99.朝の素顔
まだ朝日が昇り始めたばかりの時間、シャルロットは屋敷の廊下を歩いていた。
明日には王都へ戻ることになっているため、その前にもう一度、領内の様子を見て回りたかったのだ。せっかく帰ってきたというのに、視察や来客の対応で思っていた以上に慌ただしく、ゆっくり過ごせた日はそれほど多くなかった。
朝食まではまだ時間がある。ひとまず庭を散歩してから出かけようと、裏庭へ向かうことにした。
庭へ続く通路を歩いていると、どこからか風を切るような音が聞こえてくる。
(……こんな朝早くから、何の音?)
音を辿って向かうと、庭の一角で一人の男が剣を振る姿が見えた。
背が高く、見覚えのある体格。けれど、いつも綺麗に整えられているはずの髪が下ろされていて、一瞬誰なのか分からなかった。
(……あら?)
しばらく眺めていると、その人物が剣を下ろしてこちらを振り返った。
「……シャルロット嬢?」
「……えっ?!殿下?!」
思わず声を上げてまじまじと確認すると、間違いなくアレクシスだ。けれど、いつもとは随分と印象が違う。
綺麗に流されているはずの前髪はそのまま下ろされ、服装も動きやすいものに変わっている。何より、いつもの王太子らしい隙のない雰囲気がほとんど見当たらない。
「……おはよう」
「あ、おはようございます! 申し訳ございません、驚いてしまって……」
アレクシスは手にしていた剣を脇へ置くとシャルに向き直った。
(……殿下って、髪を下ろすとこんな感じになるのね)
普段より少し幼く見える気がする。前髪があるだけで、ここまで印象が変わるものなのだろうか。
「こんなに朝早くから鍛錬をされていたのですか?」
「……ああ。早く目が覚めたから、少し身体を動かしていた」
「そうだったのですね。いつも朝から鍛錬を?」
「毎日ではないが、たまにな」
「存じませんでした。ノワール領でもされていたのですか?」
「……いや、さすがにあそこではやっていない」
その返答に、シャルロットは思わず吹き出してしまった。
「確かに、ノワール領では朝から騎士団の皆様が訓練されていますものね」
「ああ。下手に素振りしているところを見られたら、そのまま訓練に参加することになりそうだからな」
「それは十分あり得ますね!」
エレナの父や兄たちの顔を思い浮かべると、ますますおかしくなってしまった。
ひとしきり笑ってからアレクシスを見ると、彼は庭先の椅子に腰を下ろしていた。
「……それにしても、シャルロット嬢も随分と早いな」
「明日には王都へ戻りますので、その前にもう一度、領内を見て回りたいと思いまして」
「……もう明日か」
「はい。あっという間でしたね」
相槌は打ってくれているものの、いつもより返事が短い気がする。
それに、先ほどから少し眠そうだ。前髪の隙間から覗く目元が、どこかぼんやりとしている。
「……殿下?」
「ん?」
「もしかして、あまりお休みになれていないのでは?」
「……?」
「その……少し眠そうに見えましたので」
アレクシスはしばらくシャルロットを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……少し、寝つきが悪くてな」
「まあ……。それでしたら、無理をなさらず、もう少しお休みになった方がよろしいのでは?」
頷いたものの、アレクシスは立ち上がる気配もなく、椅子の背にもたれたまま庭を眺めている。
(……あら)
シャルロットは思わず、その横顔を見つめてしまった。
普段なら、こうして何もせずにぼんやりしている姿など想像もつかない。いつだって姿勢がよく、誰に対しても完璧な振る舞いを崩さないのに、今は髪型も相まってどことなく気が抜けている。
(……なんだか、可愛い)
そこまで考えて、シャルロットはぱちりと瞬きをした。
自分より背も高く、いつも堂々としている王太子殿下に対して、そんなことを思う日が来るなんて…。
「……シャルロット嬢?」
「あっ、はい!」
「……どうかしたか?」
「いえ、いつもと雰囲気が違っているので少し驚いてました」
慌てて答えると、アレクシスは不思議そうに首をかしげた。
その表情すら幼く見え、思わず口元が緩みそうになったシャルロットは、慌てて視線を逸らした。
「……殿下は、これからどうなさるのですか?」
「少し休んだら、部屋へ戻るつもりだ」
「そうですか。でしたら、私はそろそろ失礼いたしますね」
「……もう行くのか?」
「はい。せっかく早起きしましたので、朝食までに少し歩いてこようかと」
アレクシスは一度頷くと、少し考えるように黙った。
「……気をつけて」
「はい!殿下も、どうか無理をなさらないでお休みになってくださいね」
「ありがとう」
シャルロットは軽く一礼すると、庭を後にした。
歩きながら、ふと先ほどのアレクシスの姿を思い出す。
隙のない振る舞いも整えられた髪もなく、少し眠そうにしていた姿に、思わず笑みがこぼれた。
これまで何度も顔を合わせ、一緒に過ごす時間も増えてきたというのに、まだ自分の知らない彼がいるらしい。
(それにしても……)
前髪を下ろした姿を思い出すと、また頬が緩んでしまう。
(……殿下には申し訳ないけれど、少し可愛かった)
そんなことを考えながら、シャルロットは朝の庭を歩いていった。
◇ ◇ ◇
一方、庭に残されたアレクシスは、しばらく椅子に座ったまま動けずにいた。
昨晩、自室へ戻ったところで届けられたヴェイロン公爵からの伝言。
"今夜、少し時間をいただきたい"
以前から約束していた面談の日がようやく来たのだ。
それだけなら、何も問題はないはずだった。
だが、その少し前にエミリアから思いがけない質問を受け、シャルロットへの気持ちを打ち明けたばかりでもあった。
考えまいとしても、どうしても頭から離れなかった。
結局、ろくに眠れないまま朝を迎え、少しでも気を紛らわせようと剣を振っていたのだが……
アレクシスは深く息を吐くと、片手で乱れた前髪をかき上げた。
まさか、こんな時間にシャルロット本人と顔を合わせることになるとは思わなかった。
(……何をやっているんだ、俺は)
せっかく剣を振って頭を空っぽにしたというのに、結局また彼女のことで頭がいっぱいになっている。
アレクシスはしばらく空を見上げていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
今夜の面談まで、まだ随分と時間がある。
せめて少しは眠っておこう。
そう思い直しながら、アレクシスは剣を手に屋敷へと戻っていった。




