第5話 残像
◆ 田中誠
水曜の夜、誠は恵比寿に来ていた。
今度は、荷物があった。
バックパックの中に、小型のSDRドングルとノートパソコン。押し入れで三年間眠っていたそれを、月曜日に引っ張り出してきた。ソフトウェア無線受信機と呼ばれるこの機器は、USBスティックほどの大きさで、設定した周波数帯の電磁波をリアルタイムで画面に映し出す。
雑居ビルから、通りを挟んで斜め向かい。
石造りの花壇の縁に、誠は腰を下ろした。
午後七時二十分。ビルの三階に、灯りがついていた。
ノートパソコンを開き、受信ソフトを起動する。スペクトラム・アナライザーの画面に、九〇〇MHz帯の波形が現れた。
しばらく、待った。
寒かった。手袋を持ってくれば良かった、と思った。
七時三十一分、信号が現れた。
先週観測したものと、同じパターンだ。誠は画面と、ビルの灯りを、交互に見た。
八時を少し過ぎたころ、信号が途絶えた。
顔を上げると、ビルの入口から人が出てきた。
女性だった。コートを着て、バッグを肩にかけている。外に出た瞬間、冷たい空気に顔をわずかに顰め、それから歩き出した。誠とは逆方向に。
その人かどうか、わからない。スタッフが何人いるかも、誠は知らない。
ただ、ノートパソコンの画面に目を戻すと、信号が途絶えたタイミングと、その人物がビルを出たタイミングが、ほぼ一致していた。
誠はそれを、メモした。
それ以外に、できることがなかった。
花壇の縁が、腰に冷たく染みてきた。誠はパソコンを閉じ、立ち上がった。
帰ろうとして、ふと足が止まった。
ビルの向かいに、クリーニング店があった。シャッターが半分下りていて、閉店間際の様子だった。その隣に、古い自転車が一台、鍵をかけて停めてある。自転車のかごに、黄色いビニール傘が差し込まれていた。
誠はなぜかそれを、しばらく見た。
何か思い出しそうな気がして、思い出せなかった。
帰り道、今日取得したデータをCQ_Ebisu77氏に送ろうかと思い、止めた。
うまく説明できないが、まだ見せたくなかった。
翌朝、誠はデスクで受信データを整理しながら、どうするか考えた。
現地計測はできた。仮説の検証も、ある程度できた。
ここで終わりにすれば良かった。
それでも誠は昼休みに、スマートフォンでSalone Luceの電話番号を検索した。
かけた。
呼び出し音が三回鳴り、女性の声が出た。
「はい、Salone Luceでございます」
「突然お電話して申し訳ありません」
誠は用意していた言葉を出した。
「工学系の研究をしているんですが、医療レーザー機器の電磁放射について調べておりまして、恵比寿エリアで特定の信号パターンを観測していまして、発信源が御社の機器である可能性が高いと推測しました。研究目的で少しお話を聞かせていただくことはできますか」
短い間があった。
「機器に何か問題があるということですか」
「いえ、問題ではなく」と誠は言った。「むしろ、非常に興味深いパターンで——」
「申し訳ありませんが」と声は言った。急いでいるわけでもなく、怒っているわけでもない、静かな断り方だった。
「機器の詳細については、メーカーにお問い合わせいただけますか。私どもでお答えできることに限界がありまして」
「……そうですね、失礼しました」
誠は電話を切った。
デスクに戻り、パソコンの画面を見た。
何もしていない画面が、反射して、自分の顔を薄く映していた。
研究者と名乗った。エンジニアではなく。
なぜそう言ったのか、誠は少し考えた。
答えは出なかった。
◆ 橘あかり
その夜、あかりが恵比寿の駅に向かって歩いていたとき、通りの向かいに男が座っていた。
花壇の縁に、ノートパソコンを開いて。
一人で、黙って、画面を見ている。コートを着て、少し猫背で、この寒い夜に石の縁に、特に不思議な顔もせず座っていた。
あかりは横目でそれを見ながら、通り過ぎた。
駅に着いても、その光景が残っていた。
寒そうだった、ということだけが。
アパートに帰ると、洗面台の鏡に自分の顔が映った。
目の下に、薄く疲れが出ていた。
顔を洗いながら、一号機の古い基板のことを思い出した。交換されて、メーカーが引き取って、今頃どこかの倉庫に積まれているか、溶かされているか。あのずれたクロックを持ったまま、誰にも気づかれずに。
水を止めた。
高校のとき、化学の授業で先生が言っていた言葉が、脈絡なく浮かんだ。放射性元素の崩壊は、どの原子がいつ壊れるか、確率でしかわからない。一つ一つには、理由がない、と。
タオルで顔を拭いた。
篤志からのメッセージに、まだ返事をしていない。
ソファに座り、スマートフォンを手に持った。画面を点けたまま、置いた。天井を見た。
さっきの男のことを、また思った。
寒そうだった。それだけを、もう一度。
翌朝、サロンに一本の電話が入った。
松田が取り次いできた。「研究室の方だそうで」と少し困った顔をして。
受話器を取ると、男性の声だった。落ち着いた、少し低い声。
用件を聞き、あかりはメーカーへの問い合わせを勧め、断った。
短い沈黙があって、「失礼しました」と声は言った。
電話が切れた。
受話器を置いて、あかりは資料の整理に戻った。
ただ、「失礼しました」の前の、あの短い沈黙が、少しだけ残った。
怒っているわけではなかった。言い返すわけでもなかった。ただ、一瞬——何かを飲み込んだような間だった。
松田が「何だったんですか」と聞いた。
「さあ」とあかりは答えた。
よくわからなかった。
【第五章・解説ノート:残像について】
残像とは、光の刺激が消えたあとも網膜に像が残り続ける現象だ。視細胞が強い刺激を受けると、その興奮状態がしばらく続く。物理的には光がなくなっても、神経系の中で、像は生きている。
誠とあかりは、この夜、同じ時刻に同じ場所にいた。
互いの存在を、互いは知らない。しかしそれぞれの中に、相手の残像が生まれた。あかりの中には、石の縁に座っていた男の輪郭が。誠の中には、信号が途絶えたタイミングと一致して、ビルを出てきた人影が、データとして。
そして翌日、二人は声で触れた。
それが全てだった。
ここで一つ、提示しておく事実がある。
誠に受信データの照合を助けたCQ_Ebisu77氏は、恵比寿在住のアマチュア無線愛好家だ。そのハンドルネームの末尾「77」は、居住する建物の部屋番号に由来する、とコミュニティのプロフィールに書いてある。
篤志のアパートも、恵比寿にあった。




