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第16話

赤堀と紗夜が前へ出た。


初めて能力を実戦で使うはずなのに、二人の動きには、まるで最初からそうであったかのような自然さがあった。迷いも、戸惑いもない。まるで、体の方が先に答えを知っていたかのようだった。


赤堀が、地面を蹴った。


その一歩だけで、視界からその姿が一瞬掻き消えたように見えた。次に捉えた時には、既に迫るゾンビの懐に潜り込んでいる。バットを大きく振り抜くと――


――ゴッ。


鈍く重い音とともに、ゾンビの頭が、まるでボールでも打ち返したかのように吹き飛んだ。頭部を失った体が、力なく地面に崩れ落ちる。だが、赤堀の足はもう止まっていない。二体目、三体目。バットを振るうたびに、次々とゾンビの頭部が弾け飛んでいく。振り下ろす、というより、まるで軽く払っているだけのようにさえ見える動きだった。DEXで制御された身体強化が、その一撃一撃に、恐ろしいほどの精度と威力を与えていた。


紗夜も、負けじとバットを構え直す。


だが、その瞬間、周囲の空気が、目に見えて変わった。


――粒子。


彼女のバットの周りに、小さな光の粒がいくつも集まり、うっすらと発光し始めていた。振り下ろされたバットが、目の前のゾンビを捉える。それだけなら、まだ理解できる光景だった。


だが――明らかにバットの届く範囲の外にいたはずのゾンビまでもが、同時に切り裂かれていた。


殴ったはずなのに、切られている。


その異様な光景に、当の紗夜自身も、俺や赤堀も、そして少し離れたバリケードで戦っていた人々までもが、思わず動きを止めた。


「――す、すげえ!」

「おい、何だ、あれ?!」

「どうなってんだ、あの女……!」


驚きと戸惑いの声が、あちこちから上がる。誰もが、目の前で起きたことをすぐには飲み込めずにいた。


一方、紗夜自身の内心は、それとはまるで違う色に染まっていた。


――すごい。体の中から、どんどん力が溢れてくる。


その高揚感に突き動かされるように、彼女は再び前方のゾンビ目掛けて走り出し、バットを振るう。今度は、さっきよりもはっきりと粒子が見えた。周囲の空気が、目に見えて陽炎のように歪み始めている。


「おいおい、飛ばし過ぎだ! MP切れになるぞ!」


後方から、細野が声を張り上げた。だが、戦闘の高揚に呑まれた紗夜には、その声は届いていないようだった。


「くそっ」


細野は苦々しく舌打ちすると、すぐに俺と本田の方へ向き直った。その顔には、焦りがはっきりと浮かんでいる。


「もし今、彼女がMP切れを起こしたら、助けられない。俺と白鳥さんで魔法の援護をする。だから、お前らのどっちかが前衛に回って、彼女の援護をしてくれ。赤堀さんの方は――見た感じ、心配なさそうだ。もう一人は、こっちに残って防衛を手伝ってくれ」


俺と本田の視線が、一瞬交わった。言葉はいらなかった。


「なら、俺が行きます」

「頼む」


本田が、短くそう返す。俺は頷き、地面を蹴って、紗夜のいる方角へと駆け出した。


覚醒によって底上げされたはずの身体能力を持ってしても、紗夜との距離は、なかなか縮まらなかった。むしろ、離される一方だった。彼女の方が、明らかに速い。


肺が焼けるように熱い。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


――このままじゃ、孤立して囲まれる。


そう思った瞬間、隣を鋭い風が切る音が響いた。


――ひゅっ。


紗夜と俺の間に立ちはだかっていたゾンビが、その一撃で真っ二つに崩れ落ちる。白鳥の魔法だった。


少し遅れて、頭上を熱の塊が通り過ぎていく。スーパーで見た時よりも、明らかに一回り大きい火球だった。着弾と同時に、三体のゾンビが同時に焼き払われ、断末魔の声すら上げる間もなく崩れ落ちる。


赤堀の方も、凄まじかった。攻撃の間合いこそ狭いが、一振りごとに、ゾンビの体がお構いなしに破壊されていく。まるで、稲刈りでもしているかのような、淡々とした破壊だった。


――レベルが違う。


自分自身、スーパーでの一件で全力でバットを振るった経験があるからこそ、分かった。あの時、渾身の力を込めて放った一撃と、今、赤堀が事もなげに繰り出しているそれとでは、根本から違う。同じ「バットを振るう」という行為のはずなのに、その先にある結果が、まるで別物だった。


「星野さん!」


肺の限界を無視して叫びながら、俺はようやく彼女の隣に辿り着いた。


彼女一人で、既に十体近くのゾンビを屠っていた。それでも、群れはまだじわじわと増え続けている。マップで確認した限り、この辺り一帯のゾンビの総数は、そもそも桁が違った。バリケードの正面、こちら側、さらに少し離れた場所――合わせれば、優に百は超えている。


「星野さん、飛ばし過ぎだ! MPは大丈夫か? このままじゃ持たないぞ、ゾンビの数が多すぎる!」

「大丈夫よ。今確認したけど、まだ30近くある」


その答えに、俺は本気で驚愕した。


自分や細野は、能力を本格的に使えば、たった一回でMP切れを起こした。それなのに、紗夜はまだ、俺の初期値の満タン分――25よりも多いMPを残している。


――化け物か。


驚きに息を呑む間もなく、その驚きは、すぐに別の緊張に塗り替えられた。


マップの奥、それまで動かなかったはずのゾンビの群れが、こちらへ向けて動き出していた。密集する赤い点が、じわじわとこちらへ這い寄ってくる。


紗夜が、いち早くそれに気づく。


「――来ます!」


その声と同時に、紗夜の左右から、ゾンビが二体、じりじりと距離を詰めてきていた。


「くっ!」


俺はバットを構え、右手のゾンビへと振り抜く。赤堀のように、頭がボールのごとく弾き飛ぶほどの威力ではない。それでも、鈍い手応えとともに首から上が千切れ、そのままごとりとその場に落ちた。続けて、左手のゾンビにも一撃を叩き込む。同じように、首から上が地面に転がり落ちる。威力は劣るが、どうにか仕留めることはできた。


肩で息をしながら、周囲を見渡す余裕が、わずかに生まれた。


バリケードの方は、何とか持ち直しつつあるようだった。俺たちに気を取られたことで、あちらへ向かうゾンビの猛攻が、少しだけ緩んでいるらしい。


「押し返せ!」「今のうちだ!」


そんな怒声が遠くから聞こえてくるが、こちらはそれどころではなかった。


じわじわと近づいてくるゾンビの群れが、マップを通して嫌でも視界に入り続ける。手のひらに、じっとりとした汗が滲んだ。


細野の火球と、白鳥の風の刃が、間断なく飛んでくる。着弾するたびに、ゾンビが一体、また一体と崩れ落ちていく。だが、それでも群れ全体が減っているという実感が、少しも湧かなかった。倒しても倒しても、赤い点の密度は、ほとんど変わって見えない。


――このままじゃ、マズい。


紗夜のMPはまだ保つとしても、白鳥や赤堀、そして自分自身の体力とMPが、いつまで持つか分からなかった。額から流れる汗が、顎先から滴り落ちる。息が上がり、握ったバットの柄が、汗で滑りそうになっていた。


――本当に、まずいかもしれない。


そう思った、その時だった。


だが、その懸念は、すぐに別の意味で消え去った。


――止まった。


マップの中だけではない。実際に迫っていたゾンビたちの動きそのものが、ぴたりと止まっていた。まるで、誰かがスイッチでも切ったかのような、唐突な静止だった。


戸惑いながら、目の前のゾンビを注視する。ぴくりとも動かない。マップ上の赤い点も、固まったまま、その場に留まっている。まるで、誰かが突然、ゲームの一時停止ボタンを押したかのような、不気味な静けさだった。


「大宮さん、お前がやったのか?」


咄嗟に、そんな考えが浮かんだ。すぐさまチャットに打ち込む。


『――違います。俺じゃないです』


すぐに、そう返信が来た。


――なら、どうして。


紗夜の方を見ると、彼女も戸惑ったような顔をしていた。バットを構えたまま、視線だけがマップと前方を行き来している。その視線が、俺の視線と交わった。互いに、答えの見えない戸惑いだけを、無言で共有する。


赤堀もまた戸惑った様子だったが、それ以上に、肩で大きく息をしていた。その息の荒さだけで、彼がどれほど体力を消耗していたかが伝わってくる。


後方でも、同じように戸惑いが広がっているようだった。


『なんだか、すごく嫌な予感がします』


皆川からのメッセージが、チャットに流れる。声には出さずとも、その不安の色は、文字だけでも十分に伝わってきた。


そこで、再びマップに反応があった。奥の集団から、一体だけのゾンビが、こちらへ向かって歩いてくる。


まるで、道を開けるかのように。周囲のゾンビたちが、そのゾンビの通り道を空けるようにして、左右へとわずかに退いていた。


皆の意識が、一斉にそちらへ向いた。


そこにいたのは、一体の女性型のゾンビだった。他の個体とは明らかに違い、まだ比較的原形を保った肉体をしている。キャバクラか、それに類する夜の仕事をしていたのだろう、露出の多い服装を纏った、二十代ほどの女性だった。


金色に染めた髪が、紗夜の黒髪とちょうど対を成すように揺れていた。唇には赤い口紅が引かれている。だが、綺麗に整えられたそれではなく、頬の方まで滲むようにずれていた。


そして、目。赤く濁った瞳は、明らかに人間のものではなかった。土気色に沈んだ肌と合わせて、それだけが、彼女がもう人ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。


その女性型のゾンビは、こちらの誰にも目もくれず、ただ一人――紗夜だけを見据えていた。


紗夜も、そのゾンビを見つめ返している。


俺には、何がどうなっているのか分からなかった。ただ、緊張だけが、止めどなく汗となって噴き出していた。心臓が、耳の奥で早鐘のように鳴っている。


先に動いたのは、紗夜だった。


そのゾンビ目掛けて、バットを本気で振るう。明らかに、物理的には届かない距離だった。だが、さっきまでの攻撃は、その距離すら無視して届いていたはずだ。今回も同じように通ると、恐らく彼女は考えていた。


だが、そのゾンビは、ただ片手を軽く前にかざしただけで、紗夜の一撃を防いだ。


いや――攻撃そのものは届いていた。その証拠に、女性ゾンビの後ろや隣にいた数体のゾンビは、切り裂かれて崩れ落ちている。効かなかったのは、あの一体だけだった。


続けて、後方から放たれた細野の火球と、白鳥の風の刃も届く。だが、そのゾンビは、やはり手をかざしただけで、無傷のまま立っていた。


その一瞬、女性ゾンビの視線が、ふとこちらへ――紗夜のすぐ隣にいた俺へと向いた。


目が合った。


その瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。息ができない。体中の細胞という細胞が、生存本能の警報を鳴らしているようだった。


――嘘だろ。目が合っただけで、これか。


紗夜は、これと睨み合いながら攻撃を仕掛けていたのか――そう思うと、彼女の胆力に、今更ながら戦慄した。


だが、それも一瞬のことだった。ゾンビは、こちらに興味を失ったかのように、再び視線を紗夜へと戻す。金縛りが解けたように、ようやく息が吸えた。


その間も、女性ゾンビの視線は、ほとんどの時間、紗夜だけに固定されていた。まるで、他の誰も眼中にないとでも言うように。


肌が粟立つのを感じた。あれは、ただのゾンビではない。


紗夜が、再びバットを構え直した。これまでの構えとは違う。腰を落とし、まるで抜刀術でも仕掛けるかのような、静かな溜めのある構えだった。


彼女のバットの周りに、今度こそ、はっきりと空間が歪み始めた。先ほどまでとは比べ物にならないほどの、濃密な光の粒子が渦を巻いている。


だが、その一撃が放たれるよりも早く――そのゾンビは、一歩、後ろへ下がった。それに続くように、周囲のゾンビたちも、一斉に後退を始める。統率の取れた、静かな撤退だった。


――ゾンビを、操ってるのか?


そう思ったのは、俺だけではないはずだった。誰もが、言葉を失ったまま、その光景を見送っていた。


だが、今はそれよりも、退くべき時だった。紗夜はともかく、他の面々のMPは、もう限界に近いはずだ。


「星野さん、今のうちに引こう」


そう声をかけると、紗夜は頷き、後退を始めた。


その最中、彼女がぽつりと呟いた。


「――さっきの、あのキャバ嬢のゾンビ。あれ、私と同じ、空間を操ってたと思う。理由は説明できないけど……感覚で、分かる」


その一言に、俺は思わず声を上げた。


「おいおいおい、じゃあ、ゾンビも能力を得られるってことか?!」


「分からない。でも、多分、そういうことだと思う」


紗夜は、そう小さく呟いた。その横顔には、まだ拭いきれない緊張の色が、色濃く残っていた。

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