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第10話 焦点


◆ 田中誠


火曜の夜、誠は恵比寿にいた。

川本さんとの約束ではなかった。特に誰かと約束したわけでもなかった。

定時に会社を出て、電車に乗って、気がついたら恵比寿で降りていた。


改札を出て、誠は少し考えた。

なぜここで降りたのか、自分に問いかけた。

答えは出なかった。しかし引き返す気にもならなかった。


歩いた。

いつもの道を、いつものように。


白い外壁のビルが見えてきた。三階に灯りがついていた。一階のカフェも、まだ開いていた。

誠は初めて、そのドアを開けた。

中は、思ったより小さかった。カウンターが四席、テーブルが三つ。照明が温かみのある色で、木の匂いがした。

空いている席に座った。

ホットコーヒーを頼んだ。

窓の外に、さっき自分が歩いてきた通りが見えた。花壇の縁が見えた。あそこに座っていたのか、と思った。

外から見ると、ずいぶん人通りの多い場所だった。

コーヒーが来た。

飲みながら、誠はスマートフォンを見ていた。

CQ_Ebisu77氏の最後の投稿が、頭の中にあった。


信号が消えても、発信源がなくなるわけではない。

その意味を、ずっと考えていた。

技術的な意味は、正しい。発信源は存在し続ける。信号が受信できなくなるのは、発信源がなくなったからではなく、環境が変わったからだ。遮蔽物があるか、周波数が変わったか、受信機の感度が足りないか。

ただ、それだけのことを言いたかったのか。

ドアが開いた。

冷たい空気が、少し入ってきた。

誠は反射的に顔を上げた。

女性が一人、入ってきた。コートを着て、肩にバッグをかけていた。顔に、外の寒さが残っていた。

カウンターに座った。誠のテーブルから、二席分の距離だった。

「いつものやつ、お願いします」とその人は言った。

馴染みの客らしく、スタッフが無言で頷いた。

その横顔を、誠は特に意識せず、見ていた。

見ていて、ふと思った。

以前、見たことがあるような気がした。

いつ、どこで、という記憶はなかった。ただ、輪郭が、どこかに引っかかった。

思い出せないまま、誠はコーヒーに視線を戻した。



◆ 橘あかり


最後の施術を終えて、あかりは着替えながら松田に言った。

「先に上がってて。私、一階寄ってく」

「昨日も寄ってましたよね」と松田は言った。

「そう?」

「最近よく行きますね」

あかりは特に答えなかった。

そうかもしれなかった。先週、閉まっていてから、なんとなく気になっていた。それだけだ。


一階のカフェに入ると、スタッフが顔を見て頷いた。

カウンターに座った。

「いつものやつ、お願いします」

温かいものが、早く来てほしかった。今日は施術が四件あって、最後の客の肌が敏感で、いつもより集中していた。

飲み物を待ちながら、あかりはぼんやりと視線を動かした。


テーブルの一つに、男が座っていた。

コーヒーを持って、スマートフォンを見ている。

特に何かが印象的なわけではなかった。

ただ、一瞬だけ、どこかで見たような気がした。

それが何の記憶なのか、あかりには出てこなかった。


飲み物が来た。あかりは両手でカップを包んだ。

温かかった。

五分ほど経ったとき、テーブルの男が立ち上がった。

コートを着て、伝票を持ってカウンターに来た。

あかりのすぐ隣のレジで、会計をした。

小銭を出しながら、男は一枚、床に落とした。

あかりの足元に、転がってきた。

あかりは少し屈んで、それを拾って、男に差し出した。


「あ、すいません」と男は言った。

低い声だった。

あかりは顔を上げた。

男は少し気まずそうな顔をして、「ありがとうございます」と言った。

あかりは「いえ」と答えた。

それだけだった。

男は会計を済ませ、コートのボタンを上まで留めて、ドアを開けて出て行った。

あかりはカップに視線を戻した。

声を、どこかで聞いたことがある気がした。

どこで、とはわからなかった。

ただ、その感覚が、コーヒーを飲み終えるまで、静かに残っていた。



◆ 田中誠


カフェを出て、誠は夜の通りを歩いた。

会計時に落としたコインを拾ってくれた人の顔が、頭の中にあった。

その人が何者かということは、誠にはわからなかった。

わからなかったが

声を聞いたことがある、と思った。

どこで、とは出てこなかった。


駅に向かいながら、誠はコートのポケットに両手を入れた。

拾ってもらったコインが、指に触れた。

信号が変わって、人の流れが動き出した。

誠もその中に混じって、歩いた。

アパートに帰り、コートを脱ぎながら、誠はある記憶を探していた。

声の記憶。

電話をかけたとき。研究と名乗って、断られたとき。

「申し訳ありませんが」と声は言った。

急いでいるわけでも、怒っているわけでもない、静かな断り方。

誠は立ったまま、しばらく動かなかった。

コートが、手から落ちた。

それを拾いながら、誠は確かめるように、もう一度、声を思い出した。

今夜、カウンターで「いえ」と言った声。

電話口で「申し訳ありませんが」と言った声。

同じかどうか、誠には断言できなかった。

断言できなかったが、手が少し、震えていた。 


誠はコートをハンガーにかけて、デスクに座った。

パソコンを開いた。

Salone Luceのページを、開いた。

スタッフ紹介のページに、小さな写真があった。

誠はその写真を見た。

長い間、見た。

今夜カウンターにいた人かどうか、写真は小さくて、はっきりとはわからなかった。


誠はページを閉じなかった。

閉じる理由が、見つからなかった。

次で最終話です。


最後の表現

「閉じる理由が見つからなかった」

ってとこだけはホメてあげる。

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