第3話 半減期
◆ 田中誠
火曜の夜、誠は恵比寿に来ていた。
理由は、自分でもうまく説明できない。
発信源が特定できた、それで終わりにするべきだった。謎が解ければ満足する。それが誠のいつものパターンだ。
数独を解き終わったあとのパズル本のように、答えが出たものへの興味は急速に薄れる。
しかし今回は、違った。
現地を見てみたい、という衝動が残っていた。
誠はそれを「フィールドワーク」と自分に言い聞かせながら、恵比寿駅の改札を出た。夜の七時。平日の恵比寿は、渋谷よりも落ち着いた空気が流れている。洗練された、という言葉が似合う街だ。誠には少し場違いな感じがした。
地図を確認しながら歩く。
目標の雑居ビルまで、徒歩五分ほどだ。
歩きながら誠は、今日の自分の格好を振り返った。
グレーのパーカー、濃紺のジーンズ、スニーカー。髪は朝起きたときのまま。鏡を見ようとして、会社のトイレで一応確認したが、どうすれば良くなるのかよくわからなくて、そのままにした。
べつにどうでもいい、と誠は思う。
見られに来たわけではない。ただ、場所を確認したいだけだ。
三分ほど歩いたところで、目の前の信号が赤になり、誠は立ち止まった。
横断歩道を渡る人の流れが、誠の目の前を左右に流れていく。
その中に、一人の女性がいた。
コートの襟を立てて、肩掛けのバッグを持ち、少し早足で歩いている。顔は視線の角度からよく見えなかったが、歩き方に、妙な確かさがあった。目的地をはっきり持っている人間の歩き方だ。
信号が青になった。
誠は横断歩道を渡り始めた。女性とは逆方向に。
振り返りはしなかった。
理由はない。ただ振り返らなかった。
目標のビルに着いた。
三階建ての、白い外壁の雑居ビル。一階のカフェは閉店していた。二階の歯科医院も看板の灯りが消えている。三階だけ、窓から温かみのある光が漏れていた。
「Salone Luce」という看板が、三階に出ていた。
イタリア語だろうか。光のサロン、とでもいう意味だろうか、と誠はぼんやり思った。
外から眺めても、当然何もわからない。電磁波ノイズは発信されているだろうが、今夜は計測機器を持ってきていない。完全に手ぶらで来た。
何をしに来たんだ、と誠は自問した。
答えが出ないまま、しばらくビルの前に立っていた。
通り過ぎる人が、立ち尽くす誠をちらりと見て、すぐに視線を外した。
誠は踵を返し、来た道を戻り始めた。
帰り道、コンビニで弁当を買った。セルフのコーヒーも一杯入れた。
レジで店員が「ポイントカードはお持ちですか」と言ったとき、誠は「あ、はい」と答えてから、財布の中に当該のカードがないことを思い出し、「ないです、すいません」と言い直した。小さな失敗だが、なぜか少しだけ恥ずかしかった。
アパートに帰り、弁当を食べながら、パソコンを開く。
検索バーに「アレキサンドライトレーザー 電磁波漏洩 規則性」と入れた。
論文が数本ヒットした。その中の一本が、誠の目を引いた。
Electromagnetic Interference from Medical Laser Devices: A Case Study of Rhythmic Noise Patterns in 900MHz Band(医療レーザー機器からの電磁干渉:九〇〇MHz帯における規則的ノイズパターンの事例研究)
著者はカナダの大学の工学部の研究チームで、発表は七年前。
内容は、医療用レーザー機器が施術プロトコルに応じた周期的電磁放射を行うという事例報告だった。
誠は論文を全文読んだ。英語だったが、問題なかった。
読み終えて、弁当のから揚げを一つ口に入れて、天井を見た。
論文の中に一文、変な文言があったことに気づく。
In one documented case, the rhythmic EMI pattern closely resembled biological signal cadences, leading to initial misidentification as a living source.
(一例において、規則的なEMIパターンが生体信号のリズムに酷似しており、当初は生体由来の信号と誤認された)
誠は少し笑った。
自分だけが、そういう感覚を持ったわけではなかった。
世界のどこかの研究者も、機械の信号の中に「生きたもの」を感じた瞬間があったのだ。
その夜、誠はコミュニティにもう一度投稿した。
——発信源の特定ができました。医療機器由来のノイズでした。ご協力ありがとうございました。
CQ_Ebisu77氏からすぐに返信が来た。
——面白い趣味ですね。また何かあれば。
たった一行だったが、誠はそれを三回読んだ。
面白い趣味ですね。
嘲笑ではなかった。
誠は、自分が思っていたより少し、安堵していた。
その週の木曜日、誠は職場でコードレビューをしていた。
後輩の書いたコードで、変数の命名規則が統一されていない箇所があった。誠はコメントを書こうとして、止まった。
どう書けば、相手が傷つかずに伝わるか。
誠はこれが、苦手だった。コードのロジックは完璧に理解できる。しかし、それを人間に伝える回路が、誠の中ではひどく細い。
「田中さん、レビューってどんな感じですか」
後輩の桐島が、隣のデスクから話しかけてきた。二十四歳。入社二年目。明るくて、しゃべることが得意な、誠とは対極にいるような人間だ。
「……命名規則が、ここと、ここ、一貫してない」誠は画面を指さしながら言った。「直してもらえると助かります」
「あー、ほんとだ。すいません」
桐島は素直に頷いた。「田中さんって、ほんと細かいとこ見てますよね」
「……いや、基本的なことなので」
「細かいって誉め言葉ですよ。こういうの見逃す人、多いんで」
誠はどう答えればいいか一瞬わからず、「そうですか」とだけ言った。
桐島は何か言いたそうな顔をして、それから「あ、そういえば」と話題を変えた。
「田中さん、最近どっか行ってますか。飲みとか」
「あ……特に」
「今週金曜、チームで軽く飲もうって話になってるんですけど、どうですか」
誠は一瞬、断る言葉を探した。
「……検討します」と、誠は言った。
桐島は「ぜひぜひ」と言って、自分の作業に戻った。
誠は画面に向かい、コードレビューの続きをした。
検討します、というのは、断る前置きとして使う言葉だ。誠は自分でそれをわかっていた。
ただ今回は、少しだけ、気持ちが揺れていた。
恵比寿に行った夜のことを、なぜか、思い出した。
◆ 橘あかり
木曜の昼休み、あかりは久しぶりに姉に電話した。
姉の名前は橘真由。三十五歳。既婚、子供が二人。埼玉に住んでいて、専業主婦をしている。あかりとは六歳違いで、性格も生き方も、何もかも違う。
「あかりから電話してくるの珍しいじゃない」と真由は言った。
「そうかな」
「そうだよ。どうしたの、男に振られた?」
「違う」あかりは少しむっとして言った。「普通に連絡したらダメなの」
「全然ダメじゃないよ、嬉しいよ。で、どうしたの」
「なんか……最近、ちょっと変な感じで」
「変な感じ?」
「なんていうか」
あかりは言葉を探した。
「仕事は普通にして、帰って、ご飯食べて、それで、なんか、何やってるんだろうって思う瞬間がある。たまに」
電話の向こうで、真由が少し黙った。
「それ、ずっと前からじゃない?」
「え?」
「あかりって昔からそういうとき、あったじゃない。中学のころとか、ふっと黙って、どこか遠くを見てるやつ」
あかりは少し考えた。
「……覚えてない」
「あるよ。お母さんもそれ、心配してた。でもあかりはそのあとすぐけろっとするから、体質みたいなもんかと思ってたよ」
「体質」とあかりは繰り返した。
「でも最近はそれが続いてるの?」
「続いてるっていうか……なんかね」あかりはカフェの窓の外を見た。
「たとえばさ、お客さんが『彼氏に褒めてもらった』とかって話してくれるじゃない、施術中に。それ聞いて、なんか変な感じがした。悪い気持ちじゃないんだけど、なんか。うまく言えない」
「羨ましかったんじゃないの」
「羨ましいとも、ちょっと違う気がする」
「あかりはいつも、ちょっと違う気がする、って言うのよ」
真由は少し笑いながら言った。
「昔から。好きか嫌いかも、ちょっと違う気がするって。嬉しいのか悲しいのかも」
「……そう?」
「そうよ。あかりは感情の解像度が高すぎるんだよ。ざっくり言えることを、ざっくり言えなくて、ずっと考えてる」
あかりは少し、意外に思った。
そんな見方をされているとは、思っていなかった。
「それって、いいことなの?悪いことなの」
「さあ。どっちでもあると思う」真由は言った。「でも少なくとも、鈍いよりはいいと思うよ」
「お姉ちゃんは鈍いの?」
「鈍いよ、私は。結構鈍くないと、専業主婦と二人の子育ては難しいもん」
あかりは少し笑った。
「今の彼氏は?」と真由が聞いた。
「いないかな、もう」
「またすぐそうなる」
「なんで責めるの」
「責めてないよ。ただあかりって、人と付き合うとき、何かを試してる感じがするの。この人が、どこかのタイミングで、どう動くか、見てるみたいな。それが本人にもわかってないんじゃないかと思って」
あかりは黙った。
「……試してるつもりはない」
「そうだと思う。でもなんかそう見える」
電話を切ったあと、あかりはコーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
真由の言葉が、頭の中で静かに回っていた。
何かを試してる感じがする。この人が、どこかのタイミングで、どう動くか、見てるみたいな。
違うと思う。でも、完全に違うとは、言い切れない。
あかりは恋愛において、いつも少し——冷めた目を持っていた。自覚はなかったが、言われてみると、心当たりがある。好きになると同時に、冷静な自分がいる。この人はどういう人か。どこかで試されたとき、どう反応するか。
それは観察だろうか。それとも防御だろうか。
わからなかった。
サロンに戻ると、午後の予約が入っていた。
一件目は常連客で、話し好きな四十代の女性だった。施術をしながら、その客は話し続けた。子供の受験のこと、夫の出張のこと、近所のカフェが閉店したこと。
あかりは適切な相槌を打ちながら、手を動かしていた。
話の内容を全部聞いているわけではない。でも、客の声の調子は聞いている。緊張しているか、リラックスしているか。痛みを我慢しているか、していないか。その情報は、声の中にある。
二件目は、二十代の若い女性だった。
初来店で、少し緊張していた。
カウンセリング中に「痛くないですか」と二度聞いてきた。
あかりは「人によります。でも私がちゃんと調整するので、大丈夫ですよ」と答えた。
「橘さんって、ベテランですか」と客は聞いた。
「五年になります」
「信頼できそうです」と客は言った。
あかりは微笑んだ。
施術を始めると、客は少し緊張で身体を固くした。あかりは照射の前に「今から始めますね」と必ず声をかける。それだけで、多くの客の身体が少し緩む。予告があれば、構えられる。構えられれば、怖くなくなる。
あかりはそれを、経験で学んでいた。
人間の身体も、心も、突然のことに弱い。
だから予告する。準備させる。
でもそれは——あかりは施術をしながら、ぼんやり思った——自分の恋愛でも、同じことをしているかもしれない。相手が何をするかを、先に読もうとする。驚かないように。傷つかないように。
結果として、本当に驚くことがない。
本当に傷つくことも、ない。
本当に——嬉しいことも、少ないのかもしれない。
施術が終わり、若い客は「ありがとうございました、また来ます」と言って帰っていった。
あかりは後片付けをしながら、そのことをしばらく考えた。
施術室には、三号機だけが残っていた。一号機は基板交換を待っている。二号機は今日の午後から使っている。三号機は、先週から出力が微妙に安定している。
あかりは三号機の設定パネルをもう一度確認した。
出力レベル、照射間隔、冷却ガス温度。全て正常値の範囲内。
問題ない、とあかりは判断した。
でも、念のため、次の施術の前にもう一度確認しようと思った。
その夜、あかりはひとりでワインを飲んだ。
高いワインではない。近所のスーパーで買った、千円のボルドー。
グラスに注いで、ソファに座って、何となくテレビをつけて、音を消した。画面の中で、誰かが何かを話している。
スマートフォンを手に取り、連絡先を開く。
男の名前がいくつかある。
ケイタ。その前の篤志。その前の健太郎。その前の——誰だっけ、と一瞬思って、すぐに思い出した。渡辺、だ。
二十七のとき。
いちばん長く付き合ったのは篤志で、八ヶ月。短かったのはケイタで、実質三週間。長さと深さが、比例しているわけでもなかった。八ヶ月の篤志より、三ヶ月の誰かのほうが、よく笑っていた記憶がある。
好き、という感情が、あかりの中でどう発生して、どう消えていくのか。
それを考えたことがなかったわけではない。
ただ、考えるより先に、次が始まっていた。
真由の言葉が、また頭に浮かんだ。
感情の解像度が高すぎるんだよ。
あかりはワインを一口飲んで、スマートフォンを伏せた。
解像度、という言葉が、仕事で聞く言葉と重なった。
フィッツパトリックスケールで肌を六段階に分類するように。照射出力を〇・一ジュール単位で調整するように。あかりは物事を細かく区別する。感情も、おそらくそうやって細かく区別するから、「これが恋愛感情だ」とひとまとめにできない。
ひとまとめにできない感情は、行き場を失って、静かに積もっていく。
ワインが半分になった頃、あかりはふと思った。
私のことを、知らない人が、どこかで観察したとしたら、どう見えるのだろう。
外側から見た橘あかりは、どんな信号を出しているのだろう。
その考えが、なぜそこで浮かんだのか、わからなかった。
ただ、浮かんで、消えた。
【第三章・解説ノート:半減期と感情の減衰について】
章のタイトル「半減期」は、放射性元素が崩壊して元の量の半分になるまでの時間を指す物理学的概念だが、ここでは二重の意味を持つ。
一つは、医療レーザー機器の照射エネルギーが組織内で減衰していく過程のこと。光子が生体組織を透過するとき、Beer-Lambertの法則に従い、深度とともに指数関数的に強度が落ちる。どこまで届くかは、光の波長と組織の吸収係数によって決まる。あかりの手は、その減衰の具合を経験として知っている。
もう一つは、誠とあかり、それぞれの感情の減衰のことだ。
誠の孤独は、傷つくことを恐れて選択した非接触の結果であり、時間とともに半分になるのではなく、むしろ密度を増しながら凝縮していく。あかりの愛着は、発生した瞬間から減衰が始まり、一定の半減期を経て消えていく。




