に旧街道の話をしたとき、探しておくって言ってくれてて。今日いきなり渡されてびっくりした」
一方、黙って本をめくっていたイザベラが顔を上げる。
「……これ、領政科の専門資料じゃないかな。一般の図書室には置かれていないはず」
「二年の資料室にあるって言ってた」
「わざわざそこから探してくれたんだね。……優しいね」
イザベラの一言に、私は一瞬言葉を詰まらせた。
無愛想で、口が悪くて、すぐに睨んでくるあの人が。
約束と言っても「閲覧できる範囲なら」と言っていただけなのに、ちゃんと覚えていて関連資料まで揃えてくれた。
「……まあ、思ってたよりいい人なのかも」
「今までどう思ってたのよ」
シャルロットの問いに「城壁」と答えそうになり、慌てて口を噤む。三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い声を重ねた。
今度会ったら、何かお礼をした方がいいかもしれない。甘いものが好きなのだろうか。彼について分からないことばかりだと思い巡らせる。
廊下を塞いでいた背の高い四人組――ただの「城壁」だった存在が、いつの間にか一人の人間として、私の中で「ルシアン」という名前を持ち始めていた。無愛想で口は悪いけれど、何気ない約束を覚えている人。
まだその変化が何を意味しているのか、考えるには至っていなかった。




