第1話
「――っ、まだ足りない! 誰か回ってくれ、東側が崩れる!」
俺は地面に組み伏せられながら、視界の端に浮かぶ青いウィンドウに向かって怒鳴っていた。喉元に食らいついてこようとするゾンビの顎を、両腕で必死に押し返しながら。
叫んだ拍子に、視界の端――ウィンドウの左下に常時表示されている円形のマップに、ちらりと目をやる。
中心に小さな青い点。俺自身だ。その周りを、無数の赤い点がびっしりと埋め尽くしている。ゾンビの群れ。数を数える気にもならない。
チャット欄に流れる文字が、やけに冷静に見えた。
『了解。今行く』
その一言と同時に、マップの端から一つの青い点が現れた。猛烈な速度でこちらへ近づいてくる。
次の瞬間、赤い点が――一つ、また一つと、まるで消しゴムで消されるように次々と消えていった。
『経験値を獲得しました』
視界の隅で、数字が凄まじい勢いで回り続ける。たかが数%だ。それでも、これだけ増える。ということは、今この瞬間もゾンビを斬り続けている紗夜自身は、どれほどの経験値を得ているのだろうか。
――それでも、ゾンビの数はまだ増え続けている。減った分より、さらに多く。
このままじゃだめだ。いくら紗夜が最強でも、このペースで斬り続ければ、いずれ体力が切れる。押され始める。
俺はチャットのウィンドウを開き、指を滑らせた。
『誰か手を貸してくれ。回復ポーションでもいい。今すぐ動ける人間、力を貸してほしい』
数秒の間があって、ぽつぽつと反応が返ってくる。
『ポーション、売ってもいいですよ』
『在庫あります。ショップに出しました』
ショップの画面に、いくつかのポーションが並ぶ。俺は迷わず「購入」をタップした。インベントリの中で、魔石の欠片が音もなく数を減らし、代わりにポーションが一つ現れる。
「紗夜! 今ポーションを送る! 飲んでHPとMPを回復させろ!」
叫びながら、彼女との個人チャットを開き、「アイテム転送」をタップする。彼女のインベントリへ、直接ポーションを送り込んだ。
一拍置いて、紗夜が「抽出」を押したのだろう。彼女の目の前に、小さな瓶が一つ、ふわりと浮かぶ。
刀を振るう合間、彼女はそれを一息に飲み干した。同時に、俺の画面に表示されている彼女のステータス――HPとMPのバーが、ほんの少しだけ持ち直す。
今夜は満月だ。皓々と地上を照らす月明かりを受けて、紗夜の長い黒髪は、いっそう艶やかに輝いて見えた。まるで彼女自身が、光を纏っているかのように。
その一振りごとに、紗夜の刀身から透明な光の粒子が舞い上がる。まるで空間そのものが悲鳴を上げて砕け散っているかのように、粒子はふわりと宙に溶けて消えていく。彼女が斬るたび、囲んでいたゾンビの群れが綺麗な断面を晒して次々と崩れ落ちていった。
「紗夜、一度全力を解放してくれ! そのあとで合流して結界を張ろう!」
「――了解」
紗夜が力を溜め込んだのだろう、刀の周りに、先ほど以上の粒子がきらきらと光を放ちはじめる。
やがてその光に引きずられるように、刀を中心とした空間そのものが、渦を巻くように歪んでいく。
歪みが限界に達した瞬間、パリッ、と何かに亀裂が入るような音が耳に届いた。
――空間そのものが、悲鳴を上げている音だった。
紗夜は最後の一撃とばかりに「――空絶」と短く叫び、居合のように刀を横薙ぎに振るう。
それだけで、目の前の――いや、視界の届く限りのゾンビすべてが、一斉に切断された。
最後の一体が崩れ落ちるのを見届けて、俺はようやく詰めていた息を吐いた。マップで観測できる範囲には、もうゾンビの反応は一つも残っていなかった。
仰向けのまま、砂埃の向こうに立つ人影を見上げる。
「――助かったよ」
「それはいいですけど。なんで一人で――戦えもしないのに、こんな場所まで来たんですか?」
「ここが落ちれば、拠点の皆が全滅する。だからあえて、俺が囮になった。そうすればお前が来てくれると、狙い通りだったろ?」
「そんな風に自分を囮にして、正気ですか?」
軽口を叩く余裕もないくせに、口だけは減らない。
「まぁ、正気じゃないだろうね。流石に応援が来るのが予想より遅くて、マジで死ぬかと思ったよ」
「――遅くありません。むしろ、褒めてほしいくらいです」
紗夜はそう言うと、俺に向かって手を差し伸べた。その手を掴んで立ち上がりながら、俺は思う。
まだまだ危険な状況に変わりはない。それでも、これで少しだけ時間が稼げた。
稼いだこの時間で、俺は次の手を考える。ただ、それだけだ。
――全く、一体誰がこうなると想像していただろうか。
――少なくともあの頃の俺には、欠片ほども想像がつかなかった。
――未来への希望までも失い、あの夜、世界の終わりを望んだ自分でさえも。
――本気で世界が終わるとは思っていなかった。




