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かくして週末の午後、俺とマシューは近くの美術館に来ていた。
目当てはある絵本作家の特別展だ。
名前は知らないけど子供のころに一度は読んだ、そういう作家だ。
美術館もそういうコンセプトで宣伝してるらしく、展示室には何組もの親子連れや恋人たちの姿があった。
ルーヴルほどじゃないがそれなりの盛況だ。
後年は画家としても活動してたそうで、長い通路にビビッドなキャンバスがずらりと並んでいた。
唯一の誤算はそれが全部抽象画だったことだ。
「このうずまき何に見える?」
「カタツムリかな。キャンディーにも似てるね」
なんて会話をしながら、俺とマシューは展示室を出た。
「――――ああ楽しかった。いろいろあったね」
マシューが椅子に腰かけて一息ついた。
時刻は夕方5時を少し過ぎたころだ。
展示を見終わってまっすぐ帰る人もいれば、併設されたカフェでもう少し美術館の雰囲気を楽しむ人もいる。
今日の俺たちは後者だ。
「芸術的だったな。正直半分くらいはよくわからなかった」
「それは僕も」
俺はメニューを開いた。
「何か食べるか?」
マシューは首を横に振った。
「お昼は済ませてきたんだ」
「そうか」
スパイスティーとホットアップルサイダーがテーブルに置かれた。
飲むのをためらうほど熱いはずはない。が、俺はカップで指を温めながらマシューを見た。
「この前は大変だったな。警察に何か言われなかったか?」
「全然。戻ってからはうちの上司と話してたよ。出入口のセンサーが無反応だったから、近々チェックするって。僕は裏庭のフェンスが怪しいと思うな」
「ああ、子供にはいいアスレチックだな」
俺はちらっと向かいの壁を見た。真珠の耳飾りの少女がこっちを見ていた。照れるだろ、あっち向いてな。
「あー……ケイティ・ベイカーさんのことだが」
「うん」
「大学時代の恋人で、いろいろあって在学中に別れた」
『いろいろ』の部分はケイティのプライバシーだ。俺が話すべきはそこじゃない。
「この前会ったのは本当に偶然で、住所も連絡先も知らない。母親になってたことも初めて知った。……別れたのは何年も前だが、やっとさよならが言えて良かったと思ってる」
俺は言葉を切ってマシューに視線を戻した。
マシューは一言、
「知ってるよ」
と言った。
俺は言葉を失った。
マシューは困ったようにくすっと笑った。
「プライベートなことは知らなかったよ。話してくれてありがとう。ただ、きみが今彼女となにかあるわけじゃないのは、なんとなくわかってたんだ」
俺は手品を見せられた気分でマシューの顔を眺めた。
わざわざ話してよかったんだろうか、いや、実際話してよかったんだろう。
マシューは俺の手に手を重ねた。
その指先がかすかに冷えていた。
俺はマシューの手を握り返した。
「僕、彼女のお母さんの担当なんだ。仕事上の情報だから言えないけど、きみと彼女の今を疑うのはちょっと……論理的じゃないなって」
マシューは苦笑した。
俺は両手を上げて降参のポーズをした。
「まいった。俺より彼女に詳しいな」
「書類にあることだけだよ」
マシューは肩をすくめた。片手をカップに触れさせながら、意を決したように唇を閉じる。
「……やきもちついでに一つ聞いていいかな」
「いくつでもいいぜ、なんだ?」
マシューはスマホを出した。
アプリのスクリーンショットだろう。どこかの厨房らしき床と、二人分の手が写った写真だ。
なんの加工も個人情報もなさそうな写真だが、俺には見覚えがあった。
「ああ、この写真……」
俺は言いかけて口を閉じた。
マシューはハムスターもかくやの表情でむくれていた。
「この人誰!」
「職場の後輩だよ。まだティーンなんだ」
俺はマシューの勢いに押されつつ言った。
「僕だって数年前までそうだったよ!」
「今は大人だろ?」
俺は目の前のハムスターのほっぺをつついた。
マシューは肩とほっぺの力を抜いた。
俺はにやけそうになるのを我慢できなかった。
そりゃそうだ。マシューには写真の相手の年なんてわからない。俺と写真を撮った誰かさんを警戒するのは当然だ。
実際にはその子はティーンだから、俺がそっちに行く可能性なんてゼロなのにな。
ああクソ、かわいい。にやけるなよ、格好つかないぜ。
「よく手だけでわかったな」
「わかるよ。きみだもの」
マシューは俺の小指側の手の甲を撫でた。
写真の手は同じ位置に傷がある。とはいってもほとんど治りかけていて、角度的にも見えづらい。
今の俺の手はほとんど新しい皮膚になっているから、鮮明な指の感触がくすぐったかった。
ああ、テーブルの距離がもどかしいな。
店員が隣の席を片づけに来るのが見えて、俺たちはそれとなく手をほどいた。手に残る体温が名残惜しかった。
俺は空いた手で頬杖をついて、唇で指の甲に触れた。
マシューが熱っぽくそれを見ていた。
「出ようか。……夕飯食べていくだろ」
「うん」
◆
帰り道は二人とも無言だった。日が落ちて風も冷たくなってきたのに、じわりと頬が熱い。
急ぎ足の数人が俺たちの横を通り過ぎた。
俺とマシューは道のはしへよけた。コートごしの腕が触れた。
俺はコートの陰でマシューの手を握った。
薄暗い上にこの寒さだ、みんなちぢこまって前を見てる。見えたとしてもまあな、ありふれた光景だ。
マシューがぎゅっと俺の手を握り返した。
手袋ごしだから互いの体温なんてわからない。だからこそ布の向こうの、さっきまで触れてた指をありありと想像できてしまった。
俺は早く家に帰らなきゃなと思った。




