最終話 初期値
◆ 田中誠
木曜の朝、誠は予約を入れた。
Salone Luceの予約ページ。カウンセリングのみ、という項目があった。施術なし、相談だけでも構わない、と書いてあった。
担当者の欄を、誠はしばらく見た。
橘あかり、の横の「予約する」を、押した。
日時は土曜の午後二時。
確認メールが来た。誠はそれを三回読んで、閉じた。
金曜の夜、誠は眠れなかった。
何をしに行くのか、と自分に問い続けた。
脱毛の相談をしに行くわけではない。それは明らかだった。研究の話をしに行くわけでもない。それも、もう違うとわかっていた。
では、何をしに行くのか。
答えを出せないまま、朝になった。
土曜の昼、誠は恵比寿に向かった。
電車の中で、何を話すか考えた。考えて、やめた。考えた言葉は、たいてい使えない。
ビルの前に着いた。
一階のカフェから、コーヒーの匂いがした。
誠は三階への階段を上った。
ドアを開けると、受付の女性がいた。
「ご予約の田中様ですか」
「はい」
「お待ちください」
待合の椅子に座った。白い壁に、観葉植物が一つ。静かで、清潔な場所だった。
奥のドアが開いた。
「田中様」
声を聞いた瞬間、誠は立ち上がるのを一瞬、忘れた。
白衣を着た女性が、立っていた。
電話口の声と、今夜カウンターで「いえ」と言った声が、誠の中で一つになった。
「どうぞ」とその人は言った。
誠は立ち上がり、カウンセリングルームに入った。
向かい合って、座った。
テーブルを挟んで、そう遠くない距離だった。
「橘と申します」と彼女は言った。「今日はどのようなご相談ですか」
誠はその顔を、初めてちゃんと見た。
写真より、少し、印象が違った。写真には映っていない何かが、目の中にあった。
「あの」と誠は言った。
「はい」
「先月、お電話したことがあります」
彼女の目が、少し動いた。
「研究室の者だと名乗って、機器のことを聞いた男です。断られました」
短い沈黙があった。
「覚えています」と彼女は言った。「あのとき、少し変わった間があって」
「はい」
「何を飲み込んだんですか」と彼女は聞いた。
誠は少し驚いた。
「……研究者というのが、嘘だったので」
「本当は?」
「システムエンジニアです。趣味で、電磁波の観測をしていて、この建物の機器から出ているパターンが、三ヶ月間、気になっていました」
彼女は何も言わなかった。
遮りもしなかった。
誠は続けた。
「信号の発信源がここだとわかったとき、向こうに誰かがいると思いました。機械だけじゃない何かが、信号を作っていると。それを確かめたかったんだと思います。ただ、確かめてどうするのか、今もわかっていないんですが」
言い終わって、誠は少し後悔した。
長すぎた、と思った。
彼女は少しの間、テーブルの上で指を組んでいた。
「先日、一階のカフェで」と彼女は言った。
「はい」
「コインを拾ったとき、声を聞いて、どこかで聞いたことがある気がしたんですが」
「私もそう思いました」
「電話のときの声だと気づいたのはいつですか」
「帰ってから」
彼女は少し目を伏せた。それから顔を上げた。
「私の施術のリズムが、信号に影響していたという話ですか」
「そう考えています」と誠は言った。「証明はできないんですが」
「証明しなくていいです」と彼女は言った。
その言葉が、誠には少し意外だった。
「なぜですか」
彼女はすぐに答えなかった。
「壊れた機械と、なんとなく呼吸が合っていたって、メーカーの人に言われたことがあって」彼女は静かに言った。「そのときも、証明できないけど、なんかそうだったんだろうと思って、それで十分だったので」
誠はその言葉を、頭の中に置いた。
そうだったんだろう、と思って、十分だった。
誠にはそういう受け取り方が、あまりできなかった。証明できないことは、宙に浮いたままになる。しかし彼女はそれを、そのまま持てるらしかった。
「あなたが観測していたとき」と彼女は言った。「私は毎日、三階にいたんですね」
「そうです」
「でも、知らなかった」
「知るはずがないです」
「不思議ですね」と彼女は言った。責めているわけでも、感心しているわけでもない。ただ、そう思っている、という言い方だった。
誠は、はい、と答えた。
それから少し間があった。
長い沈黙ではなかった。ただ、静かな時間だった。
外から、街の音が微かに聞こえた。
「田中さんは」と彼女は言った。「信号の謎が解けて、それで終わりにできなかったのは、なぜだと思いますか」
誠は考えた。
今まで、何度も自問して、答えを出せなかった問いだった。
しかし今、向かい合ってその問いを受け取ったとき、誠の中で何かが、静かに定まった。
「数字の向こうに人間がいた、と思ったのに」と誠は言った。「そのまま数字だけ見て終わりにするのが、なんか、違う気がしたんだと思います」
彼女は少し、目を細めた。
笑っているのか、考えているのか、誠には判断できなかった。
「それを言いに来たんですか」と彼女は言った。
「そうかもしれないです」と誠は答えた。
また、静かな時間があった。
彼女は組んでいた指をほどいて、テーブルの上に両手を平らに置いた。
「橘あかりといいます」と彼女は言った。今度は、名乗り直すように。
「田中誠です」と誠は言った。
窓の外に、冬の午後の光が、まっすぐに差していた。
解説ノート
物理学において、初期値とは、系の運動を決定する最初の条件のことだ。
初期値が違えば、結果は全く異なる。
しかし初期値は、それ自体では何も語らない。何と出会うか、どう作用するかが決まって初めて、意味を持つ。
【作者コメント】
もっと表現の幅を広げたい。もっとストーリーが突飛なものでありたい。
AIに書かせるのでは、到底面白い作品は生まれないのではないかと感じた。
私が書くしかないとも感じた。
今度はブレインストーミングしてから書かせてみようかな。




