第6話 透過
◆ 田中誠
金曜の夜、誠はコミュニティのページを開いていた。
CQ_Ebisu77氏のプロフィールを、もう一度読んだ。
趣味:アマチュア無線、写真。居住:恵比寿。登録:四年前。投稿数:二百十七。
投稿の履歴を、誠は初めてきちんと読んだ。
技術的な内容がほとんどだった。受信報告、周波数の記録、機器のレビュー。文章は短く、正確で、無駄がない。
誠は読みながら、この人間が信頼できると感じた。理由を言語化しろと言われれば、データの扱い方が丁寧だから、とだけ答えるだろう。
一つの投稿が目に留まった。
三ヶ月前のものだ。
——八年使ったFT-991、売却しました。しばらく受信専門で続けます。
リプライが数件ついていて、「もったいない」「何かあったんですか」という声に、CQ_Ebisu77氏は一言だけ返していた。
——少し、環境が変わったので。
誠はその一行を読んで、何かを読み取ろうとして、やめた。
他人の事情を、データから推測する癖がある。それが正しいことかどうか、誠には判断がつかない。
新しいメッセージを書いた。
——先日の件、ありがとうございました。発信源について少し続きがありまして、もし興味あればお話しできますか。
送ってから、余計だったかもしれないと思った。
コーヒーを入れて、戻ってきたら、返信があった。
——どうぞ。
翌日の土曜日、二人はコミュニティのメッセージ機能でやり取りをした。
誠は現地計測の結果を送った。スペクトラムの画像、タイムスタンプ、信号が途絶えたタイミングのログ。
CQ_Ebisu77氏の返信は、いつも短かった。
——建設的干渉の可能性、私も思いました。あのビルの西側に基地局があるので。
——施術者のリズムが関与しているという仮説は面白い。証明は難しいですが。
——そのビル、知ってます。一階のカフェ、よく行ってました。
最後の一文が、誠の目に残った。
よく行ってました。
過去形だった。
誠は少し考えてから、返信した。
——今は行かないんですか。
しばらく間があって、返信が来た。
——行く理由がなくなったので。
それきり、CQ_Ebisu77氏からの返信は来なかった。
誠はその会話を閉じ、画面を消した。
窓の外に、冬の夕方の光が落ちていた。
◆ 橘あかり
篤志から、もう一度メッセージが来たのは、土曜の昼だった。
——返事なくていいんだけど、恵比寿のカフェ、まだあかりの行きつけのとこ行けてなくて。俺が行ったら迷惑かな。
あかりはそれを読んで、しばらく置いた。
夕方になって、返信した。
——好きにしたら。
すぐに既読がついた。返信は来なかった。
あかりはスマートフォンを伏せた。
好きにしたら、という言葉を、送りながら自分でも測っていた。どこかで見ていた。篤志がどう動くか。
姉の言った言葉が、頭の端でひっそりと息をしていた。
日曜の午後、あかりは一人でその小さなカフェに入った。
習慣のように窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。文庫本を一冊持ってきたが、開かなかった。
三十分ほど経ったころ、ドアが開いた。
篤志だった。
あかりを見つけて、少し驚いた顔をした。それから、何でもないように近づいてきた。
「偶然だな」
と篤志は言った。
「偶然じゃない」とあかりは返した。
篤志は苦笑して、向かいに座った。
コーヒーを頼んで、窓の外を見て、それからあかりを見た。
一年三ヶ月ぶりに、正面から。
「変わってないな」と篤志は言った。
「そう」
「綺麗なままで、それが逆に、なんか」
「なんか?」
「なんでもない」と篤志は首を振った。
コーヒーが来た。二人は少し黙った。
不思議と、気まずくはなかった。別れた話、というよりも、長くなかった旅行から帰ってきたような、静かな時間だった。
「転職、うまくいってる?」とあかりは聞いた。
「まあ、慣れてきた。渋谷は人が多くてちょっと疲れるけど」
「恵比寿から通ってるの?」
「うん。今もあのマンション」
あかりはコーヒーを一口飲んだ。
篤志の部屋に、泊まった夜のことを、久しぶりに思った。八ヶ月の間に、何度かあった。朝、カーテンの隙間から光が入ってくる、あの部屋の。
「無線、まだやってるの?」とあかりは聞いた。
篤志は少し意外そうな顔をした。「覚えてたんだ」
「覚えてる」
「最近は受信だけ。機器、処分したから」
「なんで」
篤志は窓の外を見た。
「なんとなく」
それきり、その話題は終わった。
二人で一時間ほどいて、特別なことは何も起きなかった。昔の話を少しして、仕事の話を少しして、知り合いの近況を話した。
帰り際、篤志は立ち上がりながら言った。
「また、飯でも」
「うん」とあかりは答えた。
また、という言葉が、約束なのかそうでないのか、あかりにはわからなかった。篤志も、わかっていないかもしれなかった。
カフェを出て、二人は逆方向に歩き出した。
角を曲がる手前で、あかりは一度だけ振り返った。
篤志の背中が、人混みの中に消えていくところだった。
あかりは前を向いて、歩いた。
胸の中が、どうなっているか、しばらくわからなかった。
月曜の朝、サロンに入ると、一号機が静かに動いていた。
基板が新しくなって、クロックは正確になった。照射間隔は、今は機械が決めている。あかりの手に関係なく。
施術の準備をしながら、あかりはその音を聞いた。
一定のリズム。乱れのない、規則正しい音。
以前の、微妙にずれた一号機の音を、あかりは思い出せなかった。
どんな音だったか。
毎日聞いていたはずなのに。
【第六章・解説ノート:透過について】
光が物質を透過するとき、一部は吸収され、一部は反射され、一部はそのまま通り抜ける。何が透過して、何が吸収されるかは、光の波長と物質の性質によって決まる。




