第11話
シャッターの内側に転がり込んだ瞬間、誰もがその場に崩れ落ちた。
腰が抜けたように、床に座り込む。荒い息が、シャッター際の売り場にいくつも重なって響いた。全身から噴き出した汗が、シャツの背中にべったりと張りついている。手足の震えは、しばらく収まりそうになかった。心臓だけが、まだ全力疾走を続けているかのように、耳の奥でどくどくと脈打っている。
だが、安堵に浸る間もなかった。
――ドンッ、ドンッ。
シャッターの向こう側から、鈍い衝撃音が繰り返し響いてくる。ゾンビが、まだそこにいる。分厚い金属の板一枚を隔てただけの距離に。
その音に、皆の顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。誰かが小さく息を呑む音がする。俺自身、心臓が縮み上がるのを感じた。
紗夜が、素早く人差し指を自分の唇に当てた。
――静かに。
言葉は一つもなかったが、その仕草だけで、言いたいことは十分すぎるほど伝わった。皆、口を噤み、息すら殺すようにして、その場に凍りつく。
無言のまま、時間だけが過ぎていく。一分か、二分か――永遠にも感じられるその間、シャッターを叩く音は途切れることなく続いていた。だがやがて、間隔が徐々に間延びしていき、そのうち完全に止んだ。
それでも紗夜は、しばらくその静寂を確かめるように、じっと耳を澄ませていた。皆、彼女の判断を待つように、身動き一つ取れずにいる。
やがて紗夜が、指先で事務所の方角を示した。
――あっちへ。
誰からともなく頷き、足音を殺しながら移動する。まだ足の震えが抜けきらないまま、俺たちは這うようにして事務所へと逃げ込んだ。
事務所の扉が閉まった途端、それまで押し殺していたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「マジで、死ぬかと思った」
真っ先に声を上げたのは赤堀だった。壁に背中を預けたまま、ずるずるとその場に座り込む。天井を仰ぎ見る目には、まだ興奮の色が残っていた。
「同感だ」
本田が、珍しく感情の滲んだ声でそう漏らす。いつもの抑揚のない口調とは、明らかに違っていた。
「私も……足が、今も震えてます」
皆川が、自分の膝を抱えるようにしながら呟いた。見れば、その手は本当に細かく震えている。
俺自身も、遅れてやってきた震えを、拳を握ることで誤魔化していた。
そこへ、非常階段を駆け下りてきたらしい足音とともに、細野が事務所に飛び込んできた。
「おい、大丈夫か? 怪我とかしてないだろうな」
その声には、屋上から見ていただけの者にしか分からない、別種の緊張が滲んでいた。
「平気だ。かすり傷一つない」
赤堀がそう答え、本田も黙って頷く。俺も自分の腕や足を軽く確かめてみたが、目立った怪我はなさそうだった。
「俺も、大丈夫」
そう言いながら、俺はようやく、部屋の隅で身を寄せ合っている二人に目を向けた。
金属バットを持っていた男子生徒と、女子生徒。まだ状況が飲み込めていないのか、二人とも放心したような顔で、床に座り込んだままだった。女子生徒の方は、時折小さく肩を震わせている。
沈黙の重さに耐えかねたのか、赤堀が一歩、二人の方へ踏み出した。
「赤堀だ。あんたらの名前、聞いてもいいか」
努めて穏やかな声だった。だがその一言だけで、二人はびくりと肩を震わせる。
「――大宮、圭吾です」
男子生徒が、意を決したようにそう名乗った。声は思いのほかはっきりとしていたが、こぶしを固く握りしめた指先が、隠しきれない動揺を物語っていた。
「し、白鳥……風花、です」
対して、女子生徒の声は明らかに震えていた。名乗るだけで精一杯、という様子だった。
それから、俺たちも順に名乗っていった。紗夜、本田、細野、皆川、そして俺。名前が一巡し、場の空気がわずかに落ち着いた頃合いを見計らって、細野が口を開いた。
「――で、聞きたいんだが」
前置きするようにそう言ってから、細野は続けた。
「何であんな数のゾンビがいる中を、真っ直ぐこの店に向かってきたんだ?」
咎めるというより、純粋な疑問といった調子だった。だがその問いに、圭吾の肩が、目に見えて強張った。
「最初は良かったんです。皆で協力して、体育館に人も集まって」
圭吾はそこで一度言葉を切り、記憶を辿るように視線を落とした。
「物資の運び込みとか、配る手伝いをしてたんですけど……その時、大人たちが話してるのを聞いたんです。『これは、やばい』って」
「やばい? まだ、この騒動が始まって一日も経ってないだろ」
赤堀が、怪訝そうに眉を寄せる。
「はい。俺も、最初はそう思いました。物資自体は、届いたばかりだったので。でも……大人たちが言うには、地震とかとは違うんだって」
「違う、って?」
「地震なら、被害を受けてない地域から、物資を送ってもらえるじゃないですか。でも、今回はそうじゃない。日本中……いや、多分、世界中がこうなってる。物資を送れるような、無事な場所自体が、どこにもないって」
圭吾は、そこで自嘲するように小さく笑った。
「正直、俺にはよく分かりませんでした。でも、それを話してた大人たちの顔が……本当に、真っ青だったんです。まだ一日なのに、この先どうなるか、もう見えてるみたいな顔で」
「なるほどな。それは、確かにそうかもしれない」
俺は思わずそう口を挟んでいた。
「俺たちも、昨日の夜、どうにか繋がってた回線で調べられた限りでも、世界中やばかったしな」
圭吾はそこで一度言葉を切り、唇を噛んだ。
「それでも、その日はまだ何とかなってました。でも……夜中に、停電が起きて」
声が、また一段と小さくなる。
「もう駄目だと思って。皆が動き出す前に、俺たちだけでも、何とか物資を確保しようって……」
「――それで、このスーパーを目指したのか」
本田が、抑揚のない声でそう繰り返す。責めているわけではなさそうだったが、その静けさが、かえって圭吾を追い詰めているように見えた。
「はい……俺が、決めました。皆に、そうしようって言ったのは、俺です」
言葉を重ねるごとに、その声はどんどん小さくなっていった。最初ははっきりしていたはずの口調が、今では消え入りそうなほど掠れている。俯いた顔は見えなかったが、握りしめた拳が、小刻みに震えているのが分かった。
まるで、自分自身の判断の軽さを、話しながら改めて思い知らされているかのようだった。
誰も、それ以上は何も言わなかった。責めるべき言葉はいくらでもあったはずだが、目の前で四人の仲間を失ったばかりの人間に、それを重ねる気にはなれなかったのだろう。
だが、細野だけは違った。
「――事情は分かったが、それでも、あのゾンビの中を進もうと思ったことが、俺には理解できない」
責めるというより、純粋に納得がいかない、という響きだった。
「なんとなく、行ける気がしたんですよ」
「は? どういう意味だよ」
「実は、学校でもゾンビが出てたんです。俺たちでそれを倒したんですけど、その時、変な石が落ちて。ネットで調べたら、それを食べた人が、超能力みたいなのに覚醒してるって話で……俺も、どさくさに紛れて、それを食べたんです」
「――じゃあ、お前も覚醒者だったのか?! どんな能力なんだ」
「覚醒者であることは、多分間違いないと思います。食べた時、すごい力が湧くような感覚になって……『あ、これならゾンビどもを簡単に殺せる』って、思ったんです。でも、映像で見た火の玉とか、水とか風を操れる感じはなくて。だから、自分がどんな能力なのか、正直よく分かってないんです」
「覚醒による万能感だけで、行けると思ったってわけか」
細野が、呆れたように呟いた。
そこまで話を聞いて、俺は今度は風花の方に理由を尋ねることにした。
「白鳥さんは、どうしてその提案に乗ったんですか」
責めるつもりはなかった。ただ、純粋に引っかかっていた。あれだけの危険を冒してでも、この場所を目指す理由が、俺にはまだよく分からなかったからだ。
「それは……」
風花は、口ごもった。視線が宙を彷徨い、言葉を探すように何度か唇が動く。
「上手く、説明できません」
風花は、そこで一度言葉を切った。額に浮いた汗を拭う仕草すら忘れているように、視線は宙をさまよったままだった。
「ただ……『ついていかなきゃ』って。そう思わなきゃいけない気がして……いえ、思わなきゃ、じゃなくて。気づいたら、もう体が動いてたんです」
その答えに、俺は思わず眉をひそめた。
自分の意志で決めた、というより、何かに突き動かされた――そんな言い方だった。
さっき聞いたばかりの圭吾の話が、頭の中で引っかかる。欠片をこっそり口にしたこと。何の能力かも分からないまま、覚醒したという自覚だけがあったこと。
――もしかして、それが原因か。
確かめる方法は、一つしか思い浮かばなかった。
「大宮さん」
俺は、静かにそう声をかけた。部屋の空気が、わずかに張り詰めるのが分かる。
「一つ、試してみたいことがある。俺と、契約してみないか?」




