第10話
体を強く揺さぶられる感触で、意識が眠りの底から引きずり上げられた。
「――高柳さん、起きてください! 緊急事態です!」
反射的に瞼を開ける。窓を塞いだままの事務所は薄暗かったが、それでも夜明け間際の淡い光が、ドアの隙間からわずかに滲み込んでいた。真っ暗というほどではない。それでも、寝起きの頭には、状況を飲み込むだけの猶予がなかった。
「……っ、な、なんだ……」
寝ぼけたまま、俺は上体を起こそうとして、床の冷たさに一瞬たじろいだ。
――そうだ。スーパーで、寝てたんだった。
一瞬の間を置いて、記憶が繋がっていく。ゾンビパンデミック。籠城初日の夜。いつもなら、ベッドの柔らかさと、スマホのアラーム音で始まるはずの朝だ。だが今、耳に届くのは緊迫した紗夜の声で、体の下にあるのは硬い床だけだった。たった一晩でこれほどまでに、朝という時間の質が変わってしまうものかと、場違いな実感が頭の隅をよぎる。
薄明かりの中に、紗夜の輪郭がはっきりと見えた。その表情に、俺は言葉を失う。
いつもの、どこか落ち着いた紗夜ではなかった。眉間には深い皺が寄り、唇はきつく結ばれている。焦りと緊張がない交ぜになった、切迫した顔つきだった。
「――時間がありません。手短に、説明します」
抑えた声色の奥に、隠しきれない緊張が滲んでいる。
「夜のうちに、電気が完全に止まりました。それと――マップに、新しい集団の反応があります。人数は六人。まっすぐこちらへ向かっています」
「六人……」
「はい。それに、もう赤堀さんたちは動き出しています」
言葉の一つ一つが、まだ半分も覚めきらない頭に、無理やり押し込まれていくようだった。停電。正体の分からない六人の集団。既に動き始めている赤堀さんたち。断片的な情報が、頭の中でうまく繋がらないまま、それでも確かな重みを持って積み上がっていく。
――寝ている場合じゃない。
その一点だけは、はっきりと理解できた。
「――分かった。ありがとう」
そう言いながら、俺は反射的にステータスを開いていた。
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名前:高柳 誠一
レベル:1
HP:25/25
MP:50/50
EXP:0/1,000
ATK:25
SpATK:25
DEF:25
SpDEF:25
STA:25
AGI:25
DEX:25
【スキル】 システム ウィンドウ
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他の数値は昨日と変わらない。だが、MPの欄だけが違っていた。
「――増えてる」
昨日までは25だったはずだ。気を失うまで使い切ったことで、限界値そのものが底上げされたらしい。数時間の睡眠を挟んだことも、無関係ではないのだろう。
チャットのタブにも、目が留まった。そこには、既に紗夜の名前が表示されている。
――そうだ。確か昨日、星野さんと契約を結んだんだった。
まだ寝ぼけていた頭に、その記憶がじわりと染み込んでくる。
「試しに、これ使ってみるか」
『これ、届いてるか?』
そう打ち込んで送信する。
視線を上げると、少し離れた場所にいた紗夜が、突然目の前に浮かんだらしい何かに気を取られて、目を丸くしていた。
「どうやら、ちゃんと届いたみたいだな」
そう呟いてから、ふと引っかかった。
――そういえば、さっき送った瞬間、何かがすっと引かれるような感覚があったな。
気になってステータスを開き直すと、MPが1だけ減っていた。
「もしかして、これを使うたびに、MPを消費するのか?」
昨夜は覚醒の興奮でろくに気にしていなかったが、システムの機能を使うたびに、こうして少しずつMPが削られていくらしい。だが、今はそれを気にしている場合ではなかった。
「星野さん。俺は裏口から出て、赤堀さんたちを手伝う。シャッターの方は、星野さんと皆川さんに任せる」
「分かりました」
「マップがあれば、ゾンビがいないタイミングを見計らって開けられるはずだ。無理はしないでくれ」
紗夜が小さく頷くのを確認して、俺は裏口へと向かった。
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外に出た瞬間、既に戦闘は始まっていた。
赤堀さんと本田さんが、それぞれ一体ずつのゾンビと切り結んでいる。少し離れた場所では、近づいてきていた集団が、いつの間にかゾンビの群れに囲まれていた。
――学生か。
制服らしきものを着た男女の姿に、俺は息を呑んだ。
「このままじゃ……!」
学生たちが飲み込まれる。そう思った瞬間、屋上から一つの火球が飛来し、群れの一体を直撃した。
その一撃で、包囲網に僅かな綻びが生まれる。金属バットを持った男子生徒と、女子生徒が一人、どうにかその隙間を抜けて走り出した。だが、残り四人はまだ群れの中で、悲鳴を上げながら攻撃を受け続けている。
「まずい!」
俺は駆け出していた。思っていたよりも、体が軽い。足が地面を蹴るたびに、これまで感じたことのない速さで景色が流れていく。
だが――遅かった。
辿り着いた時には、既に一人の女子生徒が、首筋を深く噛まれていた。
「――いやぁあああっ!」
甲高い悲鳴が、鼓膜を突き刺す。
「美咲! 誰か、美咲を助けて!」
別の女子生徒が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で叫んでいた。
「先輩! 早く、こっちに――」
男子生徒の声も重なる。誰が誰を呼んでいるのかも、もう判別がつかないほどの絶叫が、辺り一帯に響き渡っていた。
その光景に、思わず足が止まる。俺だけではなかった。赤堀さんも、本田さんも、そして逃げ延びたはずの学生二人でさえも、その場に釘付けにされたように動けずにいた。
その隙を突くように、別の方向から迫っていたゾンビの一体が、赤堀さんたちの側へと近づいていく。
――このままじゃ、あっちも囲まれる。
そう思った瞬間、再び屋上から火球が飛び、そのゾンビを仕留めた。
「しっかりしろ!」
細野の怒声が、遠くから届く。
その声で、ようやく意識が引き戻された。俺は再び学生たちの方へと走り出す。
だが、あと一歩のところで、また間に合わなかった。金属バットを持っていたもう一人の男子生徒が、無防備な背中を噛まれる。
――俺が、足を止めたせいだ。
自責の念が、胸の奥を焼いた。だが、それだけでは済まなかった。
噛まれた女子生徒の体が、びくりと大きく痙攣した。糸が切れたように地面へ崩れ落ちたかと思うと、次の瞬間には、白目を剥いたまま再び体を起こしていた。血の気を失った肌に、黒ずんだ血管が浮き上がっていく。数秒前まで恐怖に泣き叫んでいた顔は、既にその色を失っていた。
さっきまで彼女だったものが、既にゾンビへと変わり果てていた。そして、その手が――まだ生きている他の生徒たちに、牙を剥いていた。
――もう、駄目だ。あの子たちは、助けられない。
そう悟った時、甲高い悲鳴が響いた。
どうにか逃げ延びた女子生徒の方に、新たに二体のゾンビが迫っていた。
それだけじゃない。さっきの絶叫のせいで、周囲からさらにゾンビが集まってきているのが分かる。このままでは、五分と経たずに、この一帯がゾンビだらけになる。
細野が三度目の火球を放つ。だが、明らかに威力が落ちていた。ゾンビは、怯みこそすれ、倒れなかった。
――何か、武器が。
そう考えた瞬間、視界の端に、地面に転がった金属バットが映った。だが、その周りには、まだ何体ものゾンビがいる。
駄目で元々だと思いながら、俺は頭の中でそのバットへ意識を向けた。
――収納。
できた。
すぐさま、抽出する。手のひらに、確かな重みと共に、そのバットが現れる。
物そのものを、離れた場所から自分の手元へ移す――ある種の転移のような真似が、成立していた。
だが、そんなことを考えている余裕はなかった。頭の中にあったのは、ただ一つ。
――このバットを、思い切り振るう。
足を大きく踏み込み、腰を捻る。柄を握る両手に、自然と力がこもった。バットの重みが、いつもの何倍にも感じられる。
女子生徒に迫っていたゾンビへ向けて、俺は全力でそれを振り抜いた。
金属バットの芯が、ゾンビの側頭部を捉える。骨と肉を通り越し、その奥の芯まで叩き潰したような、鈍く重い手応えが両腕を伝って響いた。振り抜いた勢いのまま、頭部が弾け飛ぶ。
腕の付け根まで、じん、と痺れが走る。それでも、体は止まらなかった。
助けられた女子生徒は、目の前で起きたことが理解できないのか、腰を抜かしたまま、崩れ落ちたゾンビの残骸と俺の顔を、呆然と見比べていた。
その隙を突くように、俺は地を蹴って二体目へと詰め寄る。
「――ぐああッ!」
雄叫びとも呻きともつかない声を上げながら、俺はバットを叩きつけた。一体目より重く感じたのは、疲労のせいか、それとも覚悟の差か。頭部が弾け、視界の端で欠片が舞う。
「――はっ、はっ……」
荒い息が、自分でも驚くほど大きく喉から漏れた。
すぐ近くでは、赤堀さんが最後の力を振り絞るように咆哮を上げながら、麺棒をゾンビの頭へ叩き込んでいた。
「――終わりだ!」
本田さんも、無言のまま最後の一撃を繰り出す。三人分の息遣いと、静寂が入り混じった、奇妙な間がその場に降りた。しばらくの間、誰もが呆然と立ち尽くしていた。
その静けさを破ったのは、金属バットを持っていたはずの男子生徒――いや、リーダー格の彼だった。腰を抜かしたままの女子生徒に駆け寄ると、震える肩にそっと手を置く。
「――大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
声も、手も、震えていた。それでも、必死にそう繰り返している。
だが、その傍らでは、既に手遅れになった仲間たちの成れの果てが、まだ蠢いていた。助けを諦めざるを得なかった生徒たちの体は、一人、また一人と、白く濁った目を見開きながら立ち上がっていく。もう、誰も彼らを人間として扱うことはできなかった。
――マップを見る余裕は、もうなかった。だが確かめるまでもない。元々いた群れに、今しがたゾンビと化した四人分が加わり、さらに騒ぎを聞きつけた周辺の個体まで、じわじわとこちらへ迫ってきているのが分かる。
俺自身、息が上がりきっていた。肩越しに見える赤堀さんも、本田さんも、既に限界が近いのは明らかだった。屋上から時折届く火球も、細野の分の弱まりが誰の目にも分かるほどになっている。
――もう、駄目だ。男子生徒にも、女子生徒にも、これ以上できることは何もない。
引くしかない。だが、それでもせめて、欠片だけは手にしたかった。
「――欠片を拾ってくれ! そのまま、まっすぐシャッターへ走れ!」
声を張り上げると同時に、周囲のゾンビの意識が、こちらへ向くのが分かった。狙い通りだった。
「今すぐだ! 走れ!」
叫びながらも、俺はその場に踏みとどまった。バットを大きく振り回し、近づこうとするゾンビを牽制する。その間に、赤堀さんと本田さん、そして生き延びた学生二人が、それぞれ欠片を拾い集めながら駆け出していく。
シャッターへ近づくにつれ、それが音を立てて、地面から一メートルほどの高さまで持ち上がっていくのが見えた。マップで様子を窺っていたのだろう、紗夜が絶妙なタイミングで開けてくれたに違いない。
「――開いた!」
生徒の一人が叫ぶ。迷う間もなく、二人はその隙間へと飛び込んでいった。続けて、赤堀さんと本田さんも、身を屈めながらその下を潜り抜けていく。
「高柳さんも! 早く!」
シャッターの隙間の向こうから、紗夜の声が飛んでくる。
――俺も、行かないと。
だが、その前にどうしても欲しいものがあった。屋上の細野が仕留めた、あの二体分の欠片だ。少し離れた場所に転がっているそれへ、意識を向ける。
――収納。
手応えと共に、二つの欠片が視界から消えた。
やることは済んだ。俺は身を翻し、シャッターへ向けて駆け出す。
人間にしては有り得ない速さで、景色が後ろへ流れていった。地面すれすれまで体を沈め、そのまま滑り込むようにしてシャッターの下を潜り抜ける。
背後で、パンッ、と乾いた音を立てて、シャッターが完全に閉じきった。
外では、シャッターを叩く鈍い音だけが、しばらくの間、響き続けていた。




