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10.木の上に令嬢がいた

講義を終えたカイは、騎士団の訓練へ向かう途中で本館裏を通っていた。普段なら気にせず通り過ぎる場所だったが、頭上からかすかな声が聞こえ、足を止めた。


「あと少し……」


聞き覚えのある声に顔を上げると、カイは数秒間言葉を失った。


中庭の端にある大木の枝の上に、リリアナがいたからだ。制服のスカートを片手で器用に押さえ、細い枝に足を掛けている。貴族令嬢が一人で登るような高さではない。

カイは木の下まで歩み寄るとーー


「何をしている」

「わっ」


突然下から声を掛けられ、リリアナの肩が跳ねた。慌てて下を見下ろし、カイの姿に少し目を丸くする。


「カイ様……あの、あそこに布が引っかかっていて。取ろうと思いまして」

「誰のだ」

「分かりません」


持ち主すら知らないという言葉に、カイは呆れたように息を吐いた。


「誰か呼べ。落ちるぞ」

「大丈夫です、もう少しですから」


リリアナは気にする様子もなく、むしろ楽しそうにさらに手を伸ばす。細い枝へ足を移すと、ギィと小さくしなった。


「そこに乗るな」

「平気です。昔から木登りは得意なので」


さらりと返された言葉にカイの目が細くなる。彼の知る貴族令嬢の中に、木登りを日常のように語る者などいない。


「届いた」


指先が布を掴んだ瞬間、足元の枝が大きく揺れた。


「あ」


足が外れ、リリアナの体が宙に浮く。

考えるより早く、カイが動いていた。落ちてきた彼女の体を、両腕でしっかりと受け止める。


一瞬の静寂ーー

腕の中で、リリアナは手の中の布を大事そうに握りしめたまま、パチパチと瞬きをした。

手の中の布をまじまじと見つめると、ホッとしたように表情をゆるめ、どこか無邪気な笑みを浮かべる。

危機一髪だったというのに呑気に満足げな表情を浮かべる彼女に、カイの眉間に深い皺が寄った。


「……なぜ誇らしげなんだ」

「だって取れたし……あ」


足を地面につけていない自分と、しっかりと抱きかかえられている状況に改めて気づき、慌てて視線を泳がせる。


「……降ろしてください」

「逃げないか」

「今回は逃げないよ」


先日の件を思い出したのだろう。カイはしばしリリアナを見つめたあと、ゆっくりと地面へ下ろした。

リリアナは何事もなかったように制服を整え、手にしていた淡い色のハンカチを広げて満足そうに微笑む。


「怪我をしたら意味がない」

「でも、カイ様が受け止めてくれたから大丈夫だった」

「そういう問題ではない。……次は登るな」

「それは少し難しいかも」


全くこりていない顔だ。


「リリー!」


そこへ、中庭の向こうからエレナが歩いてきた。

木の下の二人とリリアナの手にあるハンカチを見比べ、あっけらかんと言い放つ。


「また登ってたの?」

「……『また』って言わないで」


眉をひそめるリリアナに、カイが低く尋ねる。


「……また、なのか」

「ええ。昔からすぐ登るんです」

「毎回じゃないよ」

「誰のかも分からないハンカチのために落ちそうになってたら、意味ないでしょ」


幼なじみにまであっさり言われ、リリアナは「……怪我してないからいいの」と気まずそうに目を逸らした。先ほどまでカイの前で見せていた強気さはどこへやら、少し大人しくなる。

カイはそのやり取りを黙って見つめていた。放っておけばまたやるだろう――そんな予感が拭えない。


「次からは」


カイが静かに口を開く。


「高い場所にあるなら誰かを呼べ。……俺でもいい」


少しの間が落ちた。自分で言っておいて不自然さを感じたカイだったが、彼女が危ない目に遭うよりはマシだと思い直す。

リリアナはパチリと目を瞬かせると、嬉しそうに口元を緩めた。


「じゃあ、次からはカイ様を呼ぶね」

「……毎回俺なのか」

「自分で言ったじゃない」


楽しそうに笑うリリアナの隣で、エレナも「言質取られたね」とくすくす笑っている。


「……もう行く」


カイはそれ以上否定せず、二人から背を向けてその場をあとにした。

歩き出そうとするカイの背中に向けて、リリアナがふと思い出したように声をかける。


「あ、カイ様! さっきは助けてくれて、ありがとうございました!」


振り返りもせず、ただ片手を軽く上げて応じたカイは、そのまま廊下の向こうへと去っていった。


その帰り道、エレナと並んで歩いていたリリアナは、ふと足を止めて振り返る。

離れた廊下を、騎士団の訓練へと向かっていくカイの後ろ姿が遠ざかっていた。


「どうしたの?」

「ううん、何でもない」


そう答えて、すぐ前を向く。

本当に、まだ、それだけの視線だった。



一方、歩を進めるカイもまた、腕に残る僅かな重みと、受け止めた後に見せた彼女の嬉しそうな笑顔を思い出していた。

小さくため息を吐く。

次に見かけた時も、きっと彼女は何かを起こしている気がした。

そして、なぜだかそれを少しだけ気にしている自分にも――カイはまだ、気づいていなかった。

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