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62話 超えられない時間

 いつもの朝、いつものオフィス。

 いつも通り向こうからやってくる可南に挨拶しようとして、その顔立ちに違和感を覚えた龍は足を止めた。


 違和感がどこから来るのかよく見てみると、目元や瞼のあたりが普段より赤みを帯びて腫れぼったくなっている。後ろからやって来た凪も、小さく首を傾げて可南を見ていた。


 凪と龍に道を塞がれた可南は不思議そうな顔をして二人に話しかける。


「おはよ。どうしたの? 二人とも固まって」

「あの……何かあったんですか?」

「あ、僕もそれを言おうと……。顔が、なんていうか……目とか一重っぽくなってますよ?」

「あぁ。これはちょっと……色々あって。まぁ気にしないで」


 可南は両手を軽く広げ、半ば投げやりにも見える仕草をした。


(そうは言われてもだいぶ泣いた感じの……でもその割に本人元気よな? 一体何が)


 龍が心の中で首を傾げていると、フロアの奥から軽やかな足音が近づいてきた。 ゆるく両サイドにまとめられた三つ編みを弾ませやって来たのは桜だった。


「あ、可南君おはよぉ~❀ 朝から何かあった?」

「あ! 桜! 俺はまだ許してないからな!

「え? 水野さんに何かされたんですか?」


 凪が興味津々といった様子で二人の顔を交互に見比べた。可南の露骨な怒りに、桜は気まずそうに眉尻を下げた。


「えぇ? 昨日より怒ってる~。だって柳橋くん毎日LINEしてきて……その顔どうしたの? 服も昨日と同じだし、家帰ってない?」

「帰る時間がなかった」

「もしかして……どうしよう、ごめんね。私……そんなことになるなんて」

「ちょっと桜さん? そんな顔されるほど悲惨な事は起きてないから一旦頭をリセットして?」

「……え? そうなの? 良かったぁ。いくら柳橋君でもそこまでしないよね❀」

「そこまで……? 一体なにを想像してたの?

でもあの後大変だった。本っ当に。桜の業(ごう)だから聞け」 

「う、うん」

「桜と別れたあと、駅に向かう途中であいつとのぞき犯を捕獲する羽目になるわ、この歳で人前で喧嘩して醜態晒すわ、挙げ句の果てに気づいたらあいつの家に持ち帰りされててもう本当にろくな事にならないだろ!」


 それまで二人のやりとりを傍観していた龍は「持ち帰り」という不穏な言葉を聞いて、にわかに胸がザワつき出す。


(気づいたら持ち帰……!? どういう状況? それにその顔……いやいや、でも雰囲気的に強引にって感じでもなさそうやからあくまでも友人として? いやどんな?)


 話の内容こそ穏やかではないが、可南の口調にはどこか親しい相手に向けるような甘えと気安さが滲み出ていた。


「えぇ~? のぞき犯って、前も二人で似たようなことしてなかった?」

「あれは駅で痴漢を押さえただけだ」

「あ、柳橋君は私たちの高校の時の友達なんだけど最近偶然再会してね。可南君は嫌がってたんだけど私が会う機会作っちゃって」


 桜が龍と凪に柳橋を軽く紹介する。話の内容の濃さにあっけにとられていた凪が感心したように声を上げた。


「へぇー! 可南さん相手に喧嘩した挙げ句持ち帰り出来るなんて……なかなかやり手な方なんですね」


 可南はそれには答えず短く息を吐いた。

 隣にいた桜は可南の顔をのぞき込むと、おもむろに腕を伸ばし手の甲で可南のまぶた周辺に触れる。


「えっと……じゃあこれは喧嘩が過ぎてこうなったのね。保冷剤あるからあげようか? 会議とかあるならさすがにその顔ちょっと目立つかも。結構、熱もってる」


 今の今まであれだけ文句を言っていたのに、大人しく目を閉じて彼女の手を受け入れるその姿は、まるで親に熱の確認をされている子供のようだと龍は思った。

 この二人にとってはこれが普通の流れなんだろう。


「助かる。でも俺は許してないからな」

「だからごめんねって」

「あと、もうそっちに柳橋から連絡はいかないと思う。今までごめん」

「そっかぁ、友情は再開したんだ❀ ホントだよぉ~、可南君の仕事場はどこだとか、出勤退勤時間は何時だとか、行きつけの店はどこだとか、柳橋君毎日毎日しつこくて」


 それを聞いてあからさまに可南の表情が曇る。


「やっぱり……本当ろくな事しないんだよあいつ」

「よぉし、この件はこれでめでたしめでたしって事ね❀」

「いや、貴女にハメられて俺が被害を被った件は別だよ? 何奢ってもらおうかなー」

「んもぉ!」


 わあわあと言い合う二人のやり取りを見つめながら、龍は胸を内側からかき回されるような、不快とも痛みとも言える感覚に襲われていた。


(そりゃ古い友人くらいいるわな。当たり前だ。誰にだって学生時代の友達くらいいる。でも……そいつの前ではこの人は、酒や薬で理性を飛ばさなくてもこんなに目を腫らすほど泣くことが出来るのか)


 何かが吹っ切れたような陰りの無いその人の笑顔から、龍はついに目を逸らしてしまった。

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