第4話
正面のシャッターは、重い金属音を立てながら下りきった。それきり、外の喧騒が一枚の壁の向こうに閉じ込められる。
静寂――とまではいかないが、少なくとも悲鳴や爆発音からは切り離された空間に、俺たちは束の間、立ち尽くしていた。
「……はぁ、はぁ……マジで、死ぬかと思った」
先に口を開いたのは、俺の隣でシャッターに手をかけていた男だった。180センチはあるだろう上背に、Tシャツの上からでも分かる厚い胸板。膝に手をついて息を整えながら、それでもいち早く顔を上げ、周囲を見回す。
「――全員、無事か? 怪我してる奴は?」
問いかけるように言われて、俺たちはようやく互いの顔を見る羽目になった。蛍光灯の白い光の下で、初めてまともに見る顔ばかりだ。
「……大丈夫、です」
痩せ型の眼鏡の男が、まだ上がりきらない息の合間にそう答える。シャツの背中は汗で貼りついていた。
「俺も、平気だ」
作業着姿の、この中では一番年上に見える男が短く応じる。バンダナの下から覗く表情に、驚きの色は薄い。
「私は……大丈夫、です……」
疲れた声でそう言ったのは、スーツのジャケットを腕にかけた女性だった。化粧は崩れ、髪も乱れている。すぐそばに立つ、身体の大きな男――さっき声をかけてきた男のそばから、あまり離れようとしない。
「――そっちは?」
大柄な男が、今度は俺と、俺の隣に立つ女性へ視線を向けた。
腰まで届く長い黒髪。この混乱の中でも、彼女の立ち姿だけは奇妙なほど乱れていなかった。表情に浮かぶのは怯えではなく、静かな警戒。可愛いというより、凛とした美しさという言葉がしっくりくる。
「私は平気です。それより――」
彼女はそこで言葉を切ると、俺の方をちらりと見た。
「あなたは、大丈夫ですか?息、凄いことになっているけど」
「あ……ああ、平気。ちょっと息切れしてるだけだ」
答えながら、俺はふと気づく。この五人、誰一人まだ名乗ってすらいなかった。
「――そういえば、名前も聞いてなかったな」
大柄な男もそれに気づいたように、ばつが悪そうに笑った。
「赤堀。赤堀豪」
「細野です。細野亮」
痩せ型の男が、眼鏡を押し上げながら会釈する。
「本田。本田徹だ」
作業着の男が無骨に名乗った。
「皆川、円です……」
疲れた声の女性が、赤堀の陰から小さく頭を下げる。
「星野、紗夜です」
最後にそう名乗ったのは、俺の隣にいた黒髪の女性だった。
「高柳です。高柳誠一」
俺も名乗り返す。名乗ったところで、この状況が何一つ変わるわけではないのに、それでも名前を交わすというただそれだけの行為が、ほんの少しだけ互いの緊張をほぐしたような気がした。
「――で、一体何が起きてるんだ?」
俺が尋ねると、赤堀が虚を突かれたような顔をした。
「……もしかして、ニュース見てないのか?」
「見ようとはしたよ。起きた時にはもう、外がこの有様でさ。慌ててテレビつけたら、丁度シグナルロストになった」
俺が苦笑気味にそう返すと、赤堀は本田と顔を見合わせ、小さく息を吐いた。
「――信じられないと思うけど、ゾンビだよ」
「は?」
「ゾンビ。本物の。道端で、人が人に噛みついてた」
「噛まれた奴が、そのまま同じように豹変するんだ」
本田がそれに続けて言う。抑揚のない声だったが、だからこそ嘘には聞こえなかった。
「いや、待てよ。それ、本気で言ってるのか?」
「俺だって、こんな話、正気で言ってるように見えねぇと思う」
赤堀は苦い顔で首を振った。
「だけどな、実際にこの目で見たんだよ。友達が――目の前で、噛みつかれてすぐにあんな風になった」
その声には、悪ふざけの気配は微塵もなかった。むしろ、思い出すことそのものに耐えているような響きがある。何より、店の外から絶え間なく聞こえてくる悲鳴とサイレンが、彼らの言葉の裏付けになっていた。
「――まずは、他に人がいないか。それに、開いたままの入口がないか、確認すべきだと思います」
紗夜の声が、その場の空気を切り替えた。皆が顔を見合わせ、頷く。
「俺と本田さんは、売り場の方をぐるっと見てくる。細野さんと皆川さんは搬入口側を頼む。星野さんは……」
「私は事務所の方を見ます」
「――俺も、そっちに行く」
紗夜と目が合い、俺は反射的にそう言っていた。理由は自分でもよく分からなかった。
売り場を横切りながら、俺は紗夜と並んで事務所の方へ向かった。
レジには誰もいない。カゴを提げたまま放置されたカートが、通路の真ん中で行き場を失っている。菓子売り場の棚は半分ほど空になっていて、慌てて何かを掴んでいった跡がありありと残っていた。かと思えば、隣の缶詰コーナーはほとんど手つかずのまま並んでいる。
パニックというよりは、中途半端な逃走の痕跡、という方が近い。
天井のスピーカーからは、場違いなほど呑気なインストゥルメンタルのBGMが流れ続けていた。それが逆に、この空間の異常さを際立たせている。
事務所へ続く通路の手前で、紗夜が足を止めた。
「――高柳さんは、防犯カメラを確認してもらえますか?もしどこかに死角があるなら、私が直接、裏口を見てきます」
「一人で大丈夫か?」
「それより、二人揃って死角を見逃す方が怖いです」
そう言われると、返す言葉がなかった。
「……分かった。何かあったら、すぐ叫べよ」
紗夜は小さく頷くと、裏口の方へと足早に向かっていった。
俺は一人、事務所へ続く通路を進む。客用フロアとは違う無機質さがそこにはあった。灰色のリノリウム、剥き出しの配管、休憩室らしき小部屋の扉には「私語厳禁」の貼り紙。その先に、防犯設備の並んだ小部屋を見つけた。
モニターの列が、無音のまま切り替わり続けている。
そのうちの一つに、目を留めた。
――裏口の付近に、人影が一つ。
白黒の粗い映像で判別しづらいが、様子がどうもおかしい。姿勢が不自然に傾いている。歩いているというより、揺れている、という方が近い。
そこへ、画面の端から紗夜が近づいてくるのが映った。
「――待て、星野さん! そっちに――」
叫んだが、遅かった。次の瞬間、その人影が――弾かれたように、紗夜へ向かって走り出した。
店内に、彼女の悲鳴が響き渡る。
俺は考えるより先に、体が動いていた。事務所を飛び出し、裏口へ向かって全力で駆ける。心臓が痛いくらいに脈打っていた。
辿り着いた先には、はっきりとそれが見えた。
――ゾンビだった。
肌は土気色に変色し、目は白く濁っている。紗夜に覆いかぶさり、今にもその首筋に食らいつこうとしていた。
「高柳さん!」
紗夜の悲鳴混じりの声が、俺の名を呼んだ。
深く考える余裕はなかった。俺はそのまま走り込み、ゾンビの腹を思い切り蹴りつけた。骨の感触とは思えない、妙に軟らかい手応え。衝撃で、ようやくそれが紗夜の上から引き剥がされる。
蹴り飛ばされたゾンビは数歩よろめき、こちらに向き直った。俺は反射的に距離を取り、そのまま睨み合う形になる。
――どうする。武器なんて何もない。もう一発蹴るか、それとも逃げるか。
頭の中で何通りもの選択肢が浮かんでは消えていく。だが体は、竦んだように動かなかった。ゾンビの濁った目が、まっすぐこちらを見据えている。
「――っ」
短く息を詰めた紗夜が、俺の傍らでどうにか身を起こす。
その時だった。ゾンビの背後――誰にも気づかれていないその死角から、赤堀が足音を殺して近づいているのが見えた。
赤堀は俺と目を合わせると、小さく顎をしゃくった。合図だ、と直感的に悟る。
「――おい、こっちだ! この化け物が!」
俺はとっさに、大きく一歩前へ踏み込みながら声を張り上げた。注意を引きつけるように、両手を広げてみせる。
狙い通り、ゾンビの意識がこちらに引き寄せられた。その隙を、赤堀が見逃すはずもなかった。
「――死ねぇ!」
叫びながら、赤堀はゾンビの背後から飛び込んでくる。手には、キッチン用品コーナーから引き抜いてきたのであろう、太い麺棒。
赤堀はそれを両手で振りかぶると、ゾンビの頭に叩きつけた。
「この、化け物がァ!」
一撃、二撃、三撃――怒声と共に鈍い音が繰り返されるたびに、頭部の形が崩れていく。そしてやがて完全に潰れると、ゾンビの体は輪郭を失い、粒子のように崩れて消えていった。
代わりにその場へ残ったのは、薄紫に淡く光る、小石ほどの何かだった。
一瞬、目を奪われる。胸の奥で、何かがちりっと疼いた。
――これ、どこかで見た気がする。
だが、思い出せない。昨夜の記憶は、酒に溶けて曖昧なままだった。
――いや、今はそれより。
俺は石から目を離し、紗夜の方へ向き直った。
「――大丈夫か? ちゃんと立てるか?怪我は?」
紗夜に手を貸しながら、俺はそう尋ねた。
「大丈夫です。……助けてくれて、ありがとうございます」
「感謝は赤堀さんにしてくれ。ゾンビを仕留めたのは、あの人だ」
「もちろん、赤堀さんにも。ありがとうございます」
紗夜はそう言ってから、俺の方に視線を戻した。
「でも――やっぱり、高柳さんにも。あなたが来てくれていなかったら、私は今頃、噛まれていたのでしょうね」
その言葉に、俺は何と返していいか分からず、曖昧に頷くことしかできなかった。
荒かった赤堀の息も、ようやく落ち着きを取り戻していた。額の汗を腕で拭うと、彼は短く息を吐く。
「――二人とも、無事でよかった」
そう言ったところで、物陰から細野たちがようやく駆けつけてきた。
本田と皆川は、心配そうな顔で紗夜と俺を交互に見ている。だが細野だけは、二人の様子よりも先に――地面に転がる、あの光る石に目を奪われていた。興奮を隠しきれない様子で、身を乗り出すようにしてそれを覗き込んでいる。
「――それより、それは何なんですか?」
紗夜が、石を指差しながら言った。
「ゾンビが消えて、代わりにそれが落ちましたけど」
その一言で、皆の視線が改めてその石へと集まった。
細野が石のすぐそばまで来て、しゃがみ込んだ。
「――本当に、倒すと石を落とすんだ」
その言葉に、俺と紗夜は同時に顔を上げた。
「本当って?」
「朝が明ける前から、ネットの掲示板で、こいつらに関する情報がもう出回ってたんだ。倒すと体が消えて、代わりにこの石を落とすって」
「倒すとアイテムを落とすって……ゲームかよ」
赤堀が呆れたように呟く。
「いや」
細野の声は、妙に落ち着いていた。
「もし流れてた情報が全部本当なら――ゲームみたいな話は、ここからが本番だと思う」
そう言うと、細野は落ちていた石を拾い上げ、顔の前まで持ってくる。数秒だけ、それを睨むように見つめた後――口に含み、噛み砕いた。
「――は? 一体何を」
誰かがそう漏らした瞬間、細野の体が淡く発光しはじめた。
「マジか……! 本当に、覚醒した!」
細野が叫びながら片手を前にかざす。その手のひらの上に、小さな火の玉がふわりと浮かび上がった。橙色の光が、薄暗い通路をぼんやりと照らし出す。
俺はもちろん、ゾンビの存在自体は知っていたはずの他の四人も、揃って言葉を失っていた。
「な……何だそれ! 魔法か? それに、覚醒って何だよ?!」
赤堀が声を裏返らせる。
「すごい……」
皆川は目を丸くしたまま、その火の玉に見入っていた。
「一体、どうなってるんだ……」
本田は眉根を寄せ、低く呟く。
俺に支えられたままの紗夜も、ただ黙って、その光景を見つめ続けていた。
「――動画が、上がってたんだ」
細野が続ける。
「ネットの掲示板に。ゾンビから落ちたこの石を食べた後、覚醒して、こうやって力を使ってる動画が」
「最初は誰もが、やらせだとか、編集だろって思ってた。……でも、それからたった数時間で、世界は本当にこの有様だ」
細野は開いていた手のひらを閉じ、拳を握りしめた。
「――これで、あのゾンビどもをぶっ殺せる」
誰も、その言葉に何も返せなかった。
今しがた目の前で起きたことを、まだ誰の頭も処理しきれていなかった。
――それは、自分たちが知っていたはずの世界が、既に完全な別物へと作り変えられてしまったことを意味していたから。
西暦2026年6月30日、火曜日。
それは、世界が変わった日。
後に「Old World's End Day」と呼ばれるようになるこの日は、同時に――「New World」の始まりでもあった。




