66話 ただの俺、さえ遠すぎて
日常では得られない刺激と経験を。
リフレッシュ研修という名目で訪れた県外でのイチゴ狩りと収穫体験を終え、可南一行は午後の自由時間に街観光へと繰り出していた。
商店のひしめくアーケードを抜け、次は陶芸体験が出来る店へと向かう途中なのだが──
「ねえ、みんな足速くない? 俺のリーチのせいじゃないよね?」
すでにやや息の上がった様子の可南が、汗で額にへばりついた前髪をかき上げながら他のメンバーに声をかけた。
「可南さんが普段より遅いっすね。そんなにウロウロしてたら疲れるでしょう? 俺らの三倍は無駄に動いてますし」
涼しい顔で数歩前を行く龍は、帽子をかぶり直しながら答える。
「えぇ? ……この坂も平気なの? 本当? ちょっと、薫さん」
「引っ張りませんよ。スキーの時の体力はどこ行ったんですか」
薫は一瞬振り向き呆れ顔で「やれやれ」と言わんばかりに両手を軽く広げた。
「スキーは滑るだけだし。これはマズイな……篤史さん! 俺温泉で合流するからこの先任せていい?」
「分かりました。まだ動けますよね?」
「そのくらいの余力はある。龍さんも行って」
「俺は……」
龍は篤史の方を見ると、自分を指さした後に可南を指さした。篤史はそれを見て理解したように片手を上げ、他のメンバーを促しながら先へ行ってしまった。
「……何してるの龍さん」
「俺も疲れてたんで。とりあえず一旦座れる所行きます?」
龍は可南のすぐ前に来て、手を後ろに差し出した。可南は上がった息を整えながら、どこか納得がいかないような顔でその手を見つめる。
「どうしました? いつまでもこんな日差しのとこ突っ立ってると干からびますよ。俺も暑いですし、行きましょ」
少し強引に龍の手が可南の手を迎えに行く。華奢な手のひらと身体の隙間に滑り込んだ大きな手は、そうするのが当たり前とばかりに細い手を握りしめ、ゆっくり歩き出した。
手を引かれながら、可南は龍の顔と足元とを交互に見ていた。彼の歩調が普段自分に合わせてくれている時よりもだいぶ遅い気がして、その原因を探る。
(いつもより歩く速度が遅いな。見た目で分からないだけで、もしかして龍さんも本当に疲れてるのかな? だとしたら……)
「手はいらない、自分で歩ける。その為に早めに離脱した」
強めに言いながら繋がれていた手を振りほどく。それに傷ついた風でもなく、龍はのんびりとした口調で独り言のようにつぶやいた。
「確か、少し戻った所に店ありましたよね。そこで休んでから温泉に向かいますか。陶芸は2時間とってありましたし、結構ゆっくり出来ますよ」
◆◇◆◇
それから五分ほど歩いた頃、段々と歩くペースが落ちていく可南の様子が気になり、再び龍は彼に向かって手を伸ばした。
「俺しかいないんですから意地張らんでもいいと思いますけど。気は変わりませんか?」
「……龍さんも結構疲れてるよね?」
「俺は別に疲れて……ますけど、貴方に比べたら大丈夫です」
うっかり「疲れてない」なんて口を滑らせそうになった龍が慌てて言い直す。ただ二人になりたかっただけです、とは流石に言えるはずもない。
「けど、さっき大分ゆっくり歩いてたから」
「その方が貴方が楽でしょう?」
可南は眉間に小さなしわを寄せ、目の前の気遣いが過ぎる男を窘めた。
「あのねぇ、確かに会社の行事で来てるけどこんな所でまで気を遣わなくていい。他に人もいないし、歳も肩書も俺が上だけどただの俺だよ?」
「『ただの俺』って面白いっすね。ただの可南さんってことですか?」
「そう」
「じゃあただの可南さん、意地張って世話を焼かせる人は呼び捨てしますよ?」
「いいよ」
冗談交じりの願望が許可されて、一瞬停止したあと、龍はすぐさま事実確認に入る。
「……や、えっ? いま、いいよって言いました?」
「いいよ。龍さんならTPO守るだろうし」
「本当ですか? 怒りません? じゃ……えー……かな、ん?」
「ふふっ、なんで疑問形なの」
「慣れなさ過ぎて。ほしたらそっちも呼び捨てして下さいよ。俺だけ呼び捨てしてたら変です」
「そう? むしろ外見的に違和感ないと思うよ。この身長差はどう見ても俺が後輩で龍さんが先輩的なポジションでしょ?」
そう言って可南は自分の頭頂部をポンと触り、その手を伸ばして龍の胸元へ当てた。
「そうかもしれませんけど……それで、手は要りますか?」
「大丈夫。もう少しだから」
◆◇◆◇
《龍視点》
ようやく辿り着いたカフェの席に腰を下ろし、一息ついたところで俺は気になっていたことを可南に尋ねた。
「それにしても、さっきの商店街で何でそんな端から店に出入りするんすか。目ぼしい所だけに絞れば、そんなに動き回らなくてもいいでしょうに」
「さっきのアーケードに何店舗あると思う? 六百店だよ。それだけ店があればどこかに僕らの必要としている情報とか技術、知識の種みたいなものがあるかも知れないと思わない? ただの観光客みたいに買い物だけして通り過ぎるなんて愚かだ」
「でも、疲れきった頭でいい仕事は出来ません。せっかく回るんでしたら店を絞って質の高いヒアリングが出来た方がいいじゃないですか」
「……そこは否定出来ないな。よし、条件絞って半分くらいにしよう」
「まだ多いっすよ。……えっ、もしかしてまだどこか回るんですか?」
スマホで近隣の各店舗の詳細をうんうん言いながら調べている可南の好奇心の旺盛さに、呆れつつも感心してしまう。アイスコーヒーを飲みながら、なんとなくその人の顔を見ていたら、突然薄紅色の瞳と目が合った。
「ねぇ、店に入ってそこにいる人達と話す時ってワクワクしない?」
「……ど、どう、ですかね。話す内容によるかもしれません」
対面で真正面に座ってしまったので、身を乗り出して話してくる可南の顔が近い。俺は視線を逸らせないまま、しどろもどろになって答える。
「僕はどんな話でも人と会う時はいつもワクワクしてる。年齢も人種も関係ない、人の中には僕が知らないものが必ずある。君の中にも、あそこの店員の中にもきっとある。そしてもっと視野を広げれば──」
そこで人差し指をピンと立て、くるりと周囲を指しながら可南は続けた。
「僕と君が見ている今この景色にだって、僕らが知らないことは山ほどある。僕に見つけてもらうのを待っている何かが。そう考えると、この世界って面白いよね」
さっきまでのバテ具合はどこへ行ったのか。活力に溢れ、輝き出したその瞳から目を離せなくなっていた。
自分とは何もかも違うこの人のそばに居れば、自分も自分以上の、何か別の存在になれるんじゃないか。そんな心酔にも似た恐ろしい感覚を覚える。
「……? 顔に何かついてる?」
可南はキョトンとした顔で首を傾け、柔らかな頬が俺の手のひらを押し返した。その温度と感触で初めて、無意識のうちにその人の顔へ手を伸ばしていたことに気づく。
「あっ……いえ、さっき……何かついていたように見えたんですが、気のせいでした」
「ふーん?」
「それ飲んで、少ししたら出ますか。一店舗でも多く回りたいんでしょう?」
可南は軽く頷くと時間の計算を始めたらしく、ブツブツと数字を呟きながらスマホを操作し始めた。その人を見つめたまま、俺は心の中で(どうして)と呟く。
どうして自分ばかりこんなに欲しいのか。二人きりになっても、手を繋いでも、どれだけ近づいても欲は尽きない。
(今まで通り、か)
──本当にその意味を理解して言っているのかって聞いてる。
事故の様な告白をしてしまった日、「今まで通りでいい」と言った俺に可南が返した言葉が今さら胸に刺さる。
あの日から今日まで、本当にこの人は今まで通りだった。物理的に距離を詰めても触れてみても、顔色ひとつ変わらない。
それは俺からすればありえないことだった。普通なら、例え意識していなかった相手でも告白されたとなれば、何かしらの感情が態度や顔に出る。そして、どこかでそれを期待していた。
可南は色恋に鈍いのではなく、そもそも恋愛的思考に行き着く回路自体がないんじゃないか。そんな仮説が浮かび始める。
だから、どうアプローチしようがアプローチ自体が意味を持つ行為として認識されない。本当に言葉通りの「今まで通り」が成り立ってしまうんじゃないか。
(相手に普通の恋愛感情がないっていうのは……)
「……未知やなぁ」
「道? 道なら最短調べたよ」
「えっ、いや……あっ、そうですか。早いっすね」
店を出た可南は、今度は確かな足取りで先を歩き始める。
物事も人もあるがままに見るこの人の世界は、どれだけ美しいんだろう。その背中を追いながら、俺はそんな事を思っていた。
結局、その後も幾度となく機会を窺ったが、あの『呼び捨て』は一度も出来なかった。




