11.少しずつ変わる距離
午後、講義を終えたルシアンは本館から西棟へ続く回廊を歩いていた。次の予定まではまだ余裕がある。
一定の足取りで歩を進めていた彼は、回廊の先で立ちつくす見覚えのある姿を見つけた。
エレナ・ノワール。辺境伯令嬢であり、最近なぜか遭遇する機会の多い人物だ。
彼女は柱の横の装飾棚を見上げ、爪先立ちになっていた。最上段の本に手が届かず、「あとちょっとなんだけどな……」と呟いている。一度は素通りしようとしたルシアンだったが、結局はその場で足を止めた。
「何をしている」
「あ、ルシアン様。本を取りたくて……取っていただけますか?」
職員を呼べばいいと口にしかけたが、探す手間を惜しむ彼女の視線を受け、ルシアンは無言で棚へ手を伸ばした。最上段の本をあっさりと引き抜く。
「これか?」
「それです、ありがとうございます!」
受け取った表紙には『王国東部における防衛史と国境線の変遷』と題されていた。思いがけない書名に視線を留めると、エレナはどこか誇らしげに語り始めた。
「私だってこういう本も読みますよ。実はうちの領地に関係があって……ほら、この旧第四砦、幼い頃に父に連れていってもらったんです」
エレナが一歩踏み込み、ページを指し示してくる。予期せぬ距離の近さに一瞬視線を落としながら、ルシアンもその箇所を覗き込んだ。
「軍務資料で見た。北東防衛線だな。……この先の旧街道は、途中で崩落しているはずだ」
「やっぱり! 昔、そこに落ちたことがあるんです。浅い場所でしたから平気でしたけれど」
呆れて眉間を寄せるルシアンに、エレナは屈託なく笑った。
「では私、図書室へ行きますね。もしさっきの街道の資料があったら、今度見せていただけますか?」
「……閲覧できる範囲なら探しておく」
お礼を言いながら手を振って去っていく後ろ姿を、ルシアンはしばらく見送った。普段の賑やかな印象と、領地を思う真っ直ぐな眼差し。そのギャップがわずかに心に残った。
*
ーー同時刻、本館一階の応接室
アレクシスは一人で学生代表としての確認書類に目を通していた。王太子という立場上、アカデミーでも完全に一学生としては過ごせない。
ノックの音に応じると、公爵令嬢シャルロットが入ってきた。
「失礼いたします、殿下。教官よりこちらをお渡しするよう仰せつかりました」
一分の隙もない礼と落ち着いた声。出会った頃から変わらない完璧な所作だ。
アレクシスが書類を受け取り礼を述べると、彼女は退室しようと身を引いた。
その時、廊下から慌ただしい足音が近づいてくるーー
「シャルー!」
聞き覚えのある声に、シャルロットの動きがピタリと止まる。
「……シャルロット嬢?」
「人違いかと存じます」
シャルロットが澄ました顔で言い切った瞬間、扉が開きエレナが顔を覗かせた。
「シャル、やっぱりここに――あ」
室内でアレクシスと目が合い、エレナが固まる。シャルロットは静かに目を閉じた。
「エレナ。ノックと敬語」
「……失礼いたしました」
一度扉が閉まり、律儀にノックがやり直される。室内に入り直したエレナが慌てて深々と礼をとると、アレクシスは思わず口元を緩めた。
「殿下、大変失礼いたしました。用件は済みましたので、私どもはこれで失礼いたします」
完璧な一礼を残し、二人は部屋を後にした。
去り際、廊下から「またお菓子を食べたでしょう」「明日運動するからいいの」と低声で言い争う声が聞こえてくる。次第に素の口調が混ざっていくやり取りが、遠く小さくなっていった。
一人残されたアレクシスは、手元の書類へ視線を戻した。
エレナが突然飛び込んできた瞬間、シャルロットが見せた僅かな動揺。いつも隙のない彼女が見せた思いがけない素顔に、小さな余韻が残っていた。
──翌日
約束の資料を探すルシアンも、完璧な令嬢の思いがけない一面を知ったアレクシスも、自分たちの抱いた印象が、やがて綺麗さっぱり覆されることを、まだ二人は知らなかった。




