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第2話

2025年の終わり、俺――高柳誠一(たかやなぎ せいいち)は、都内の中堅SIerでシステムエンジニアとして働いていた。入社して6年目。大きな失敗もなければ、大きな手柄もない。ただ淡々と、任された仕様書と向き合い、誰よりも丁寧にテストを重ねる。それが俺のやり方だった。


派手さはない。会議で目立つ発言をすることもない。だが、俺が組んだシステムが本番環境で落ちたことは、一度もなかった。それだけが、俺の中でひそかな誇りだった。


その日も、いつも通りの残業だった。


フロアにはもうほとんど人がいなかった。荷物をまとめ、エレベーターホールに向かうと、片方が「メンテナンス中」の張り紙とともに停止していた。仕方なく、フロアの反対側にあるもう一つのエレベーターへ向かおうとして、俺は非常階段の前を通りかかった。


その時、扉の向こうから、いるはずのない声が聞こえた。


甘さを含んだ、押し殺したような吐息。


こんな時間に、誰だ。


気になって、俺は非常階段の扉をそっと押し開けた。


――そこにいたのは、経理部の真崎愛(まさき あい)と、営業部の神崎令司(かんざき れいじ)だった。


令司の唇が愛の首筋に落ち、彼女の両腕はためらいもなくその首に回っている。壁に押し付けられた愛は、不意に高く持ち上げられた片脚を彼の腰に絡めた。スーツ越しに令司の手が彼女の胸を包み込むように揉みしだいていた。


「……だめ、誰か来たら見られちゃう」


愛の声は、拒む響きを持っていなかった。


「年末のこんな時間まで働いてる物好きなんて、他にいないさ」


令司はそう囁くと、指先に力を込める。


「それに――見られる方が、愛は燃えるんだろう? ほら、こんなに心臓を鳴らして」


二人の距離は、同僚同士のそれではなかった。誰の目にも、それが何を意味するかは明らかだった。


愛は、俺がずっと気になっていた相手だった。誰にも打ち明けたことのない、ただの片想い。そして令司は――既婚者であるはずの、営業部の先輩だ。


理解したくもない光景を前に、俺は数秒、その場に立ち尽くした。


これ以上見てはいけない。


そう思った瞬間、俺は静かに扉を閉め、踵を返した。何も見なかった。そう自分に言い聞かせながら、もう一つのエレベーターへと足早に向かう。


だが俺は、気づいていなかった。


閉まりかけた扉の隙間から、愛が――俺の背中を、はっきりと見ていたことに。


________________________________________


それから一週間も経たないうちに、俺は人事部の会議室に呼び出された。


「高柳さん。真崎さんから、相談を受けています」


人事部長の声は、静かだった。静かすぎて、逆に何かを察した。


「セクシャルハラスメントの申告です。以前から、真崎さんに対して交際を迫るような言動があった、と」

「――待ってください。俺は、そんなことは何もしていません」

「悪いけど、証人がいるの。だから、あなたの言い分は聞き入れられない」

「嘘だ! 自分はやっていないんだから、証人などいるはずがありません」

「そうかね? でも、我々が進めた聞き取り調査では、君が愛くんをいやらしい目で見ていたという者が何人もいたし、実際に彼女から相談を受けていた者も、あなたが彼女に迫っていたことを確認済みだ」


その言葉に、俺は返す言葉を持てなかった。


半分は、事実だったからだ。彼女を意識して、時々目で追っていたことは確かにある。彼女を思い浮かべたことがないと言えば、嘘になる。だが、それで実際に無理やり関係を迫るはずがない。


「――一体誰ですか。誰がそれを見たと言うんですか」

「悪いけど、教えるわけにはいかないね。相手に逆恨みでもされたら可哀想だし」


その時だった。


「いいじゃないですか。俺は構いませんよ」


会議室の扉が開き、令司が入ってくる。


「神崎さん? どうして、あなたがここに」

「俺も、証言者だからね」


その言葉に、俺は驚きを隠せなかった。


「――あなたが?」


よりによって、彼女と関係を持っていた張本人が、そんなことを言うとは思っていなかった。


「愛から直接相談を受けたんだよ。君が彼女に付きまとっていて困っている、ってね。それでこっそり後をつけていたら――年末のあの夜、まさに彼女に迫っているところを目撃した」

「は? 馬鹿な! あれは、あんたが彼女と――」

「ほらね、部長。我々の言った通りでしょう? こうなることは分かっていましたから、あなた方に頼るしかなかったんです」


人事部長は小さく頷いた。


「そうだね。それに、この情勢で会社が何も対応しないのは、悪影響が大きすぎる。だから、今回の決定をそのまま言い渡す。高柳誠一――あなたをセクハラの現行犯として、懲戒解雇とする」


________________________________________


それからの日々を、詳しく語る気にはならない。


転職サイトに登録しても、面接まで進めない。ようやく面接に漕ぎ着けても、前職の退職理由を聞かれた瞬間、担当者の目の色が変わるのが分かった。「セクハラで懲戒解雇」という経歴は、この業界の狭いコミュニティの中で、既にどこかから漏れ伝わっているようだった。


2026年、4月。新卒採用のシーズンが終わる頃には、俺はまだ何一つ決まっていなかった。


貯金は、独身の6年目社員にしては悪くない額があったはずだった。だが懲戒解雇では退職金も出ない。家賃、光熱費、食費――何も生み出さないまま出ていく金だけが、月ごとに残高を削っていく。


5月が終わる頃には、通帳の数字を見るのが怖くなっていた。


6月。もう、笑えなかった。


________________________________________



6月末のある夜、俺は蒲田の裏路地にある、古い居酒屋のカウンターに座っていた。


いつもなら一杯で切り上げる酒を、その日は何杯おかわりしたか覚えていない。


「お客さん、そろそろ出て行ってもらえますか」


店員の声で、俺は自分がカウンターに突っ伏していたことに気づいた。


「困るんですよね。これ以上は、営業妨害で訴えますよ」


その一言で、頭の奥が冷えた。


――ああ、俺は今、この店にとって迷惑な人間なんだ。


会計を済ませ、千鳥足で店を出る。夜の路上で、道の端に座り込んで動かない酔っ払いとすれ違った。かつての俺なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていた類の人間だ。


――今の俺は、その側の人間になっていた。


歩いているつもりだった。だが、足がどこに向かっているのかも、もう分からなかった。


裏路地に入り込み、ゴミ箱の脇に体を預けた瞬間、そのまま座り込んでしまった。頭が重い。視界が回る。


「くそ……! どうして俺が、こんなことに……!」


誰に届くでもなく、俺は叫んでいた。


「こんな不公平な世界なんか――壊れちまえばいいんだ……!」


その時だった。


目の前の空間に、小さな青い光が灯った。


最初は酔いのせいだと思った。だが、その光は消えることなく、じわじわと輪郭を広げていく。人一人がやっと通れるくらいの、小さな裂け目。その向こうに、見たこともない青い光が満ちていた。


――綺麗だな。


酔った頭では、それだけしか考えられなかった。誘われるように、俺はふらふらと立ち上がり、光の方へと手を伸ばす。


指先が触れた瞬間、その光は――まるで最初から何もなかったかのように、音もなく消え去った。


「……なんだ、今の」


呟きながら、俺はまたその場にしゃがみ込んだ。頭が痛い。もう、立っているのもやっとだった。


俺は気づいていなかった。あの一瞬、消えたゲートの向こうから、小さな何かがこちら側へ滑り出ていたことに。


足元を、何かが這うような感触があった。


深く考える余裕もないまま、酔いに任せた足が、勝手に反応した。


――ぐしゃり、という感触。


見下ろすと、足の下で何かが潰れていた。ネズミのような、小さな影。だが、それはすぐに輪郭を失い、粒子のように崩れて消えていく。


代わりに、その場に小さな何かが残った。


小石ほどの大きさの、黒い欠片だった。よく見れば、濃い紫にも見える。だが、その中心には、かすかな光が灯っているように見えた。


「……何だよ、これ」


酔った手でそれを拾い上げ、目の前に持ってくる。指の間で、小さな光がちらちらと瞬いている気がした。


だが、それを見つめていられたのは数秒だけだった。急に込み上げてきた吐き気に、俺はその欠片をポケットに突っ込み、近くの壁に手をついて盛大に吐いた。


――最悪だ。


込み上げるものを全部出し切ると、少しだけ頭がすっきりした。だがそれも一瞬で、押し寄せる疲労感には勝てなかった。


俺はふらつく足取りで何とかアパートに帰り着いた。靴を脱ぐ余裕もなく、そのままベッドに倒れ込む。


ポケットの中に、何か小石のようなものが入っていることも、もうどうでもよかった。


意識は、あっという間に闇に沈んでいった。

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