第9話 波源
◆ 田中誠
カフェの窓際に座りながら、誠は川本さんの話を聞いていた。
コーヒーが来て、川本さんはカップを両手で包むようにして持った。「このビル好きなんですよね、なんか落ち着いて」と言った。
「上に何が入ってるんですか」と誠は聞いた。
「二階が歯医者で、三階が脱毛サロン」川本さんは答えた。「私は行ったことないんですけど、評判いいらしくて。友達が通ってて」
誠はコーヒーを一口飲んだ。
「田中さん?」
「すいません、聞いてます」
川本さんは少し笑って、「何か考えてますよね、いつも」と言った。責めている風ではなく、観察の報告という感じに。
「癖なんです」と誠は言った。
「何を考えてたんですか」
誠は少し迷った。
「この建物のことを、前から知っていて」と誠は言った。「三階のサロンから出る電磁波を、一度、観測したことがあって」
川本さんは目を少し開いた。「え、このビルの?」
「夜中に、向かいの花壇に座って」
川本さんはしばらく誠を見て、それから小さく笑い出した。声を出さない笑い方だった。「田中さんって、なんか、すごい人ですね」
「変ですよね」
「変だとは思わないです」川本さんはコーヒーを置いた。「ただ、想像すると、少し映画みたいで」
誠は窓の外を見た。
夜の恵比寿が、濡れた路面に光を映していた。
「その話、もう少し聞いていいですか」と川本さんは言った。
誠は川本さんを見た。
「長くなりますが」
「構わないです」
誠は、話し出した。
信号を最初に見つけた夜から、位置を特定するまでのこと。現地に来たこと。論文のこと。電話をかけたこと。机の上でメモ帳に名前を書いたことなど、ほとんど全部。
川本さんは最後まで、黙って聞いた。
「その、協力してくれた人」と川本さんは言った。「CQ、なんとかって」
「CQ_Ebisu77です」
「恵比寿に住んでる人、ですよね」川本さんは少し首を傾けた。「私の友達の元彼、アマチュア無線が趣味で、恵比寿に住んでたって言ってたんですけど」
誠は手の中のカップを、見た。
「友達というのは」
「脱毛サロン通ってる子。橘さんって人が担当で、すごく良かったって話してた友達と、また別の友達なんですけど」川本さんは少し考えるような顔をした。「なんか、狭いですね」
「……そうですね」
誠は答えながら、頭の中で静かに、線が引かれていくのを感じた。
強引に結んでいるわけではない。ただ、点と点の間の距離が、急に短くなった感覚だった。
窓の外に、雨が降り始めていた。
会計を済ませて、二人は外に出た。
川本さんが折り畳み傘を広げた。「田中さん、傘は?」
「持ってきていないです」
「じゃあ駅まで」と川本さんは傘を傾けた。
二人で歩きながら、誠はビルを振り返った。
一階のカフェの灯りが、雨に滲んでいた。三階に、まだ光があった。
「寄ればよかったですね」と川本さんが言った。誠が何を見ているか、察したらしかった。「上、まだ灯りついてるし」
「いや」と誠は言った。「それは、違う気がします」
川本さんは少し考えて、「そうかもしれないですね」と言った。
アパートに帰り、誠はコミュニティのページを開いた。
CQ_Ebisu77氏のプロフィールを、もう一度、最初から読んだ。
趣味:アマチュア無線、写真。居住:恵比寿。
八年使ったFT-991、売却しました。しばらく受信専門で続けます。
少し、環境が変わったので。
誠はメッセージを開いた。
今まで交わした会話を、最初から読んだ。技術的な話。発信源の特定。そして、
その信号を最初に見つけたとき、何かを感じましたか。数字じゃなくて。
誠は新しいメッセージを打った。
——一つだけ聞いていいですか。Salone Luceに知人が通っていると言っていましたが。
送信して、しばらく待った。
雨の音がしていた。
十五分後、返信が来た。
——はい。
——もう、通っていないんですか。
また間があった。
——その人が、通わなくなりました。
誠はその一文を、読んだ。
それ以上は、聞かなかった。
◆ 橘あかり
松田と別れて、一人になったとき、雨が降り始めた。
バッグの中に折り畳み傘があった。広げながら、あかりは来た道を少し戻った。
一階のカフェに寄っていこうと思った。コーヒーを一杯だけ。
ガラス越しに中を見ると、閉店の準備が始まっていた。スタッフが椅子を上げている。
あかりは傘を持ったまま、少し立っていた。
中に、人影がまだ一つあった。カウンターのスツールに座って、スタッフと話している。常連の客だろうか。
あかりはガラスに映る自分の顔を、一瞬見た。
今日の篤志の顔を、また思った。
引っ越すかもしれない、と言っていた。同じ場所にずっといるのがしんどい、と。
あかりはその言葉を、篤志の言葉として聞いていた。しかし歩きながら、それは自分も同じかもしれない、とぼんやり思った。
同じ場所に、ずっといる。
動いているようで、戻ってくる。
カフェの扉が、中から鍵のかかる音がした。
雨の中を、駅に向かって歩き出した。
翌日の日曜、あかりは珍しく早く目が覚めた。
雨は上がっていた。
カーテンを開けると、冬の朝の光が、低く部屋に入ってきた。
コーヒーを入れて、ソファに座った。
スマートフォンを開くと、篤志からメッセージが来ていた。深夜に送られていた。
——昨日ありがとう。引っ越し、やっぱり決めた。来月。
あかりはそれを読んで、少し考えた。
それから、こう返した。
——そっか。新しいとこ、良い場所だといいね。
送信して、コーヒーを一口飲んだ。
胸のあたりが、静かだった。
悲しいとも、惜しいとも、少し違った。
ただ静かだった。
窓の外で、鳥が一羽、電線に止まった。しばらくそこにいて、また飛んでいった。
あかりはそれを、最後まで目で追った。
月曜の朝、サロンに入ると、一号機が動いていた。
正確なリズムで、一定の間隔で。
あかりは機器の前に立って、設定を確認した。出力、間隔、冷却温度。全て、数値通り。
問題はなかった。
ただ、あかりは少しの間、その機器を見ていた。
以前の音を、まだ思い出せなかった。どんなリズムだったか。自分の手がどう動いていたか。
体が覚えていたはずのことを、体が忘れていた。
「あかりさん、一番の方いらっしゃいました」と松田が言った。
「すぐ行きます」
あかりは白衣を正して、施術室に向かった。
◆ 田中誠
月曜の朝、通勤電車の中で、誠はスマートフォンを見ていた。
コミュニティの、CQ_Ebisu77氏のページ。
昨夜の会話の後、氏は一つだけ投稿していた。時刻は深夜二時過ぎ。コミュニティへの投稿で、誰かに向けたものではない。
——信号が消えても、発信源がなくなるわけではない。
それだけだった。
誠は電車が恵比寿を通過するとき、窓の外を見た。
駅のホームが、一瞬だけ見えて、消えた。
昼休み、誠はデスクで検索をしていた。
Salone Luce、の予約ページだった。
開いて、閉じた。
開いて、また閉じた。
三度目に開いて、誠はしばらくそのままにしていた。
メニューのページに、施術の説明があった。カウンセリングから始まります、と書いてあった。初めての方でも丁寧にご説明します、と。
担当者の名前が、選べるようになっていた。
誠は画面をスクロールした。
止まった。
橘あかり、という名前の横に、「カウンセリング予約受付中」とあった。
誠はその画面を、長い間、見ていた。
コードレビューの通知が来た。桐島からだった。
誠は予約ページを閉じ、レビューのページを開いた。
コードを見ながら、頭の半分で、別のことを考えていた。
研究者と名乗った。あのとき、なぜそう言ったのかを、今は少しだけわかる気がした。
自分の本当の話をするには、まだ、何かが足りなかった。
その何かが何なのか、誠には分からなかった。
解説ノート
波源とは、波を生み出す源のことだ。
波源がなければ、波は生まれない。しかし波源がどこにあるかは、波が消えてからでないとわからないことがある。




