第4話 干渉縞
◆ 田中誠
金曜の夜、誠は飲み会に来ていた。
自分でも驚いていた。
「検討します」と言ったあの瞬間から、なぜか断れなかった。正確には、断る言葉を一度組み立てて、桐島に送ろうとして、送信ボタンを押さなかった。その状態のまま木曜が終わり、金曜になり、定時を過ぎたら桐島が「行きましょう」と立ち上がったので、誠はなんとなくそれに続いてしまった。
渋谷の、居酒屋だった。
テーブルに六人。誠、桐島、同じチームの先輩三人と、営業部の女性が一人。名前は川本さんといって、三十歳くらいで、よく笑う人だった。
誠はビールをひとくち飲んで、とりあえず枝豆を食べた。
周囲では会話が流れていた。仕事の話、上司の話、最近見た映画の話。誠は適切なタイミングで相槌を打ちながら、それ以外のことを考えていた。
考えていたのは、論文のことだ。
あの、カナダの大学の研究チームが書いた論文。全文を読んでいた中に、もう一つ、引っかかる記述があった。見落としていた部分を、今朝の通勤電車の中でもう一度読んで、気づいた。
The subject device demonstrated a unique interference pattern when operated in proximity to another electromagnetic source, producing constructive interference peaks at regular intervals. This phenomenon, if observed without context, could be mistaken for intentional signal encoding.
(当該機器は、別の電磁波発生源に近接した状態で動作した場合、一定間隔で建設的干渉のピークを示す特異なパターンを生成した。これを文脈なしに観測した場合、意図的な信号符号化と誤認される可能性がある)
建設的干渉。
二つの波が重なるとき、互いの山と谷が一致すれば振幅が増大する。その現象を、建設的干渉と呼ぶ。逆に、山と谷が打ち消し合えば振幅が減少する。それが相殺的干渉だ。
では、あの信号の規則性は——あれ自体は単純な機器のノイズだったとして——近くに別の電磁波源があったために、建設的干渉が起きていたとすれば?
誠の頭の中で、何かが組み替わる感覚があった。
シグナルの美しさは、一つの発信源が作ったものではなく、複数の波の重なりが作り出したものかもしれない。それぞれ単独では、さほど規則的ではない。しかし重なることで、奇跡的に整ったパターンが生まれる。
「田中さん、ちょっといいですか」
川本さんが話しかけてきた。誠はそこで思考を中断した。
「はい」
「田中さんって、趣味は何ですか」川本さんは少し身を乗り出して言った。「桐島くんが、田中さんって面白い趣味があるって言ってて」
誠は桐島を一瞬見た。桐島は「ごめんなさい、つい」というような顔をして、ビールを飲んだ。
「……電波の観測です」誠は言った。
「電波?」
「電磁波の。近所に流れている信号を記録して、解析するっていう」
川本さんは少し考えてから、「すごい」と言った。
「なんか、宇宙人と交信できそう」
「できないですが」と誠は言った。
少し間があって、「でも、宇宙人が電波を使って通信しているとすれば、SETIの手法が有効で——」と続けかけて、止まった。
聞かれていないことを、勝手に展開しようとしていた。
「……すいません」
「なんで謝るんですか、続き聞きたいです」
誠は少し戸惑った。
「SETIというのは、地球外知的生命体探索のプロジェクトで、主に電波望遠鏡で宇宙からの人工的なシグナルを探しています。僕がやっていることはその地上版というか、宇宙ではなく都市の中に埋もれた信号の規則性を探す、ということで」
「へえ」
と川本さんは言った。「じゃあ、街の中に宇宙人みたいな信号があった、とかいうこともあるんですか」
「あります」と誠は言った。「先週、恵比寿のサロンから出ていた電磁波が、ちょうどそういうケースで——」
そこで誠は、また止まった。
川本さんが、真剣に聞いていた。
ちゃんと、目を見て。
誠はそれに、うまく対応できなくて、少し視線を外した。コップを手に取って、水を一口飲んだ。
「面白い話ですね」
と川本さんは言った。
「もっと聞きたいです」
「……大したことではないです」と誠は言った。
「大したことだと思いますよ、私は」
誠はその言葉を、どう受け取ればいいかわからなかった。
否定しているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、そう思っている、と言っている。
誠の人生に、そういう人間は、あまりいなかった。
飲み会が終わり、誠は一人で渋谷の夜道を歩いた。
人混みをすり抜けながら、建設的干渉のことを考えていた。
二つの波が重なって、より大きな波を作る。
それは物理の話だ。しかし誠の頭の中では、その概念が別の何かに接続しようとしていた。うまく言語化できないが、今夜の川本さんとの会話が、どこかにひっかかっていた。
誠の話を、ちゃんと聞いた人間。
それ自体は、珍しいことではないはずだ。しかし誠には、珍しかった。
自分という信号は、普段、何かに吸収されるか、相殺されるかして、誰にも届かないまま消えていく。今夜は——初めて、少しだけ、届いたような気がした。
家に帰り、パソコンを開いた。
あの恵比寿のビルのことを、もう一度調べていた。
Salone Luce。光のサロン。
ウェブサイトがあった。スタッフ紹介のページに、三人の写真が出ていた。オーナーの中年女性と、スタッフ二人。そのうちの一人が、プロフィールとともに掲載されていた。
橘あかり。経験五年。お客様の肌と真剣に向き合うことをモットーにしています。お気軽にご相談ください。
写真は、小さくて、表情がよくわからなかった。
誠はその写真を数秒見て、ページを閉じた。
調べすぎだ、と思った。
何をしているのか、自分でもよくわからない。
ただ——あの信号の向こうに、名前があった。
橘あかり、という名前が。
誠はメモ帳にその名前を書いた。書いて、なぜ書いたのかわからなくて、メモを閉じた。
就寝前に、ベッドに横になりながら、誠は考えた。
建設的干渉が起きるためには、二つの波の位相が一致していなければならない。全く違う波長の波は、干渉縞を作れない。
では、人間同士が共鳴するためには——
そんなことを考えながら、誠は眠りに落ちた。
◆ 橘あかり
その週の土曜日、あかりはひとりで恵比寿のバーに行った。
行きつけのバーで、カウンターが七席だけの小さな店だ。マスターは五十代の寡黙な男性で、余計なことを聞かない。それがあかりには心地よかった。
グラスを受け取りながら、あかりはスマートフォンを確認した。
着信が一件あった。
番号を見て、少し固まった。
篤志、とあった。
八ヶ月付き合った、篤志だ。別れてから、一年と三ヶ月が経つ。
あかりはグラスを置き、着信履歴を見つめた。
折り返すか、無視するか。
三十秒ほど考えて、コールバックした。
「あかり?」
「なんで電話してきたの」
あかりは挨拶を省いて言った。
「久しぶりに声聞きたくなった」
「理由になってない」
「相変わらずだな」篤志は笑った。「元気にしてた?」
「普通に」
「俺はね」篤志は続けた。「実は三ヶ月前に転職して、今、渋谷の会社にいるんだ。で、たまに恵比寿のあたり来るから、もし良ければ飯でも」
あかりは少し間を置いた。
「今の彼女は?」
「いない」
「そう」
「あかりは?」
「私もいない」
とあかりは答えた。答えてから、少し後悔した。
「じゃあ、来週あたり」
「考えとく」
「それ断る前置きじゃないの」と篤志は笑った。
あかりは少し驚いた。
ただの「検討します」が断る前置きだと、自分では思っていた。
「……連絡する」とあかりは言った。
電話を切って、ウイスキーを一口飲んだ。
篤志のことは、嫌いではなかった。八ヶ月間、ちゃんと好きだったと思う。ただ——別れの理由は、篤志が悪かったわけではない。あかりが、ある時点で、「もういい」と思ってしまったのだ。
「もういい」という感覚は、突然来た。
夜中に篤志のアパートで、篤志が眠っている横で、あかりは突然、ここにいる必要がない、と感じた。怒りではなかった。不満でもなかった。ただ、静かに、満ちた感覚があって——満ちたから、もういい、と思った。
コップが一杯になったら、それ以上は入らない。そういう感覚に近かった。
次の朝、あかりは篤志に「別れたい」と告げた。
篤志は長い間、黙っていた。
それから「理由は?」と聞いた。
あかりは正直に「わからない」と答えた。
篤志は怒らなかった。ただ、深く傷ついた顔をした。その顔を、あかりは今でも覚えている。自分が誰かを傷つけた数少ない記憶の一つとして。
マスターがおしぼりを出してくれた。
「一人ですか」と聞かれた。
「今日は」
「いつも来られるときは一人ですよね」
責めているわけではなく、ただ観察の報告としてマスターは言っているのだろう。
「一人のほうが楽なんで」
「そうですね」とマスターは言って、グラスを磨き始めた。
それ以上は何も言わなかった。
あかりはそのことに、少し、安堵した。
日曜の昼、あかりは代官山を歩いていた。
特に目的はなかった。ただ、部屋にいると頭の中がうるさくなるので、外に出た。
書店に入り、雑誌を一冊買い、カフェに入ってコーヒーを頼んだ。
雑誌は開いたが、読まなかった。
篤志のことを、なぜか、今日はよく考えていた。
一年三ヶ月ぶりに声を聞いて、胸に何かが蘇ったかというと——蘇ったような気もするし、蘇らなかったような気もする。声は知っている声だった。でも、それだけだ。
どうして別れたのか、今でもよくわからない。
満ちた、とあかりは思ったが、それは正確な言葉だろうか。もしかすると、恐れていたのかもしれない。
さらに深くなることを。もっと必要とされることを。もっと必要とすることを。
そういう段階になる前に——コップが満杯になる前に、自分でこぼしてしまっていたのかもしれない。
カフェの窓の外を、人々が歩いていた。
カップルが通った。男性のほうが何かを話していて、女性のほうが笑っていた。
あかりはそれを見て、今度は視線を逸らさなかった。
ちゃんと見た。
笑っている女性の顔が、屈託なかった。
何かを計算していない顔。次の展開を読もうとしていない顔。ただ、今この瞬間を笑っている顔。
あかりには、あれができるだろうか。
わからなかった。
コーヒーを飲み干して、あかりは席を立った。
会計をしながら、ふと思い出したことがあった。
一号機の基板交換が、来週に迫っていた。メーカーの技術員が来て、制御基板を交換する。そうすれば、クロック信号のズレが直り、照射間隔が正確になる。電磁波のノイズも、おそらく変化する。
あの機械は、ずっとバグを抱えたまま動いていた。
バグというのは、設計と現実のズレのことだ。
意図していない動作をする部分。
あかりはカフェを出ながら、妙なことを考えた。
人間にもバグはあるのだろうか。
設計と違う動作をする部分。意図していない感情が出てくる部分。あるいは——意図していた感情が、出てこない部分。
私のバグは、どこにあるんだろう。
冬の代官山の空は、低く白かった。
街路樹が裸で並んでいて、その枝越しに、空の色が見えた。
白に近いグレー。光があるのかどうかよくわからない色。
あかりはしばらく、その空を見上げた。
月曜の朝、サロンに来ると、メーカーの技術員がすでに来ていた。
例の、眼鏡の男性だ。
「おはようございます。今日は一号機の基板交換を」
「よろしくお願いします」
技術員は施術室に入り、作業を始めた。
あかりはカウンセリングの準備をしながら、施術室の様子を時々確認した。
一時間ほどで、技術員が声をかけてきた。
「交換、完了しました。動作確認してもらえますか」
あかりは施術室に入り、機器を起動させた。
照射テストをする。出力の確認。間隔の確認。ランプの色。冷却の動作。
全て、正常だった。
「ありがとうございます」
「それと」と技術員は言った。「一号機の旧基板なんですが、面白いことがあって」
「面白いこと?」
「ログを解析したんですが、この機器、制御クロックがズレていたにもかかわらず、照射間隔が極めて規則的だったんです。本来なら不規則になるはずなのに」
あかりは少し首を傾けた。「それはなぜですか」
「おそらく」と技術員は言った。「施術者の方の操作リズムが、クロックのズレを補正していたと思われます。機械のタイミングが少しズレるたびに、無意識に調整していたのか、結果として完璧な間隔になっていた。機械と人間が、互いのバグを補い合っていた形です」
あかりは、少し黙った。
「私が、ですか」
「おそらく橘さんが施術されていたときのログです。他のスタッフの方のログと比較しても、顕著に規則的でした」
技術員は淡々と言った。技術的な報告として。
あかりはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。
機械のバグを、自分が補っていた。
知らないうちに。無意識に。
それは——自分の中に、機械のクロックと共鳴する何かがあったということだ。
あかりは技術員に礼を言い、施術室を出た。
カウンターに座り、窓の外を見た。
月曜の朝の恵比寿は、人の流れが速い。みんな、どこかへ行こうとしている。
私も、どこかへ行こうとしているのだろうか。
どこへ行きたいのか、まだ、わからない。
ただ——機械と共鳴していたという話を聞いて、あかりは妙に、安心していた。
自分の中に、何かリズムがあった。
知らなかったけれど、ちゃんとあった。
◆ 田中誠
月曜の昼、誠はデスクで弁当を食べながら、スマートフォンを見ていた。
コミュニティへの投稿を、もう一度読み返していた。
CQ_Ebisu77氏との交換メッセージ。発信源の特定。論文のURL。建設的干渉の話。
そして誠は、ある確認をしたくなった。
あの規則的な信号が、単純な機器ノイズではなく、建設的干渉によって生まれた可能性がある。それを確かめるためには、あの建物のすぐ近くで、干渉が起きうる別の電磁波源を探す必要があった。
誠は恵比寿のビル周辺の地図を開いた。
半径五〇メートルの範囲に、電磁波源になりうるものを考える。Wi-Fiルーター、防犯カメラ、電子レンジ、各種医療機器。そのうち、九〇〇MHz帯に近い周波数で動作するものは——
携帯電話の基地局だ。
誠は地図に基地局の位置情報を重ねた。
あの雑居ビルから、西へおよそ三十メートル。小さな基地局が設置されている。キャリアはauだ。auは九〇〇MHz帯を主力周波数の一つとして使用している。
つまり——あの建物のすぐ近くに、九〇〇MHz帯の基地局がある。
医療機器からの副次電磁放射と、基地局からの通信電波が重なる位置で、もし両者の位相が一致する瞬間があれば、建設的干渉によってパルスが増幅される。
しかし、問題がある。
基地局の通信は、常に規則的ではない。通信量に応じて変動する。だとすれば、干渉が規則的になるためには、別の条件が必要だ。
誠はそこで、朝食のトーストを食べながら読んでいた論文のことを思い出した。
The interference pattern showed regularity only when the device operator maintained consistent rhythmic input.
(干渉パターンが規則性を示したのは、機器の操作者が一定のリズムで入力を行ったときのみであった)
つまり——機器のノイズが規則的だったのは、機器自体の特性だけではなく、それを操作する人間のリズムが関与していた可能性がある。
誠は弁当のふたを閉めた。
橘あかり、という名前が、また頭に浮かんだ。
信号の美しい規則性の背後に、その人の手があったかもしれない。
誠はそれを、確かめる方法を考えた。
直接確かめる方法は一つだ。
あの建物の近くで、実際に計測する。
ただし、今度は機器を持っていく。
そしてもし可能であれば——施術が行われている時間帯と、そうでない時間帯で、信号がどう変化するかを比較する。
それは、技術的に可能だ。
問題は、倫理的に適切かどうかだ。
誠はしばらく考えた。
建物の外から、空中を飛び交う電磁波を受信する行為は、法的には問題がない。電波法上、傍受した内容を第三者に公開したり、通信の秘密を侵害したりしない限り、受信自体は禁じられていない。
ただ、気持ちの問題として、どうなのか。
誠はその問いを、しばらく保留にした。
弁当の残りを食べながら、誠はスマートフォンに一つのメモを書いた。
なぜ、あの信号にこだわっているのか。
答えを書こうとして、止まった。
正直に書くと、こうなる。
意味があると感じたから。
数字の向こうに、人間がいると感じたから。
誠は、そのメモをしばらく見つめた。
それは科学的な理由ではなかった。
でも、嘘でもなかった。
【第四章・解説ノート:干渉縞について】
章のタイトル「干渉縞」とは、二つの波が重なり合うことで生まれる、明暗の縞模様のことだ。光の二重スリット実験で有名なこの現象は、波が単なる足し算ではなく、位相という時間的な一致・不一致によって、増幅にも消滅にもなることを示している。
今章で明かされた事実は二つある。
一つ目。あの規則的な信号の美しさは、機器のノイズと基地局の電波と、橘あかりの手のリズムという、三つの波の重なりによって生まれていた可能性が高い。どれか一つが欠けても、あのパターンは生まれなかった。
二つ目。あかりは知らないうちに、壊れた機械のバグを自分のリズムで補っていた。機械と人間が、互いの不完全さを補い合っていた。
田中誠も、橘あかりも、それぞれ「不完全な発振器」だ。
単独では、少しずれたリズムを刻んでいる。
しかし干渉縞というものは——二つの不完全な波が出会ったとき、互いの不完全さが打ち消し合い、完全なパターンを生成することがある。




