第5話
「――これで、あのゾンビどもをぶっ殺せる」
そう言って拳を握りしめた細野の目には、隠しきれない高揚があった。
「よし。試してみるか」
細野はそう続けると、そのまま裏口の方へ足を向けた。
「ちょっと外、見てくるわ」
「――は?」
赤堀が驚いたように聞き返す。
「外には、ゾンビがどれだけいるか分からないんだぞ。危険すぎるだろ」
「さっきだって、赤堀さんがあっさり片付けてたじゃないか。今の俺の力なら、もっと簡単にやれるはずだ」
「――もっと簡単にやれるはずって、そんなの分かんねぇだろ!」
「だから、試すんだろ」
「やめとけ」
低い声でそれを制したのは、本田だった。
「今、力を得たばかりだろうが。それでいきなり実戦に出て、もしうまくいかなかったらどうするつもりだ」
「それは……でも、感覚で分かるんだよ。大丈夫だって」
「感覚で分かるのと、実際に使いこなせるのは別だ。試すにしても、まずは店の中、安全な場所でやることだろうが。いきなり外に出て、囲まれでもしたらどうする。シャッター、もう一回開けるのか? 俺たちまで巻き込む気か」
本田の言葉には、これまでの人生でそれなりの修羅場をくぐってきた者特有の、静かな重みがあった。細野は言い返せず、口をつぐむ。
「――本田さんの言う通りです」
紗夜が、場を締めるように続けた。
「力を持ったからといって、油断していい理由にはなりません。それに、そもそも私たちがここへ来たのは、店の中に他に人がいないか、開いたままの入口がないかを確認するためでした。それがまだ、終わっていません」
紗夜の声には、有無を言わせない静けさがあった。細野は不服そうな顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。
「分かったよ。悪かった」
短くそう言って、細野は肩を落とした。
「じゃあ、確認の続きだ。俺と――」
「――あの」
赤堀の言葉を遮るように、俺は口を開いた。
「一つ、提案していいですか」
「ん? 何だよ」
「実際に星野さんが襲われたわけですから、この後の見回りは、男だけで行った方がいいと思うんです。俺と細野さんの組、赤堀さんと本田さんの組に分かれて。皆川さんと星野さんには、事務室の奥に防犯カメラの映像が見れる部屋があったので、そこで待機してもらって」
「――待機、というのは、ただ座っているだけということですか?」
紗夜が、やや不服そうに聞き返す。
「いや、そうじゃなくて。もし電話が繋がるなら、番号を交換しておいて――カメラで何か見えたら、すぐ知らせてもらいたいんです。あの部屋からなら、店中の様子がある程度は見えるはずなので」
しばらくの沈黙の後、紗夜は小さく息を吐いた。
「――分かりました。それなら、納得できます」
「俺も、それでいいと思う」
赤堀も頷く。
「よし。じゃあ、皆川さんと星野さんは、事務室で待機。俺と本田さんは搬入口側、細野さんと高柳さんは売り場を見てきてくれ」
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売り場を細野と二人で見て回りながら、俺たちはしばらく無言のまま歩いていた。
「――なぁ、高柳さん」
陳列棚の裏を覗き込みながら、細野がふと口を開いた。
「一つ聞いていいか。なんで俺と組んだんだ? 普通に考えたら、高柳さんは赤堀さんか本田さんと組んだ方が、守ってもらえて安全だろ」
「――まあ、言ってしまえば、一番の足手まといは、たぶん俺なので」
俺はそう答えた。
「赤堀さんや本田さんと組んだところで、俺は結局その人の足を引っ張るだけです。だったら、まだ実戦で試してないとはいえ、火を飛ばせる細野さんと組んだ方が、俺の分までカバーできる範囲が広い。二組のバランスを取るなら、そっちの方がいいと思ったんです」
その合理的な物言いが、細野には気に入ったらしい。
「――ふん。その考えは正しい」
彼は小さく笑って続けた。
「近くで殴り合うだけが能じゃない。多少離れてても、俺の火なら援護できる範囲は広い。だから、こっちに来たことでバランスを取った――高柳さんの考えは、正しいよ」
「断言するんですね」
「直観で分かるんだよ。証明はできないけどな。まぁ、流石に赤堀さんたちを攻撃して試すわけにもいかないし、ゾンビとも――」
「え? 戦えるでしょう」
俺が思わず口を挟むと、細野は不思議そうな顔をした。
「いや、さっきの話で、シャッターは開けられないって話しましたよね」
「――ああ、そういうことか」
俺は続けた。
「屋上に出て、そこから下に来たゾンビを狙い撃ちすれば、シャッターを開けなくても済みます。それなら、能力のテストにもなりますし、反対する人もいないと思いますよ」
その言葉に、細野は「その手があったか」というような顔で頷いた。
「まぁ、それも、ここの確認を終わらせてからですけどね」
俺がそう付け加えると、細野は小さく肩をすくめた。
それから20分ほどかけて、俺たちは店の隅々まで見て回った。
幸い、他に潜んでいたゾンビの姿はなかった。裏口以外の出入り口はすべて施錠済みで、シャッターも下ろしきっている。天井近くの明かり取りの窓は人が通れるような大きさではなく、この建物は――少なくとも今のところは、外から侵入される心配はなさそうだった。
食料品、飲料水、日用品。棚に並ぶ在庫の量そのものは、五人程度で消費しきれるようなものではなかった。避難警報が出てからまだ二、三時間というところで、店はまだほとんど荒らされていない。物量だけを見れば、当面困ることはなさそうだった。
だが、誰の顔にも、安堵の色はなかった。
――この騒ぎは、一体いつ収まるのか。
さっき目の当たりにした、あの光景のことを思えば、「収まって、また元通りになる」なんて楽観は、誰の頭にも浮かんでいないようだった。
「――で、これからどうする?」
売り場の真ん中で、赤堀がぽつりと言った。誰に向けるでもない、独り言のような口調だった。
誰も、すぐには答えなかった。
「――そういえば、スマホ」
沈黙を破ったのは本田だった。彼はポケットからそれを取り出し、画面を睨む。
「今どうなってる。俺のは、朝からずっと圏外表示のままだったが……おい、繋がってるぞ」
「俺のも」
赤堀も慌てて自分のスマホを確認する。
「私のも、さっきよりは繋がりやすくなってます」
紗夜もそう言って、画面を覗き込む。
俺のスマホは、家を出た時点でとっくにバッテリーが尽きていた。事務所の引き出しを漁ると、運良く予備の充電器が見つかり、コンセントに挿して電源を入れる。起動を待つ間、他の面々は各自のスマホで、SNSや掲示板を覗き始めていた。
「――なんか、めちゃくちゃだな、これ」
真っ先に声を上げたのは細野だった。
「洗足池公園に避難所が開設されたって投稿があるかと思えば、その30分後には、そこでゾンビが出たって投稿もある。どっちが本当なんだ」
「こっちもです。この駅は安全だ、って書き込みのすぐ下に、いや今は危険だから近づくな、って返信がついてます」
紗夜も眉をひそめながら画面をスクロールしている。
情報が、多すぎるくせに、どれも信用できない。どの投稿を信じればいいのかも分からない以上、本当にそこが安全なのかどうかさえ確かめようがない。安全かどうか分からない場所を、目指せるはずもなかった。行き先も定まらないまま、下手に外へ出る方がよほど危険だった。
「覚醒の方は、もう少し情報があるな」
本田が低い声で言った。
「あの石を食った奴は、大抵何かしらの力を得てるらしい。火だ、水だ、土だ、風だ――ゲームの属性みたいなのが多いが、中には身体能力がとんでもなく上がった、なんて話もある」
「でも、何も起きなかった、って投稿もちらほらありますね」
俺のスマホも、ようやく画面が点いた。皆と同じように、俺も流れてくる投稿に目を通し始める。
――試したけど、何も変わらなかった。
――半日待っても、何の力も出ない。
そういう報告も、確かに少なくなかった。食べれば必ず力を得られる、というわけでもないらしい。何が違いを分けているのか、この時点ではまだ誰にも分からなかった。
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結局、どの情報も、断片的で、矛盾していて、信用しきれるものは一つもなかった。
「こんな状態で動くのは、さすがに無謀だと思います」
紗夜が静かにそう言った。
「だな」
赤堀が小さく息を吐く。
「当面は、ここでいいんじゃないか。少なくとも、今よりマシな行き先が分かるまでは」
「そうですね。今は、それが一番現実的だと思います」
紗夜が静かに同意する。
「今夜は、ここに泊まる。それでいいな」
赤堀の言葉に、皆が黙って頷いた。誰も反対しなかったが、誰の顔にも、安堵はなかった。ただ、他に選べる道がない、というだけの頷きだった。
窓の外では、まだサイレンが途切れることなく響いていた。時刻はまだ午後2時を回ったところで、日が傾くには早い。それでも、店内の照明だけが、やけに白々と俺たちを照らしていて、時間の感覚そのものがどこかずれているような気がした。
はっきりした答えの出ないまま、会話はやがて途切れ、そのまま重い沈黙が事務所の隅々にまで染み込んでいく。誰も次の言葉を継げないまま、床や壁の一点をぼんやりと見つめているだけの時間が、しばらく続いた。
それを破ったのは、思いがけず皆川の小さな声だった。
「――あの」
皆の視線が、彼女に集まる。皆川は少し気まずそうに、それでも言葉を続けた。
「何か、食べません? 私、朝から何も口にしてなくて」
言われて初めて、俺は自分の腹の底に、鈍い空腹があることに気づいた。時計を見るまでもなく、随分と長い時間、何も口にしていない。
「……そういえば、俺も」
赤堀がそう漏らすと、他の面々も互いに顔を見合わせた。
「言われてみれば」
細野が力なく笑う。
「非常事態だってのに、腹は減るんだな。当たり前だけど」
本田がそう呟きながら、億劫そうに立ち上がった。
弁当コーナーには、まだそれなりの品揃えが残っていた。誰からともなく、各自が適当な棚の前に立ち、無言のまま品定めを始める。
赤堀は迷わず一番大きな唐揚げ弁当を手に取った。細野はサンドイッチとおにぎりを一つずつ。本田は素っ気なく幕の内を選び、皆川はおにぎりを二つ、控えめに抱えている。
だが会計のいらないレジを前にして、紗夜だけがふと足を止めた。手にした弁当を、まるで値踏みでもするように見つめている。
「――どうした?」
赤堀が声をかけると、紗夜は少し困ったような顔をした。
「なんだか、悪いことをしているような気がします」
「今はそういう状況だ。仕方ないだろ」
本田が短く返す。
「それは分かっています」
紗夜はそう言いながらも、視線を弁当から上げなかった。
「ただ、こういうことをすると、どこかで罰が当たりそうで……気が引けるだけです。神社の家に生まれると、こういうところで変に律儀になってしまうんです」
「――え? 神社の家って、じゃあ、巫女さんとか?」
思わず、俺は口を挟んでいた。
「……まぁ、一応、そうですけど」
紗夜は横目でちらりとこちらを見ると、少し気恥ずかしそうにそう答え、それから小さく頬を緩めた。そう言いながらも、彼女の手は、しっかりと弁当を一つ抱えたままだった。
「……でも、お腹は空いていますから」
その律儀さに、誰からともなく、小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「それでいいと思うぜ、星野さん」
赤堀がそう言って、先に立って休憩室へ向かった。
休憩室の古い電子レンジは、五人分の弁当を温めるのに何度も往復することになった。回転する音が響くたび、誰かがぼんやりとそれを眺めている。
温まった弁当を、狭いテーブルを囲むようにして広げる。「いただきます」と誰かが小さく呟いたのが、妙に場違いで、それでいて場を和ませた。
しばらくは、咀嚼の音だけが響いていた。誰も、多くを語らなかった。それぞれが、たった数時間前まで当たり前だった日常と、今の状況との間で、まだ折り合いをつけられずにいるようだった。
俺はそれを、少し離れた場所から眺めていた。皆それぞれのやり方で、この状況を飲み込もうとしている。赤堀は苛立ちを紛らわすように貧乏揺すりをし、本田は黙々と食べることに集中し、細野は箸の先で弁当の中身を弄びながら、時折何かを考え込むように宙を見ていた。皆川は、赤堀の隣で俯きがちに、おにぎりを小さくかじっている。紗夜だけは、箸を止めたまま、窓の方――というより、その先にある何かを見つめているようだった。
やがて、店の隙間から差し込む光が、赤みを帯び始めた頃だった。
――パン!
正面シャッターの方角から、乾いた破裂音が響いた。
「――今の、何の音?」
真っ先に声を上げたのは本田だった。箸を置き、鋭い目つきで音のした方角を睨む。
「メイン入り口の方だったな」
「ゾンビ、ですかね?」
細野が眉をひそめる。
「――いや、待てよ」
赤堀が、何かに気づいたように顔を上げた。
「もしかしたら、他にも避難してきた人がいるのかもしれない」
そう言うなり、彼は勢いよく立ち上がった。人がいるかもしれない、という可能性が、彼を突き動かしたらしい。そのまま入口の方へ向かおうと、足を踏み出しかける。
「――待って」
紗夜の声が、それより先にその動きを止めていた。
赤堀が振り返る。
「まずは、カメラで確認しましょう。もし本当に人なら、うかつに入口を開ける前に、相手の様子を見た方がいい」
一瞬、赤堀は苛立たしげに眉を寄せたが、すぐに小さく息を吐いて頷いた。
「……確かに、その通りだな」
誰も、それ以上は異を唱えなかった。俺たちは食べかけの弁当をその場に置いたまま、足早に事務所へと向かう。
モニターに映し出された光景に、五人は言葉を失った。
正面シャッターの向こう、駐車場のあたりを――何体ものゾンビが、当てもなく彷徨っていた。




