7話 秘匿の器(旭視点)
朝から小雨が降っている。
猛暑続きで湯立ったような熱気を放っていた地面も、これで少しは冷めるだろうか。
今日は朝からオンラインでの打ち合わせが入っている。簡単な身支度を整えながら、旭は事前に共有されていた資料の確認をしていた。
(桐生さんのは議題が細かく設定されていて見やすいな。具体案が少し弱いから、今回は……まぁそうだな、この項目を増やしてもらって、と)
あらかた確認を終え、一息ついたところで予定の時間になった。画面が繋がり、打ち合わせは順調に進む。
――だがその途中で、唐突に俺の耳がある『声』を捉えた。
気付けば窓の外では雨脚が強くなっており、ザアザアという激しい雨音に混ざって響いてくる。画面の向こうの音声に集中しようとすればするほど、脳内でこちらの声とあちらの声が綺麗に区別され、よりはっきりと鼓膜の奥に届いた。
その声は、今日も俺の名前を呼んでいた。
嫌な動悸がして背中に冷や汗がじっとりとにじむ。思考の7割近くは、その声を意識的に遮断することだけに割かれていた。当然、画面の向こうへの反応は遅くなる。けれど、このくらいならラグともとれる。画面越しの相手には気づかれないだろう。
俺は冷え切った指先で平静を装い、淡々と打ち合わせを進めた。
◆◇◆◇
俺には、誰にも言えない秘密がある。
そして激しい雨音は、いつもそれのトリガーだった。
幻聴から始まって、やがて呼吸困難に陥り、激しい精神不安に襲われる。自分でもおかしいと思って調べた時は、パニック障害や過換気症候群がもっとも客観的データとしてしっくりくるかと思った。だが、実際に医者の話を聞くとどうも違うし、何より引き金となる事象の原因が分からない。
『過去に、何か命の危機を感じるような体験はなかったか?』
医者にそう聞かれたが、その体験には雨が絡んでいない。
ならば、これは一体なんなのか。もういつから始まったのかさえ覚えていない。通常の雨や、周囲の雑音で紛らわせられる状況ならばまだ問題ない。
けれど、バケツをひっくり返したような豪雨になると、自分を呼ぶあの声はすぐ近くで聞こえる。そのうち胸が物理的に詰まったようになり、上手く息を吸うことが出来なくなるのだ。
それでも、立ち止まってはいられない。
大学に入ってからは、普通に日々を過ごすためにずっと薬の力を借りてきた。
その声に名前を呼ばれるたび、肺の奥が締め付けられる。もう少しで終わる。もう少し、もう少し。
「……いいね、じゃあそれで進めて下さい」
汗ばんだ手で、やっとの思いで通話を切った。
俺は流れるような動作で動画サイトを開き、適当な動画を再生して空気を強制的に塗り替える。
重い頭を抱えたまま、画面から流れるはしゃいだ声と、無駄に明るいBGMの方へ必死に意識を向け、浅い呼吸を整えた。
まともに身体が動かせるようになってすぐ、デスクの引き出しから薬を取り出して飲む。そして、まだ大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように深呼吸を一つした。
「もう一回、処方変えてもらうか……」
少し前にベッドの上で短く鳴ったスマホの着信音は、俺の耳には届いていなかった。




