第2話 漏れる
◆ 田中誠
土曜の朝、誠は珍しく早起きをした。
早起きといっても八時二十分で、世間的には普通の時刻だが、誠の週末としては異常に早い。いつもは昼近くまで惰眠を貪り、起き上がった頃には午後の光が部屋に差し込んでいる。
しかしこの朝は、目が覚めた瞬間から頭が動いていた。
あの信号のことを、考えていた。
三畳ほどのワンルームに、デスクとベッドと機材ラックがひしめき合っている。起き上がると自動的に仕事スペースの前に座れるという、ある意味で完成された空間だ。
誠は寝癖のついた頭に手をやりながら、昨夜の解析データを開いた。
相関係数 〇・九七三。
やはり、高すぎる。
自然界のノイズがこれほど規則的になるケースは、理論上ほぼありえない。共振器を持つ何らかの機器が、定期的に電磁波を放出しているはずだった。
誠は周波数帯の特性を再度調べ始めた。九〇〇MHz帯は通信用途が多いが、このパルス波形は通信プロトコルのどれとも一致しない。波形の立ち上がりと減衰が、どこか生物的なリズムを持っている。
――生物的。
誠は自分が使った言葉を反芻して、苦笑した。
感情的な表現だ。
データに感情を持ち込むのは、エンジニアとして最も避けるべき態度のひとつだと、新卒のときに上司から言われた。
その上司は三年後に会社を辞めて農業を始めたので、言葉の重みがどの程度のものだったかは不明だが。
コーヒーメーカーを起動させ、誠はホワイトボードに数式を書き始めた。
信号の発信源を特定するためには、複数の受信ポイントからのデータが必要だ。今は自分のアンテナ一点からの計測しかない。これでは方向はわかっても、距離の推定が大雑把になる。
そこで誠は、ある手を思いついた。
都内のアマチュア無線愛好家コミュニティに、こっそり参加していた。
正確には「こっそり」ではなく、二年前に登録したきり一度も発言をしていないため、存在を誰にも認識されていない状態で参加している。そこに、協力を求める投稿をしてみようと思った。
渋谷・恵比寿エリアの九〇〇MHz帯で、特定のパルスパターンを受信した方はいますか、と。
投稿文を三回書き直した。
最初の文は長すぎた。次の文は専門用語が多すぎた。三回目は、なるべく平易に、しかし必要な情報は全て含む形にした。それでも送信ボタンを押すまでに、十七分かかった。コミュニティへの初投稿ということもあったが、それより誠が恐れていたのは、
「そういうこと知ってどうするんですか」
という返信だった。
意味のないことに情熱を注いでいることへの、他者からの軽い嘲笑。
誠の人生には、それが何度かあった。
中学のとき、太陽系の惑星の自転周期を全て暗記して友人に話したら、「お前って変わってるな」と言われた。高校のとき、校舎の電気系統の改善案を先生に提出したら、「余計なことしなくていい」と返ってきた。大学のとき、サークルの飲み会で電磁波の話をしていたら、いつの間にか輪から外れていた。
だから誠は、ひとりで考える。
ひとりで調べ、ひとりで解析し、ひとりで結論を出す。それが最も傷つかない方法だった。
送信ボタンを押し、コーヒーカップを手に取った。
ぬるかった。
昼過ぎ、コミュニティに返信が来た。
ハンドルネーム「CQ_Ebisu77」という人物からだった。文面は短い。
——渋谷区、恵比寿寄りで受信してます。タイムスタンプ送ってもらえれば照合できますよ。
誠は思いのほか素直に嬉しかった。
すぐにデータを整理して送付する。CQ_Ebisu77氏との受信地点の差は、地図上でおよそ四〇〇メートルほどだろうと推定できた。二点のデータがあれば、電波強度の逆二乗則と位相差を用いて、発信源を絞り込める。
三角測量の原理だ。
正確には「電波源標定」と呼ばれる技術で、複数の受信点から得た信号の到達時間差(TDOA:Time Difference of Arrival)を利用して、発信源の位置を計算する。
GPSもこの原理を利用しており、衛星からの信号到達時間差から地上の受信機の位置を割り出している。誠はその逆を、地上の観測点から電波源の位置を求めるために使おうとしていた。
一時間後、CQ_Ebisu77氏からデータが届いた。
誠はすぐに計算を始めた。
TDOAに基づく位置推定式を組み、受信強度の補正をかけ、地形による電波減衰を考慮した補正値を加える。計算の途中、誠は完全に没頭して、コーヒーが完全に冷めたことにも、昼食を摂っていないことにも気がつかなかった。
結果が出た。
誠は計算結果と地図を重ね合わせた。
発信源は、恵比寿の一角を指していた。半径二〇メートル程度の誤差範囲で、特定の区画に絞り込まれている。地図のレイヤーを切り替え、衛星写真に重ねる。その座標に存在するのは、小さな雑居ビルだった。
誠はGoogle Mapsでその住所を検索した。
ビルのテナント情報が出てきた。
一階:カフェ。二階:歯科医院。三階:美容脱毛サロン。
美容脱毛サロン。
誠は画面を見つめた。
光脱毛あるいはレーザー脱毛の機器が、電磁波ノイズを出している可能性がある。
そういえば、医療レーザー機器の放射ノイズに関する論文を読んだことがあった気がした。アレキサンドライトレーザーやダイオードレーザーは、照射時に九〇〇MHz帯付近の副次電磁放射を伴うことがある。機器の状態が悪いと、そのノイズパターンが不規則になる。
ただし、一号機の波形があれほど規則的だったのは、なぜか。
誠はしばらく考えた。
そしてひとつの仮説を思いついた。
レーザー照射の間隔が、施術のプロトコルによって規則化されていたとすれば、電磁漏洩のタイミングも当然規則的になる。
つまり、あの「美しいパルス」の正体は、誰かの肌への、規則正しい光の照射だったということになる。
誠は不思議な感覚を覚えた。
信号の向こうに、人間がいた。
コンピュータが生成した信号ではなく、生身の人間が関与した、生きた信号。誠が三か月間追いかけていたパルスは、誰かの身体に光が当たるたびに、夜の空間に染み出していた電磁波だったのだ。
誠はしばらくそのことを考えた。
それから、ふいに、自分がしていることが非常に不思議なことのように思えた。脱毛サロンに通う誰かの、施術の記録を、電波として拾い続けていたわけだ。他意はなく、知識もなく、ただ数字の規則性に引き寄せられてそこまで来てしまっていた。
誠は画面を閉じ、窓の外を見た。
土曜の昼の光が、部屋に差し込んでいた。
あの信号を出した人間は、今も恵比寿のどこかにいるのだろうか。あるいは全く違う場所にいて、電磁波のことなど何も知らずに、ただ自分の生活を送っているのだろうか。
おそらく後者だ、と誠は思った。
世界の大半の人間は、自分が信号を出していることを知らない。
◆ 橘あかり
「一号機、また止まった」
松田が施術室から顔を出して言った。
土曜の午後。サロンは三件の予約が入っていて、あかりは三件目の施術を終えたばかりで、カウンターで記録を付けていた。
「月曜にメーカー来るんでしょ。それまで二号機と三号機で回して」
「でも三号機も出力がちょっと不安定で——」
「だったらメーカーに電話して、今日来てもらうから」
あかりは事務的に言った。
「週末料金がかかっても仕方ない。機械が不安定な状態で施術したら、クレームのほうが高くつく」
「はい」と松田は素直に頷いた。
あかりは記録の続きを付けた。今日の客は三人。一人目は毎月通っているOLで、仕上がりは良好。二人目は初めての客で、肌が敏感なタイプ。出力設定を慎重に調整した。三人目は——とそこまで書いて、あかりは少し止まった。
三人目の客は、三十代くらいの女性で、来店するたびに男の話をする。
今日は「彼氏ができた」という報告だった。嬉しそうで、顔が輝いていた。
「脱毛、続けてよかった。彼氏に褒められました」と客は言っていた。
あかりは「よかったですね」と微笑みながら施術を続けた。
その「よかったですね」が完全に本心だったかどうか、自分でも判断がつかなかった。嫌みのつもりはなかった。ただ、何かが自分の内側で、わずかに軋む音がした。嫉妬とも違う。羨ましいとも少し違う。もっと奥の、言葉になりにくい場所の感覚だった。
昼の休憩を取るために、あかりは近所のカフェに入った。
ドリップコーヒーとサンドイッチを頼んで、窓際の席に座る。土曜の恵比寿は人が多い。カップルが、友人同士が、年配の夫婦が、思い思いに午後を過ごしている。
スマートフォンを開く。
ケイタからはあれ以来、連絡がない。
あかりも送っていない。こういうとき、自分から送るべきかどうか、いつも少し考える。考えて、だいたい送らない。向こうから来ないなら、そういうことだから。あかりはそうやって関係を終わらせてきた。終わらせているというより、終わるのを待って、確認している、という感じに近い。
コーヒーを飲みながら、窓の外を眺めた。
隣のテーブルに若いカップルが座っていて、女性のほうが何か熱心に話していた。男性のほうは、それを少し照れくさそうに聞いていた。
あかりはその光景から、すぐに目を逸らした。
なんとなく、見ていると落ち着かなかった。
午後の施術が終わり、メーカーの技術員が来てサロンの機器を点検した。四十代くらいの、眼鏡をかけた地味な男性だった。あかりは接客対応で立ち会いながら、技術員の説明を聞いた。
「一号機の問題は、照射ユニットの制御基板の経年劣化です。出力タイミングのクロック信号が微妙にずれていて、それが照射間隔の乱れとして現れています」
「直せますか」
「基板交換が必要です。部品は来週取り寄せられます」
「では来週また来ていただけますか」
「はい。それと——」技術員はカルテを見ながら言った。
「先週の使用ログを見ると、出力レベルが標準プロトコルより少し低めに設定されていますね。意図的ですか?」
「二番目の施術ユニットのことですか?はい、お客様の肌質に合わせて調整しました。メラニンが少なくて、標準設定だと炎症のリスクがあると判断したので」
あかりはそう答えた。
技術員は少し驚いたような顔をした。
「詳しいんですね。こちらの機器のフィッツパトリックスケールと出力の関係まで把握されている方は、施術者の方では珍しいです」
「仕事ですから」
あかりは短く答えた。それ以上でも以下でもなく。
技術員が帰ったあと、松田が
「さすがあかりさん」と言った。
あかりは「別に」と首を振った。
仕事は好きだ、と思う。機械のことはよくわからないけれど、肌のことはわかる。人がどんな状態のとき、どんな光の加減で、どう反応するか。それは数字で覚えたというより、経験と感覚で積み上げてきたものだった。
フィッツパトリックスケールというのは、皮膚のメラニン量によって人間の肌タイプを六段階に分類したもので、脱毛施術においては照射出力の基準になる指標だ。肌が白いほど(タイプⅠ・Ⅱ)レーザーが色素に反応しやすく、出力を抑えないと周辺組織にダメージが及ぶ。あかりはその加減を、理屈より先に手が覚えていた。
着替えをしながら、あかりはぼんやりと思った。
私には、肌を見る目がある。
でも、人を見る目は、あるんだろうか。
コートを羽織り、スマートフォンをポケットにしまって、サロンを出た。
夕暮れの恵比寿は、橙色の光に満ちていた。ビルのガラスが光を反射して、街全体が照り輝いているように見える。
あかりは立ち止まり、光の中に立った。
脱毛施術のレーザー光は、特定の波長の光がメラニン色素に選択的に吸収されることで熱エネルギーに変換され、毛根を破壊する。使われるのは、たとえばアレキサンドライトレーザーなら七五五ナノメートル、ダイオードレーザーなら八〇〇〜八一〇ナノメートル。いずれも人間の目には見えないか、ほとんど見えない波長だ。
見えない光が、誰かの身体を変えていく。
あかりは毎日それをしている。
しかし今、街を染めているこの橙色の夕陽のことを、あかりは光だとは思わずに眺めていた。ただ、きれいだと思った。
それだけでいい、と思った。
全部わかる必要はない。
その夜、自分のアパートに帰ってひとりでご飯を食べながら、あかりはふと、脱毛機器から電磁波が漏れているという技術員の言葉を思い出した。
正確には、制御基板のクロック信号がずれていると言っていた。
ということは、先週まで、あの機械は——誰かに向かって——何かを送り続けていたのだろうか。
考えても意味のないことだと思いながら、あかりはリモコンでテレビをつけた。
部屋に、笑い声が流れてきた。
【第二章・解説ノート:三角測量と選択的吸収について】
誠が用いたTDOA(到達時間差)による電波源標定は、GPS測位の逆問題であり、複数の受信点から信号の到達時間差を計測することで発信源の位置を三角形の頂点の交点として絞り込む技法である。計算上は二点の受信データで発信源の位置を双曲線上に絞れるが、精度を上げるには三点以上のデータが必要になる。今回の推定に二〇メートルの誤差が残るのはそのためだ。
一方、あかりが直感的に扱っている「選択的吸収」の原理は、物理学で言う「選択的光吸収」そのものである。特定の波長の光だけが特定の物質に吸収されるという性質は、量子力学的には電子の遷移エネルギーと光子のエネルギーの一致によって説明される。あかりはその方程式を知らない。しかし彼女の手は、その結果を知っている。
知ること、と、感じること。
ふたりはそれぞれ、世界の別の半分を生きている。




