第1話 ノイズの中に
◆ 田中誠
コードを書いていると、時間というものが溶けていく。
田中誠はそれを長所だと思っていた。少なくとも、二十代のころはそう思っていた。
三十四歳になった今は、それが長所なのか逃避なのか、もうよくわからなくなっている。
午後十一時を過ぎた渋谷のオフィスビル、十四階。フロアには誠一人が残っていた。隣のデスクに脱ぎ捨てられたままのパーカーが、まるでそこに人間がいるように見えて、誠は一度だけそちらに目をやり、すぐに視線をモニターに戻した。
画面には、グラフが広がっていた。
仕事とは無関係の、個人的なデータだ。誠は三か月前から、近所の電磁波ノイズを趣味で記録している。総務省の周波数割り当て表を頭に入れたうえで、割り当て外の微弱な信号を拾い、その中に埋もれた規則性を探す。他人に話しても「は?」という顔をされるだけなので、誰にも話したことはない。
もっとも、話す相手がそもそも多くはなかった。
その夜、誠の目を引いたのは、渋谷区の某所から発信されている微弱なパルス信号だった。周波数帯は九〇〇メガヘルツ付近。ISMバンドにも医療機器の割り当て帯域にも微妙にかかっていて、分類が難しい。しかし問題はそこではなかった。
パルスの間隔が、妙に美しいのだ。
誠はイヤホンを外し、データをスプレッドシートに貼り付け、等差数列との相関を計算し始めた。数字の中に潜む意図のようなものを感じると、彼の集中力は別の次元に入る。コーヒーが冷めていくことにも、雨が窓を叩き始めたことにも、気づかなかった。
シグナルの発信源は、渋谷から恵比寿にかけての一帯だと推定できた。
誠はメモ帳に座標を書き留めた。
手書きの文字は、自分でも驚くほど汚い。小学校の担任に「田中くん、字が読めません」と言われて以来、諦めた分野だ。
スマートフォンに通知が来た。配達完了、とある。
弁当を受け取るために立ち上がると、膝が音を立てた。座りすぎだと、先月の健康診断で言われた。BMIは正常範囲内だが、筋肉量が少なく骨密度がやや低い。医師には「もう少し外に出てください」と言われた。「外に出ても何もないんで」と言いそうになって、飲み込んだ。
玄関で弁当を受け取り、戻りながら窓の外を見る。
雨の中、傘もさして歩く人影がいくつか見えた。みんなどこかに帰る場所がある、と誠は思った。そういう当たり前のことを当たり前に実行できる人間が、誠にはずっと少し不思議だった。
デスクに戻り、弁当のふたを開けながら、もう一度グラフを見る。
等差数列との相関係数は、〇・九七三。
ほとんど完全な規則性だ。
自然現象にしては、きれいすぎる。
誠はご飯を一口食べ、手を止め、しばらく画面を見つめた。誰かが、信号を送っている。そんな非科学的な感覚が、一瞬だけ胸をかすめた。
◆ 橘あかり
最後の客を見送ったあと、橘あかりはカウンターに肘をついて、天井を見上げた。
「あかりさん、今日も壊れましたよ」
同僚の松田が、施術室の奥からひょこっと顔を出して言った。機械が、ということだ。
サロンに三台あるうちの一号機で、照射間隔がときどき乱れる。エラーログを吐いては復旧する、という動作を繰り返している。
「また? メーカー呼ばないと」
「月曜に来るって言ってました」
「ふうん」とあかりは答えた。
正直、機械のことはよくわからない。波長がどうとか、フルエンスがどうとかいう説明を受けても、実感が湧かない。大事なのは客の肌に何が起きるかであって、光の物理的な性質ではない。そういう割り切り方が、あかりには自然にできた。
鏡に映る自分を、何気なく見る。
二十九歳。我ながら、綺麗だと思う。自惚れではなく、事実の確認として。ちいさな頃から「かわいいね」と言われ続けて、大人になったら「綺麗だね」に変わった。その言葉を疑う理由が、あかりにはなかった。
―ただ。
鏡の中の自分が、最近、少し遠い。
「あかりさん、今日どうするんですか?」
松田が更衣室からエプロンを外しながら聞いてくる。
「ケイタと飯」
「あ、まだ続いてるんですね」
「なんか問題あった?」
「いや別に」
と松田は苦笑した。
「先月も先々月も違う人だったから、てっきり」
「失礼なこと言わないでよ」
あかりは軽く笑いながら、それ以上は何も言わなかった。
ケイタ、というのは三週間前に知り合った男で、年齢は三十一、不動産会社に勤めている。顔はまあまあで、話は面白くはないが、食事の店のセンスはいい。あかりが求めているものをある程度わかっていて、求めすぎない。今のところ不満はない。
が、好きかと言われると、わからない。
好きというのがどういう感覚なのか、あかりにはずっとよくわからなかった。
恋をするたびに「これがそうかもしれない」と思うのだが、三か月も経つと霧が晴れるみたいに消えていく。
残るのは、少しの後味と、次に進むための軽い疲労感だ。
エプロンを畳みながら、窓の外に目をやると、雨が降り始めていた。
恵比寿の、細い通り。灯りが雨に滲んで、黄色やオレンジに溶けている。あかりはその光景を、何秒か眺めた。綺麗だ、とは思わなかった。ただ見ていた。
「あかりさん、傘持ってきてます?」
「持ってきてない」
「私の貸しますよ」
「ケイタが来るから平気」
あかりはスマートフォンを開いた。ケイタからメッセージが届いていた。
——ごめん、急ぎの案件が入って今日は無理になった。また今度ね
あかりはそれを見て、三秒ほど画面を眺め、スタンプひとつだけ返した。怒りはなかった。驚きもなかった。あるのは、かすかな脱力感と、今夜の夕食をどうするかという実務的な問いだけだった。
「松田さん、傘貸して」
「え、どうしたんですか」
「飯、一人になった」
松田は何かを察したように小さく頷き、ピンクのビニール傘を差し出した。
あかりはそれを受け取り、コートを羽織り、サロンを出た。
雨は本降りになっていた。
傘を広げ、濡れた路面を歩きながら、あかりはふと足を止めた。なんとなく、空を見上げたくなったのだ。傘をずらすと、灰色の夜空から雨が落ちてくる。水滴が顔に当たった。冷たかった。
べつに意味はない、とあかりは思った。
ただの雨だ。
けれどなぜか、その瞬間だけ、どこか遠くに、自分と同じように夜空を見上げている誰かがいるような気がした。
【第一章・解説ノート:信号と波長について】
この夜、田中誠が解析していた「パルス信号」の発信源は、橘あかりが働く脱毛サロンの施術機器――アレキサンドライトレーザー照射装置の、電磁漏洩ノイズである。医療レーザー機器は照射時に九〇〇MHz帯付近の微弱な電磁波を副次的に放射することが知られており、特に機器に不具合がある場合、そのノイズパターンは不規則性を帯びる。しかし「一号機」が示した波形は、偶然にも特定の規則性を持っていた。それは、あかりの肌のメラニン密度と照射設定の組み合わせが生んだ、ある種の共鳴現象に起因していた。
誠はまだ、それを知らない。あかりはそもそも、そういうことに興味がない。
ふたつの信号は、夜の街を透過して、すれ違っていた。




