第3話
意識を引き戻したのは、音の暴力だった。
途切れることのないサイレン、低く空気を震わせるヘリコプターの羽音、幾重にも重なる悲鳴、そして時折り腹の底に響く、何かが激しくぶつかり合う音。それらが幾層にも積み重なって、ようやく俺の意識を眠りの底から引きずり上げた。
蒸し暑い、6月末の昼下がりだった。
頭の芯に、鈍く重い痛みが居座っている。二日酔いだ。喉の奥には、砂でも詰まっているような渇きがこびりついていた。
体だけが、意思とは無関係に動き出す。ふらつく足取りのまま、俺は洗面所へと向かった。
鏡の中には、見覚えのない男が映っていた。目の下には濃い隈が落ち窪み、肌には饐えた酒の臭いが染みついている。
窓の向こうの喧騒は、壁を隔ててもなお、遠慮なく耳の奥まで届いてくる。
「……何の騒ぎだよ、一体。大規模事故でも起きたか?」
自分でも呆れるくらい、軽い調子でそう呟いてみる。だが言葉にした途端、鼻先にまとわりつく異臭に、ようやく思い当たった。
――そういえば、昨夜はどこかのゴミ箱の脇に、崩れるように倒れ込んだ気がする。
「うわ、最悪だ。とにかく、シャワーだ」
服を脱ぎ捨て、蛇口をひねる。だが、蛇口から溢れ出してきたのは、冷たい水だけだった。
「は? 何だよこれ、まさかガス止められたのか? 今月分はちゃんと払ったはずだろ」
文句をぶつけたところで、蛇口が湯を吐き出してくれるはずもない。仕方なく、水のまま頭からかぶる。もうすぐ7月だという季節が味方したのか、思いのほか悪くない。むしろ、鈍っていた頭の芯まで、水と一緒に洗い流されていくようだった。
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短く息を吐き、腰にタオルを巻いたまま部屋へ戻る。冷蔵庫を開け、2リットルのペットボトルを取り出すと、そのまま口をつけて喉を鳴らした。
何気なくテレビをつける。
――映っていたのは、見慣れない画面だった。
午前11時前後のこの時間帯なら、いつもは中身のないバラエティ番組が流れているはずだ。だが画面には赤く「緊急速報」の文字が張り付き、キャスターは明らかに引きつった表情のまま、原稿を読み上げていた。
「――新宿区、渋谷区、豊島区におきましても、感染の拡大が確認され、現在は立ち入りが不可能な状態にあると、たった今、政府より発表がありました」
感染。その一語が、うまく意味を結ばない。何が、起きているというのか。
「――それ以外の地域にお住まいの方は、速やかに各自治体の指示に従い、最寄りの避難場所へ移動してください。繰り返します」
「おいおいおい……避難って、マジかよ。テロか? 爆弾か? それとも……バイオテロってやつか?」
そこでようやく、事の深刻さが、じわりと体の芯にまで染み込んでくる。俺はキャスターの声を聞き逃すまいと、画面に食い入った。
だが――その矢先、ぷつり、と何かが断ち切られる音がした。
信号が、途絶えていた。画面は無機質なノイズへと塗り替えられ、それきり何も映さなくなる。
「おい、嘘だろ! くそ、動けよ!」
思わずテレビを叩いてみたが、そんなことで機嫌を直すような代物ではない。デジタルの塊は、ただ無言でノイズを吐き出し続けるだけだった。
苛立ちのままスマートフォンを引っ掴む。だが――案の定、バッテリーは尽きていた。昨晩、酔い潰れて帰ってきたきり、充電のことなど考える余裕もなかったのだから、当然だ。
その時、窓の外で再び爆発めいた音が弾け、幾つもの悲鳴が折り重なった。
「……やば、やばい」
言葉にならない焦りに突き動かされ、服を引っ張り出す。玄関へ向かおうとして、足が止まった。
――財布がない。
身分証も何もかも、いつも財布の中だ。俺は洗面所に脱ぎ捨てたままのズボンを思い出し、慌ててそれを引っ掴んだ。ポケットを探ると、確かに指先が硬い感触を捉える。
「あった……あった、良かった」
だが、その拍子に、もう一つ小さな異物が指に触れた。
「石? ……なんでこんなもの。つーか、これ、妙に綺麗だな。心なしか、光ってる気がする」
黒く小さな石に、一瞬だけ視線を奪われる。だがそれも束の間のことだった。今はそれどころではない、と我に返り、財布と一緒にその石も、今穿いているズボンのポケットへ無造作に押し込んだ。特に気にも留めないまま。
玄関先で靴を突っかけるようにして履き、俺はそのまま部屋を飛び出した。
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アパートの外に出た瞬間、街がすでに正気を失っていることを悟った。
そこかしこで事故が起きている。扉を開け放したまま乗り捨てられた車、黒煙を上げる建物。近所の飼い犬が、何かに怯えるように、途切れることなく吠え続けている。
時折すれ違う人々は、誰もが表情を失ったまま、河原の方角へと駆けていく。
――きっと、あそこが避難場所だ。
俺もその流れに押されるようにして走り出した。だが、2、3ブロックも進まないうちに、今度は進行方向から大勢の人間が、悲鳴混じりに走り戻ってくる。
何かから逃げるように。ただ、必死に。
「まさか、避難所が襲われたのか? それとも――同時多発テロか」
彼らが押し寄せてくるより先に、俺はとっさに道を外れた。近くにあったスーパーへと、狙いを変える。
――あそこなら、食料も、水も、それに最悪薬もあるはずだ。
自分でも呆れるくらいの速さで駆けた。スーパーに辿り着いたのと、ほぼ同時だった。別方向から走ってきた五人組のグループと、視線が交わる。
言葉を交わす余裕などなかった。だが、互いに小さく頷き合っただけで、それは十分だった。
俺たちは、示し合わせたように同時に建物へと駆け込む。
「シャッターを閉めるぞ!」
叫んだ俺の隣で、五人組のうちリーダー格らしい男が真っ先に反応し、共にシャッターへと手をかけていた。




